珍しく夢を見た。

しかも自覚夢(覚醒夢)で、多く遊んだ。

そこが現実では出来なく、夢だからこそ出来ることだが、

実は、現実は夢以上に自由なところがある。

というか、夢よりもはるかにはるかに自由なんだ。

これを知る(感覚できるかどうかが氣道にとって、とても大きなポイントだと思う。

 

起床後、夢の内容を俯瞰し、

学び、というか潛在意識の示唆に気づく。

 

邪気呼出法~自動運動を今朝は十数秒。

 (「まだ、そんなことやってるの?

  いまだ、そんなことやらなくては整体を維持できないレベルなんだねぇ」

  …と言われそうだが。。(^_^;) )

 

飲水~バッハの水出し珈琲を味わいながら、

マインドブレインアウェイクという昨日横浜道場内で見つけたCDをかけ、

身体(特に視床下部)への影響を体感しながら、

日本文化に貢献する。 

 

何しろ明々後日(月曜日)には、

待ちに待った激指15が届くのである。

となると、

今、コンピューターに入っている激指13、14、

そして現在最も強い激指定跡道場4

ともお別れすることになるため、

今日は彼らを思い残すことなく薙ぎ倒さなくてはならないからだ。 

 

せっかくなので、それぞれ最強レベル(プロレベル)と対戦したところ、

2勝5敗。

反対に薙ぎ倒されてしまった。

しかし、これは私が3面指しだった(同時に三つのコンピューターを相手に戦った)

からだろう。

 (あと、先のCDの身心への影響を体感しながらだったのと、

  「食品の裏側」「コンビニの買ってはいけない、買ってもいい食品」

  その他一冊を読みながらだったからだろう。)        ←完全な言い訳やん。

 

その後、厠にてクリーニング。

詰め将棋を2題解き、

さらに日本文化に貢献す。

 

納屋(自室)に戻り、

呼吸法(ナーディショーダナ・プラーナヤーマ&スクハプルバク)を行い、

インド文化にも貢献したあとは、

“脊髄行氣法”を私なりにしっかりと数回行い、

そして瞑想。(座禅)

 

現実というこの夢の世界に戻ってから、

また日本文化に貢献したくなり、

升田幸三という私の最も好きな棋士の棋譜を並べる。

 (名人戦での一手に、むせび泣いたこともある。

  単なる3五銀という記号なのに。。

  私にとって、升田幸三と天野宗歩は共通した美しさがあって、

  その美しさは、野口晴哉師の最晩年の“和敬清寂”という書に通ずる。

  私は、その書の前で動けなくなり、

  時計を見たら、1時間半が過ぎていた。

  そして、そのあとも、その書のままで端座した。

  その峻烈で、まったく透明な氣は数日間、

  私をして、身体の感覚を覚えぬほどだった。

  絵や音楽にも、たとえようともしたが、しいて言えば、

  1910年代のパブロ・カザルスが近いが、

  あのクリアで純粋な雷光には、そぎ落とさなくてはならない余分な音(倍音)を感ずる。

  ただ氣は近い。)

 

次の升田幸三の一手を考えながら、

コンピューターに入力する。

そして、コンピューターの最善手を見て、

三人の見解を照合する。

これは、私の編み出した?日本文化上達法の一つである。

 

その後、道元の書を幾つか再読する。

 (宝慶記や法語。

  一昨々日、野口晴哉師が良く例に出す普勧座禅儀を再読したので、

  その続きである)

 

ここに至って正午になる。

休日の今日は、

やはり日本文化に捧げる日でなくてはなるまい。

実際の人間とも指さん、と古淵に行く。

 

そこでは、49連勝したこともあり、

私は、古淵の藤井総太と呼ばれている。 ←呼ばれてない。

道中、道後、

それこそ升田幸三も瞠目したという山本玄峰老師の

「無門関提唱」を読む。

 

諸種のトーナメント戦やリーグ戦で優勝しているTさんと

25分切れ負けで指す。

初戦は良かったのだが、

次局からは、いつものように序盤必敗、

最後のマクリで逆転するという、

いつものパターン。

 

そう、私は升田幸三が最も好きであるが、

小池重明や特に美馬和夫の大ファンでもある。

だから、私の将棋の棋風は、

上記の四名を足して     ←それを1000で割った

棋風といえるだろう。

 

「勝ち逃げだー!」

という背後の声を申し訳なく思いながら、

チッチッチッ、もてる男はつらいぜ、と、

寅次郎(渥美清)の気持ちを味わいつつ

古淵駅に向かう。   

 

そう、私には愛する家族が待っているのだ。

帰路中、コンビニに寄り、

今朝、読んだ本にも書いていなかった、

麦のジュースを購入する。

なぜか、私の左手が、三角形の形をした

ふわふわとした推測触感のものに伸びていく。

しかし、私は子供ではない。

幼児である。   ←阿呆だろ。

理性というものがある。 ←あるのか?

意識というものがある。 ←ないと思う

 

今朝、見たばかりではないか。

そう、ここでは書くのを忘れていたが、

なんちゃって自動運動をしたあと、

日本文化に貢献する前、

中村天風よろしく鏡のワークをしたときに、

否、正確には、「しようとしたとき」に、

気づいたではないか。

 

本来、眉間を注視しなくてはならぬところを、

どうしても、視点が下がり、

口の端にいってしまったことを。

そして、そこで発見したことを。

 

その白い微粒粉は、聖なる灰、

ビブーティと言われているが、

そこで私の目は、

また下(正確には左下)

にいってしまう。

そこには、

その灰の原型を包んでいたビニールの亡骸が、

クシャクシャと、まるで自分を消すように、

無かったことのように、

隠れようとしているではないか。

 

もとい。

そうした夢を今朝、見ていたため、

私はコンビニでも魔に打ち勝つことが出来たのである。

 (渥美清だけでなく、

  釈迦牟尼仏陀の最後の試練の気持ちまで味わえるとは。

  まさしく法恩である。

  これを英語でポーンと言い、

  ついに私の一日は、英米文化にも貢献できたのである)

 

帰宅。

「ただいま~」

「お疲れさまでした~」

「いやいや、今日もねぇ」

と、

静かなマンションの一室で、

一人で会話をする。

 

そして、

私をほんとうに愛してくれている

この日記に向かったのであった。

 

皆さん、ありがとうございます。

こうして、私は今日一日を思い返し、

真の愛を捧げてくれる存在がわかりました。

 

この愛を忘れず、

そして、それを明日からの「整体マスターコース」でも

お伝えしたく思っています。

 

※後半、なぜかまた「夢日記」になってしまいました。

  きっと、何か、抑制したことがあったための反動に違いありません。

  これをご覧になっている皆さんの歓びを祈りつつ。