◇NATO、ユーゴを空爆 軍施設など数十カ所 コソボ紛争


1999(平成11)年3月24日


ユーゴスラビア連邦セルビア共和国のコソボ自治州紛争で、北大西洋条約機構(NATO)は二十四日夜(日本時間二十五日早朝)、ユーゴに対する空爆を始めた。爆撃はベオグラード近郊の軍事施設などユーゴ全域に及び、ユーゴ政府は「戦争状態」を宣言、徹底抗戦の態勢に入った。空爆に反対してきたロシアの要請で国連安全保障理事会が急きょ開かれ、ロシアと中国は安保理の許可を得ていない武力行使を「国連憲章に違反する」と非難し、攻撃の即時停止を求めた。二千人の犠牲者と三十万人以上の難民を生んだコソボ紛争は、NATOとユーゴ連邦軍の全面対決という事態に至った。


1999(平成11)年3月24日、NATO軍がコソボ紛争において、ユーゴスラビアを空爆しました。


 コソボ紛争とは、バルカン半島南部のコソボ地方で独立を求めるアルバニア人に対して、ユーゴスラビア軍およびセルビア人との間で起きた武力衝突のことを言います。


 同地はイスラム教を信仰するアルバニア人と、キリスト教を信仰するセルビア人との根深い反目がオスマントルコ時代から続いていましたが、コソボ地区のアルバニア人自治が認められている間は大きな問題は起きていませんでした。


 紛争は、1998年にセルビアのスロボダン・ミロシェヴィッチ共和国幹部会議長(大統領に相当)が、突然コソボの自治権を剥奪したことにより勃発します。


 アルバニア人は100万人を超える難民を出し、またセルビア人による民族浄化などの残虐行為を阻止するとして、NATO軍(北大西洋条約機構に基づく、米国を中心とした軍事同盟軍)による武力介入が行われた結果、コソボ紛争は同年6月に終結。コソボは独立を果たしますが、今日なお民族間の緊張状態は続いています。


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世界大百科事典

ウクライナ



Ukraina

正式名称=ウクライナUkraina/Ukraine 

面積=60万3500km2 

人口(2010)=4596万人 

首都=キエフKiev(日本との時差=-7時間) 

主要言語=ウクライナ語(公用語),ロシア語 

通貨=フリブナHryvna(1996年8月まではカルボバネッツKarbovanets)

ソ連邦を構成する共和国の一つであった〈ウクライナ・ソビエト社会主義共和国Ukrains'ka Radyans'ka Sotsialistichna Respublika〉が,1991年8月24日独立し,国名を〈ウクライナ〉と改称したもの。独立国家共同体(CIS)の構成国の一つ。 


人口や経済的重要度において,旧ソ連邦中ロシアに次ぐ第2位を占め,文化的にも長い伝統を保持してきた。北東でロシア連邦と,北でベラルーシ,西でポーランドとスロバキア,南西でハンガリー,ルーマニア,モルドバの諸国とそれぞれ国境を接し,南は黒海,アゾフ海に面している。


ロシアを除けば,国土面積ではヨーロッパ最大,人口ではドイツ,イギリス,フランス,イタリアに次ぐ。ハリコフ,キエフ,オデッサなど24の州oblast’とクリミア自治共和国からなる。


ウクライナという名称は〈辺境〉を意味するクライkraiからつくられたもので,12世紀ころから使われていた。


なお〈小ロシア〉という呼称がウクライナの別称として使用されることがあるが,正確には,後述するように,これはウクライナの一部に与えられた行政地名である。


古代から中世へ


ウクライナの古代史は黒海北岸とステップ地帯で始まった。


前8~前7世紀に黒海北岸にはテュラス,オルビア,ケルソネソス,パンティカパイオン(現,ケルチ),タナイスなどのギリシア人植民市が建設された。


ステップ地帯はスキタイ,サルマートといった騎馬遊牧民族国家の一部となった。


ウクライナ史におけるヘレニズム時代は黒海北岸東部のボスポロス王国(前4世紀~後4世紀)の時代である。


 中世初期のユダヤ人国際商業団ラダニヤと対抗した南フランスのキリスト教徒の国際商業団ルーシに発したルーシ・ハーン国は,イティリを首都としたハザル・ハーン国(〈ハザル族〉の項参照)のカバル革命(830年代)によるハーン亡命によって成立した。


ルーシ・ハーン国はボルガ時代(839-930),ドニエプル時代(930-1036),キエフ時代(1036-1169)の3時期に分けられる。


そのうちの1~12世紀後半はキエフ・ロシアまたはキエフ・ルーシとも呼ばれる。


キエフ・ロシアは,ウクライナ人が以前から住んでいたポレシエと森林ステップ地帯に加えて,〈ワリャーギからギリシアへの道〉と,黒海北岸の一部を領域として統合し支配した。


(ウキペディア)

現在、ウクライナが位置している地域には紀元前3万2千年から人が住んでいたとされる。


中世にはキエフ大公国キエフ・ルーシ)によって統治され、東スラブ文化の中心地としてウクライナおよびロシアのアイデンティティの基礎が形成された。


12世紀以降、モンゴルのルーシ侵攻により領土が破壊され、ポーランド・リトアニア共和国オーストリア゠ハンガリー帝国オスマン帝国モスクワ大公国などに分離した(キエフ大公国の分裂)。


キエフ大公国の故地のうち、現在のウクライナにあたる地域の一部は14世紀以後、小ロシアと呼ばれるようになる。


1649年、現在のウクライナにヘーチマン国家が成立し、1654年以後はモスクワ大公国(ロシア帝国)の保護を受ける。


1667年ロシア・ポーランド戦争の結果ポーランドに割譲されたドニプロ川右岸地域では1699年にコサック隊は廃止される。


ドニプロ川左岸地域のヘーチマン国家はロシアの防衛に貢献するコサック国家として繁栄したが、1764年にロシアのエカチェリーナ2世がヘーチマン制を廃止、翌1765年に国土はロシアの小ロシア県に編成され、1786年コサック連隊制が廃止となった。


第一次世界大戦では中央同盟国ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国など)とロシア帝国の戦場になった(東部戦線 (第一次世界大戦))。


大戦中のロシア革命でロシア帝国が崩壊するとウクライナの民族自決運動が起こった。


1917年6月23日、国際的に認められたウクライナ人民共和国が宣言されたが、ロシア内戦などを経て、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国ソビエト連邦の一部となった。


第二次世界大戦では独ソ戦の激戦地となった。


第二次世界大戦後、ソ連は占領したポーランド東部を併合する代わりにポーランドとドイツの国境をオーデル・ナイセ線へ移動させた。


旧ポーランド東部はソ連へ併合され、ウクライナ人が多く住むガリツィア地方はウクライナ西部となった。 


その後、ソビエト連邦の崩壊に伴い、1991年にウクライナは独立国となった。


独立後、ウクライナは中立国を宣言し、旧ソ連のロシアや他の独立国家共同体(CIS)諸国と限定的な軍事提携を結びつつ、1994年には北大西洋条約機構(NATO)とも平和のためのパートナーシップを結んだ。


2013年、ヤヌコビッチ政権がウクライナ・EU連合協定の停止とロシアとの経済関係の緊密化を決定した後、ユーロマイダンと呼ばれる数か月にわたるデモや抗議運動が始まり、後に尊厳革命に発展し、ヤヌコビッチの打倒と新政府の樹立につながった。


ヤヌコビッチ


これらの出来事を受け、旧ソ連圏への影響力回復を目指すロシアのウラジーミル・プーチン政権はウクライナ国内の親ロシア派を通じた内政干渉や領土蚕食を進め、2014年3月のロシアによるクリミアの併合、2014年4月からのドンバス戦争の背景となった。