この日記は今朝の続きである。
つまり「野口晴哉の真髄」の続きである。
合間の時間にシュタイナーを読む。
数十年ぶりのことであるが、
なぜか明日からの講座に関係するのではないか、
と思って数日前に注文したのが届いたからであった。
「神智学」(ちくま文庫)
シュタイナーの本を読むのは数十年ぶりと書いたが、
それには理由がある。
とはいっても、多くの方はご存じのはずだから、
ここでは割愛しよう。
(いつか巌先生(私の霊的祖父である)のことを含めて、
細かく語れることもあるのかもしれないし)
一言でいえば、折込み済。
(明日からの野口晴哉の真髄の講座(【体の学校】~【心の学校】)に)
本当の禅は然り。
而し、接心はなぜ悟ることだけを目的とするのか?
ノンデュアルティーのMK氏との面談で
「あなただけにお伝えしたい。多くのノンデュアルティーの人でも┄」
と言われた事がある。
そう。
悟りまでだけが禅ではない。
それなのに何故それだけを目的とするのか。
否、相対世界の重要性こそ伝える禅師もいる。
アジャシャンティ然り、ステファンボディアン然り。
そしてそれらの素晴らしさ。
それ故、先日、京都(栖賢寺)にて、
「アジャシャンティと野口晴哉」
という講座を行った。
(その続編を今度、「体癖講座」という題名で、
行いたく思っているのだがどうなるのか)
最後に、
「その意味で、シュタイナーは相対世界の重要性という意味で、
本当の禅を補うものであろう」
と書きたかったのであるが、
鑑みると違う。
それは野口晴哉師が医学の改革と称して整体操法を創ったあと、
すべての病気(症状)に対してのアプローチをまとめたのと同様の感がある。
晴哉師を否定する者でもシュタイナーを否定する者でも無い。
ただ、それは相対世界の中での文法であり、
それはそれで素晴らしいことであるし、私も来年より「NSK」として行うのであるが、
ただ、アジャシャンティ達が伝えていることとは異なる。
もっとシンプルにいこうではないか。
とはいっても、
達磨は、終生、片方の目しか伝えなかった。
悟りばかりである。
だからこそ片目なのだろう。
(注(重要)、実は両方を伝えていた。
のみならず達磨は相対世界での言行も統一されていた)
ちなみに私は両盲である。
今も闇の中、手さぐりのまま生きている。
何が真実なのか?
触れたものは何なのか?
それを晴哉師も行っていたのだろう。
指で感じたものしか信じない、という。
その感覚はシュタイナーのいう五感、仏教でいう五蘊の範疇を超える。
そして前回の最後でも述べたように、
整体操法や心理療法を通してそれらも訪れる。
五感を通して五感を超える領域に導かれる。
それ故、相対世界の重要性もある訳で、
そこが多くの禅が片道、片目だけという所以であるが、
両盲である私には語る資格は無い。
資格は無いが、
凡人が日々こつこつと紡いでいたことを、
明日より共に研鑚だけはしたい。
合掌