雅子さんだったかなぁ。それとも真さんだったか。

旧年の整体法マスターコースの折りにお薦め本として教えて頂いた。

拝読するに、書名でもある「椅りかからず」はまさに【氣道の学校】で得られるもの。

即ち“氣道”。

解説によると(128頁)この詩が生るるまで40年以上かかっているとの事。

 

私も色々なものに椅りかかっていた。

今も、空気、食事、その他。

そしてここでいう知識的なことでは野口整体に椅りかかっていたこと、

自然治癒力があるということに椅りかかっていたことに、

内観により20数年前に気付いたが、

今だ、その日その時の影響によって訪れる観念に左右されている自分の無意識に気づく。

 

人が二の足で立ち、歩く、ということは、

互いに椅りかかってしか生きていけない、ということに気付き、

その上で、その背後の詩に沿うことだ。

 

釈迦は無我という自由意識無しから仏の促しをいうが、

晴哉先生は宇宙生命あるいは自然という言葉を用いてそれをいう。

 

あとは「マザーテレサの瞳」も同感だった。

118頁の「行方不明の時間」も。

 

まるで以前に続けていた『読書日記』の如くだが、

それも今は続けられない状況なので、

気ままに書かせていただい。

 

凡ては神々のリーラであるとベーダではあるが、

それは詩である。

 

雪の結晶を美しいと思うのが人あるが故なら、

詩も美も人あるが故、

そう言い続けていた晴哉先生の気持ちが分かった。