一時間前、一照さんと久しぶりの電話。

「氣道祭」にいらっしゃれる事となった。

話は横田南嶺師から五十部泰石老師にも至り、

ちょうど老師にも連絡しようと試みていたので驚いた。

 

ところで悟りというものがあるとするなら、

それは今の中しか無い。

ただ、その今に成り切る(即今底)ための工夫が必要な場合も多い。

最高の工夫は自動運動だと晴哉師は言うが、

それにはその為の工夫も要る事を忘れやすい。

それは、様々な工夫、努力を通じてしか悟れない、

という根底を捨てるという工夫であり、

若き晴哉師の言葉を借りれば迷悟一如ならぬ“迷い無し。悟り無し”となる。

即ち今に成り切るという工夫に戻る。

 

それは元より悟っているからこそそれとして生きる事であり、

だからこそ澤田老師は座禅する姿自体が仏である、と言うのである。