傍らに愛する者がいる。

年齢と現在の様々な波による変動はあるが

呼吸も脈も正常。

読んでいるのは昨日のこの日記で書いた本の続き。

それが続きでない事は誰も咎められない。

そう、私たちは昨日の続きで生きているのか?

 

と或る方と対峙した。

学んだ。

その道に精進していると、

同じ道で学んでいると、こちらもノンバーバル(非言語的)に学べる。

だからこそ内弟子という形が以前にはあった。

 

ただそれは、学ぶものがオープンであること。

オープンというか、謙虚であること。

謙虚というか、まっさらであること。

まっさらというか、とにかくひたむきであること。

道に対して。師その相手に対して。

 

学ぶということはそういう事なのだろう、

と改めて学んだ。

 

今日学んだことのもう一つは、

基礎ということ。

これは深い。

何を持って基礎というのか。

 

たとえば整体(操法)の世界なら、

愉氣を基礎とするのだろうが、

それは技術ではない。

どの道も、それを前提としての基礎がある。

その意味での基礎である。

 

となると、整体(操法)の場合、

背部操法や腹部操法の基本的な形となるが、

そこに奥義が詰まっている。

そして、それだけで調整(調律)出来る。

 

そんなことは分かっているが、

反対に、それだけでは調律できないような不整体の方だったらどうするか。

否、そんな人はいない。

というか、それこそこちらの技術の問題になる。

不整体度合によっても違うのであろうが、

それなりに対応できる。

 

大切なのは不整体の人にある命の働きをみるかどうか。

もっと大切なのは、その人自身が、そうした自身を生かしめている命の働きを、

信じているかどうか。

 

信じようとしているのでは信じていない。

信じているとは、

当然のこととして、赤子の積極性があるかどうか、という事。

 

そう。

死ぬまで、赤子の積極性はある。

四日前までは。

 

 

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すべては自分の捉え方に過ぎない。

つまりすべては思考の遊びである。

しかし、その思考はどこから来るのか?

 

真剣に考えるとき、

その考えは、考えでないところに潜っていく。

 

いみじくも私が“氣道”を今でも伝えたいのはその所以である。

 

そして、その果ては、いつも天行健に驚く。

それをアジャは「心配なく。それでも万事上手くいっている」とか

トーシャ・シルバーは「すべては上手くいっている」とか表現する。

 

 

傍らの愛する方が次の頁を捲る。