私がセラピストになろうと思った原点、
肺腺ガンに羅患した時の振り返り日記です。
肺腺ガン手術後自宅に戻ってからと体調の事 【⑪私の振り返り闘病記】
からのつづき
2019年6月
術後2週間目
病理検査の結果を聞きに行くのと、ドレーンの縫い後の抜糸の為に、総合病院のガン病棟に向かった。
ドレーンの穴は適当に縫われてても穴が開いたままで、 見るのも恐ろしかった。 ナースが抜糸をしてくれようとするのだが、糸の上に肉が一部食い込んでいてまだ残っているが、後に勝手に取れるだろうとのことだった。 もしかして息が漏れてない?というようなことを聞かれたが、それはさすがに無かった。 内側は塞がっていたはずだ。
腫瘍内科医のハリウッドスターのようなハンサムな若いドクターが今日の担当ドクターだった。 明るく挨拶を交わしながら個室に通され、 ドクターの前に夫と並んで座った。
金髪と青い目でこちらを見つめながら冷静に優しく話し出した。
「原発の腫瘍は全部取りましたが、 残念ながらリンパに転移していてそれらは全部とりきれませんでした。」
「え、全部取れたと聞いたんですが....。 そうですか。」
さほど驚かなかった。 手術前から既にリンパを通して体全身にがん細胞が巡っているのが自分でも何となくわかっていた。 夫は表情を変えずに固まっていた。
ドクターは続けた。
「病理の結果あなたのガンはALK融合遺伝子という遺伝子変異でした。 これは抗がん剤治療の後に再発したら分子標的薬が使えますから。」
私はこの時色々調べていて、 この遺伝子変異は肺腺ガンの3~4%と稀であるが、横綱ガンと言われる程非常に増殖力の強いものであった。 そのような遺伝子変異を体に抱えている事にとてもショックだったが、このガンに直接作用させる分子標的薬を使えばきっと完治できると思い込んでいた。
「分子標的薬を最初から使えませんか! 抗がん剤治療は避けたいです。」
と申し出たがその順番は出来ないと言われた。 私の場合は手術したから、そのあとは抗がん剤での標準治療を経ないと分子標的薬は使えないとのことだった。 要するに世界標準の治験データが無いという事だろう。 治験もできないか聞いてみたが、その時点ではそれも無いとのことだった。
「この後は予定通り抗がん剤治療と放射線治療をしていきます。 抗がん剤は2種類を4クール行っていきましょう。」
のちにわかった事だが分子標的薬は耐性ができるといくつか薬があるが、 一旦服用すると医者側からはたとえがん細胞が検査上無くなったとしても薬を止める事は無いと知った。
抗がん剤治療への恐怖はあったが、 完全に治療を断るまでメンタルが強くなっていなかったが、
「この提示された治療だけで完治まで絶対に持っていく。」 と決意した。
肺がん専門の担当ナースから、今後の治療の細かい説明を受けた。
そのナースは、力無い表情をした私と夫に、
「アグレッシブに闘うわよ! いい? 残ったがん細胞を抗がん剤でこてんぱんにやっつけて、放射線で叩きまくるのよ!」
と手のひらで机をパンパン叩きながら力強く言った。
私と夫はその言葉に勇気をもらって大きくうなずいた。
この時はまだ、‘’ガンという悪‘’に対しての闘志がみなぎっていた。
今なら言える。
病気を作ったのは自分の感情だ。 やっつけて、叩いて、闘う相手はガン細胞じゃない。自分自身と向き合って和解するのだ。
最後までお読みいただきありがとうございました。
皆さまの心と身体が健やかでありますように。

