ヒップホップの夜明け 1974年 ニューヨーク
ジャマイカからニューヨークに移住して7年、クライブ・キャンベルはアメリカ市民としてすっかり地元のコミュニティに溶け込んでいました。
高校3年間は学生相手に細々とハウスパーティーを開いてDJを気取っていたクライブでしたが、高校を卒業すると同時に、自らが考案したDJネーム、クール・ハークとして世に打って出る決意をします。大音量でも音質がクリアで劣化しないサウンド・システム「ハーキュローズ」が、彼の 最大に武器でした。そのサウンド・システムが発する音はまさに爆音で、どんなに離れている観客にも彼の音を届かせることができたといいます 。
クール・ハークのデビューとして彼が選んだ会場はストリートのオープンスペースでした。ブロック・パーティーです。ブロック・パーティーとはもともと地元のコミュニティの人々が祝祭日などを祝うための集まりでしたが、1970年頃には若者たちがバーベキューやゲーム、ダンス目的で集まる野外パーティーへと趣向が変化していました。
ブロック・パーティーは基本誰でも参加自由でした。新しい音楽に飢えた若者、ダンスホールやクラブに出入りする経済的余裕のないストリー トダンサーたちも集まってきました。中には、ナイフを持ったギャング団の連中や麻薬の売人たちも紛れこみますが、クール・ハークはそういう犯罪 に加担する人物の出入りを断固阻止しました。それが奏功したのか、彼の主催するパーティーには、老若男女問わず大勢の人々が集まったといいます。
あるパーティーの夜、クール・ハークは重大な発見をします。ダンサーたちが曲のある一定のパートがくるのを待っていることに気づいたのです。 曲中の短いインストゥルメンタル・パート。そこにくるとダンサーたちはより激しく躍動し始めました。メロディもコーラスも歌もない、リズムセクションだけがグルーブを創り出しているブレイクといわれるパート。クール・ハークは楽曲中のブレイクに着目し、照準を定めました。ターンテーブル二台と同じレコード二枚を使い、一枚のレコードのブレイクが終わるともう一枚のレコードのブレイクを始める。「メリーゴーラウンド」と彼が自ら名づけたテクニックです。こうすることで5秒間のブレイクは5分以上持続可能となりました。これがいわゆるブレイクビーツ(Break Beats)です。
やがて、グルーブ感を持ったブレイクのある楽曲のみを、クール・ハークはかけるようになりました。たとえば、インクレディブル・ボンゴ・バンドの「アパッチApache」や「ボンゴ・ロックBongo Rock」、ジェームス・ブラウンの「Give it Up or Turn it Loose」など。クール・ハークの編み出したDJプレイに、ダンサーたちは大いに盛り上がり、賛辞を送りました。と同時にクール・ハークは、ブレイクビーツの間に踊る尊敬すべき優れたダンサーたちを、B-BOY(もしくはB- GIRL)と名づけ、讃えました。
噂が噂を呼び、彼のサウンド・システムと彼の名はサウスブロンクス中に広まり、DJとしての地位は不動のものとなりました。DJクール・ハークことクライブ・キャンベル19歳の夏の出来事でした。
『ヒップホップ・ジェネレーションの始まりはいつなんだ? その問いに私はこう答えたい。DJクール・ハークとアフリカ・バンバータのあとだ、と』(ジェフ ・チャン著「ヒップホップ・ジェネレーション」)
「ヒップホップ」は、「ヒップ(格好いいという意味の俗語)」と「ホップ(飛び跳ねる、躍動する)」というふたつの単語をつなぎ合わせた造語です。 1973年頃に、ラブバグ・スタスキというDJがあるパーティーで皿を回している時に、フロアーにいるダンサーたちを見て、ヒップ(Hip)な奴らがホップ(Hop)していると表現したのが"HIPHOP"の由来であるというという実しやかな風説が囁かれていますが、真相は定かではありません。インターネット・ディクショナリーのウィキペディアでは、「1974年、アフリカ・バンバータによる造語」となっています。それもまた疑問符のつくところです。しかしながら、バンバータがDJクール・ハークと時を同じくして、「ヒップホップ」の成り立ちに深く関わっていたことは紛れもない事実です。
アフリカ・バンバータは十代半ばにはすでに黒人組織のリーダーとしての肩書きを有していました。若くして先見性とカリスマ性を兼ね備えたバンバータは、常に周囲から一目置かれる存在でした。
1974年、バンバータは自身の組織「ズールー・ネーション」を立ち上げます。その組織には、ブレイキングダンサー、DJ、MC、グラフィティ・ライターら新世代の黒人カルチャー「ヒップホップ」を標榜する若者が多数参集しました。バンバータはそこでヒップホップに関して、グラフィティライティング、ダンス(ブレイキング)、DJ、MC(のちのラップ)が「ヒップホップ」の四大基本要素であると提唱しました。
無類のレコードコレクターでもあったバンバータは、DJクール・ハークが開いたのと同様のブロック・パーティーを各地で催します。その目的は、暴力や麻薬が黒人のストリートライフだと錯覚している若者たちに、まっとうな生き方を授けることでした。ストリートギャングなる生き方は、いずれ時代に取り残されていく。暴力や麻薬がファッションだった時代は終わったのだと。
DJクール・ハークが「ヒップホップ」の音楽的側面を構築した人物だとするならば、アフリカ・バンバータは「ヒップホップ」の社会的意義を唱え、「ヒップホップ」を新たな黒人文化に押し上げた立役者なのです。
B-BOYはもともと、DJクール・ハークのパーティーに集まった優れたブレイキングダンサーに授けられた名前でした。しかしブロック・パーティーなどを通じてその呼び名が知れ渡り、翌年にはブレイクビーツに合わせてブレイキングするダンサーたち(上手い下手にかかわらず)の多くが自らをB-BOYと名乗るようになっていました。自宅や倉庫が彼らの練習場所でしたが、ストリートギャングが衰退していくのに従って、彼らのステージはストリー トへと拡がっていきます。ストリートで彼らは、揉め事を解決するためではなく、ただダンスの勝敗を決するために相手を求め、バトルを繰り広げるのです。
B-BOYの中には過去にストリートギャングであった経歴の持ち主が少なくありませんでした。かつてストリートギャングだった者たちが、DJクール ・ハークの影響を受けて転向したり、アフリカ・バンバータの脱暴力の呼びかけに応じてダンスに専念するようなりました。ストリートギャング時代には街なかで起こるいざこざや揉め事を暴力で解決していた彼らでしたが、クール・ハークのグループやアフリカ・バンバータ率いる「ズールー・ネーション」の一員になると、ヒップホップの流儀に従い、いざこざや揉め事をダンスで決着しようという流れを創りました。これは1900年代初頭に、 ニューオーリンズで生まれたマルディ・グラ・インディアンのギャングの様式や、1920年代にハーレムで生まれたリンディ・ホッパーズの精神を踏襲したものといえます。
大きな争いになる前にダンスで黒白をつける。争いは望まないが、戦う姿勢は見せる。従ってダンスの中に、相手を威嚇したり、挑発したり、殴る真似をしたり、勝ち誇ったような態度をとったりする動きが多分に残っているのです。
B-BOYが行うダンス(ブレイキング)のことをB-BOYINGと呼ぶことがあります。B-BOYINGとブレイキングは見かけも中身も同じダンスです。で すが、B-BOYINGこそがブレイキングの正式名称なのだと強く主張する人がいることからも分かるように、B-BOYINGという言葉が使われる場合、そこに特別な意味が込められているといっていいでしょう。
ちなみにブレイキング(B-BOYING)は、しばしば「ブレイクダンス」と表現されます。ところが「ブレイクダンス」はメディアが勝手に創り出した言葉であって、B-BOYが自分のダンスを「ブレイクダンス」と表現することはあり得ません。ではなぜ、メディアは「ブレイクダンス」という言葉を創り出したのでしょうか。