今、実家(湘南道場)。
母が眠り、私の時間となった。
(私って何?)
母は母。
家族。
そうした血縁を家族という。
私たち“氣道”協会では、
スタッフは家族のようなものだといっている。
そこには血縁は無い。
【整体の学校】でよく読み上げる晴哉先生の「師弟問答」の文章には、
「親でも兄弟でも同じ意志でなくては・・」
というくだりがある。
志といってもいいだろうが、
生をどう捉えるかという、
根本的な立処だろう。
その立処がある方を私は家族と呼びたい。
そのためスタッフは家族のようなもの、と言っている。
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その家族の家族が会員であるが故に、
「道場ではマスクを必ず外してください」
と数年前から言っている。
それぞれの観念体系も尊重したい。
生きとし生きるものはすべて青空からの流れであるが、
人はその雲の中で思考~観念を持つ。
マスクを外すべきだというのも観念。
パスワードは人に教えてはいけないというのも観念。
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晴哉先生の家族という概念(観念)が正しいかどうか分からない。
みんなそれぞれに自由な観念を持っていい。
ただ、人を殺害する人とは付き合いたくない。
その延長として、
マスクをする人とは付き合いたくないだけ。
薬や注射を大切に思う人とは付き合いたくないだけ。
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私にとって家族とは、
同じ志を持つ者である。
血縁でなく心縁である。
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しかし母は愛おしい。
妹も愛おしい。
そうした血縁の愛おしさをきっぱりと捨てた
否、捨てるべきという立処を伝える晴哉先生に
見事さを感じて30年。
しかし、それでも・・
という感情的な部分が拭いきれない自分が膨らみつつあるのは、
年のせいであろうか。
小津の影響だけではない。
而して、家族が往々にして、
その志を共にする、あるいはその志を触発することになっているのは、
血縁の不思議でもある。