皆のために生きる。
社会のために生きる。
世の中のために生きる。
──よく聞く言葉です。
そして私もこの年になって、
(一回りしたので2才)
その気持ちが分かりかけてきました。
いらっしゃった方々のお体を“整体”にしたい。
その気持ちは、この37年間変わりはありません。
ただ、全員のため、社会のためとは分かりづらかった。
もちろん、一人一人の生命が輝くことによって、
それが、大河の一滴となって、社会~世の中にも拡がることを願っていましたが、
最初からそれを…という意識は持ちづらかった。
野口晴哉師は、
「私は社会というものに出会ったことはない。
いつもその人その人という個人しか出会ってなかった」
…というような言葉を遺されていますが、
私もそうだった。
しかし彼は、
文庫になったエッセイ集の中でも、
世の中に対する意識、
「そうした人は、たった一人の人が苦しんでも」
と、逆のような表現もされています。
世の中って無いのです。
それは、その人の中の世の中像に過ぎません。
しかし、多くの方に、世の中のためにという意識は美しい。
その無い世の中に対して貢献したい、
ということは、どういうことなのでしょうか?
世の中とはなんぞや?
でもでもでも…
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世の中とは私像です。
私の考えている移しです。
ですから、
通常の世の中のため、
というのは、一人相撲でしょう。
自分の潛在意識との格闘あるいは援助でしょう。
先の「でもでもでも…」
という、
それでも皆に対して貢献したいんだ、
という意識を持ったとき、
それは、自身の潛在意識を超え、
何かもっと違うところにもいくような気がします。
反対にポカンと(ボーッとではなく)すれば、
自然とそうした意識を持つような気もします。
何にせよ、自分が捉えているものは自分の映し。
そうでなく、止むに止まれず、貢献したい、という気持ちは、
とっても大切で美しく、
それが私たちを生かしめている本源である命の働きのように思います。
私たち(当会)では【空の学校】(【心の学校】advance)にて、
ポカンとしていく、
そしてポカンそのものになっていく、
その援助をしていますが、
すると自然にそのような気持ちが訪れるように思います。
そのときの世の中とは私そのものといってもいいでしょう。
皆のため、世の中のため、
という思考からではない皆のため、世の中のためという意識。
私はその感覚を“慈悲”と呼んでしまっているのですが、
その感覚や、
その感覚に対する呼称はともあれ、
そうした皆に対する、世の中、全て、果ては神に貢献したいという
意識の運びとは、
すべてほんとうの私である源、空、神、命に向かっていると思います。
私という個体が、
命からの運びを得て、
その命そのものである神、
ほんとうの私に戻っていく流れなのかもしれません。
──“氣道”
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追伸・本日、東洋医学のメッカ書店である谷口書店のサイトより、
私の動画が配信されたようです。
私の動画はユーチューブでも多数ありますが、
特に、整体操法にご関心のあられる方は、ぜひご閲覧ください。
(「手技療法」とか何とか検索キーを入れると出るそうですが、
もっと分かりやすい手続きは、明日まっちゃん(スタッフ松岡)が、
この日記ブログにて書いてくれますので、
どうぞご参照下さいませ)
※こちらをクリックして頂くとご覧になれます!
↓
https://www.youtube.com/watch?v=Ug6E-Vl8nXo
https://www.youtube.com/watch?v=k6gsfwh_XUo&t=79s
https://www.youtube.com/watch?v=tbt0cWBE4A8&t=63s
(松岡)