“氣道”の目的はそれのみ。
いつも“氣道”の目的は「整体(自然体)」という状態にある
と言っているが、
そして、そのように人間のみならず生きとし生けるものはそのように作られている、
と言っているが、
整体の状態にあれば全生でき易い。
つまり、
生命の運びが整体に戻ることを目指し、
全生せんとしている。
神は賜ものでもある、と言ったのはスコヴル・シンであるが、
源自体が全生でもある。
その事を知るに、
整体という状態になってからではなく、
否、整体という状態に戻すためにも、
全生しよう。
自然に即ち源の促しと共に生きよう。
失敗は無い。
余分な名前をつけずに生き生きと生きよう。
それを“氣道”(健康自然道)と言っているだけ。
どうあっても、
あなたが後悔していることは名前(言葉)。
あなたが嬉しかったことも然り。
その名前の枠組みは「過去」という名前にもなる。
生き生きと生きよう。
生き生きと生きるためにどうしたらいいのか。
否、そんなことも考えずに、
まずは、今、行いたいこと、
感じていることに向かおう。
生の運び───
それに殉ずるためにこそ“氣道”、
【氣道の学校】という接心があるが、
それは現代版の禅に過ぎない。
晴哉先生が最も行いたかったこと。
それを信じて、
NSK(野口整体研鑚会)の中心として
【氣道の学校】を行っている。
いつまで生きられるかは誰も分からないが、
死は刻々と訪れている。
明後日から「真の滝行」を行うが、
この31年間、毎回死ぬかもという恐怖と共に入滝している。
今だ、死が怖いのか。
否、ここで死ぬと、その後の皆さんに迷惑がかかる、
という思いが強い。
しかしそれも先に言った「過去」という記憶。
後ろは無い。
前も無い。
その全てが無いところのど真ん中で生きようではないか。