松崎丈「鉛頭一割」

松崎丈「鉛頭一割」

140字では綴れないことをつれづれに。

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2020年2月24日(月)

The Stag Party Show

『ぼくらの事情』

Eagle Tokyo Blue

※内容についての記述があります

 

 

 昨年の6月に続いてThe Stga Party Showさんに。

 一緒に観劇するR氏が開演30分前に起床するというスリリングな展開にひやひやしながら、何とか間に合った。

 

 会場はいつものことながら鈴なり満員。

 お客様が多いというのは役者の力になるし、役者に主体性も与える。

 うちのメンバーにその爪の垢でも飲んでもらい……ま、いいか。

 

**********

 

それは新宿2丁目のとあるバー。
週末の昼間には心に悩みのある人々がグループセラピーに訪れる場所だった。
「れもん」と名乗るカウンセラーに導かれ、さまざまな事情を抱えた登場人物がそれぞれの思いを語る。
 
”さあ、切符をしっかり持っておいで。
お前はもう夢の鉄道の中でなしに
本当の世界の火やはげしい波の中を
大股にまっすぐあるいて行かなければいけない。
天の川のなかでたった一つの
ほんとうのその切符を
決しておまえはなくしてはいけない”

 

**********

 

 会場の性質上、照明効果はほとんどない。

 それは一つの狙いなのかもしれない。

 照明効果の助けを得られない分、役者の力量がもろに試される。

 それを受けて立つ良い意味での気負いが役者に生まれれば、空間は熱を帯びてくる。

 役者から発せられる熱が観る者に伝わり、観る者から返される熱が役者の熱をさらに高める。

 その熱の往還、交換こそが生の舞台の醍醐味なのだ。

 

 Stagさんの特徴である生演奏によるBGM。

 コンセプト・マネジメントもアレンジも秀逸で、これは役者にとっての心強い援護射撃だ。

 やはり言葉と音の親和性は強い。

 良い音は言葉の力を何倍にも何十倍にも増幅させてくれる。

 

 限られた時間と限られた空間のなかでは、グループセラピーに参加しているそれぞれの人物に振り分けられる言葉もまた限られてくる。その限られた言葉の向こうに、それぞれの人物の背景を見せるのはなかなか難しい。

 それぞれの人物の切り取られた一部分から、その人物の全体を見せることは簡単ではない。

 

 でもそれでいいのかもしれない。

 すべてを見ようとするのも、すべてを見せようとするのも、もしかしたら傲慢なのかもしれない。

 そもそも生きていくということは「部分」の集積だ。

 「部分」の集積が「全体」を形作らなければならないという強迫観から逃れたときに初めて、本当の何かが見えてくるのかもしれない。

 

 「部分」を「細部」と言い換えるならば、細部にこそ真実の種が宿るとは言えないだろうか。

 

 たとえば家族から拒絶された「やかん」の、たびたびひん曲がる口元だ。
 その口元は、彼の人を突き放すような立ち居振る舞いよりも、何倍も何倍も濃厚に彼の哀しさとやるせなさと、そして心根の優しさを映し出している。さすがはジュン氏、行き届いている。

 

 あるいは恋人を亡くした「たま」が、涙ながらにちびちび齧るあのクッキーだ。

 あれは秀逸の極みと言う他ない。

 どんなに悲しみに打ちひしがれていようとも、人は食べるのだ。そして「たま」の武骨な手に握られたあの小さな小さなクッキーは、彼の悲しみを癒すことはなくとも、彼が明日を生きる小さな力になるのだ。そう感じずにはいられない。

 彼が小さなクッキーを食べる姿に、僕はチャップリンの言葉を思い出した。

 "Life can be wonderful if you're not afraid of it. All it takes is courage, imagination, and a little dough."

 「人生は素晴らしい、恐れることをしなければ。勇気と愛と、ほんの少しのパンさえあればそれでいいのだ」

 小さな小さなクッキーを齧る「たま」の姿と頬を伝う涙は僕に伝播し、僕も涙しながら勇気を分けてもらった気がした。

 

 「れもん」の口から次々と引用される名言・箴言が実は彼自身に向けられていたのだと明かされるラストに及んで、僕は僕自身があのグループセラピーの参加者の1人であったことを改めて感じたのだ。

 そして『ぼくらの事情』というこの作品のタイトルの「ら」の一文字の中に、自分自身が溶け込んでいったことを感じる僕の耳に甦る『Seven Days War』。

 

 「闘う」勇気と力はないかもしれないけれど、少なくとも逃げてはいけない、向き合わなければならい。

 

 Stagさんの作品にまたしてもそっと背中を押されながら会場を後にして、僕はぼくの事情が山積しているSeven Daysに戻って来た。

2020年2月7日(金)

株式会社GEMS制作

『コールド・ベイビーズ.』

中目黒キンケロ・シアター

※内容についての記述があります

 

 

 追いたくなる、追わねばならぬ作家がいる。

 

 若き日は大江健三郎を追った。

 大江に導かれるままにドストエフスキーを追い、ウィリアム・ブレイクを追い、フラナリー・オコナーを追った。

 大江の影響を離れてのちは三島由紀夫を追い、いまなお追い続けている。

 

 2019年春、『ト音』とのまことに幸福な出会いののちは、時間の許す限り春陽漁介氏を追っている。

 氏はここ数年のうちに出会った中で、追いたくなる、追わねばならぬと思わせてくれる作家の一人だ。

 

 追う者の身勝手な恐怖は、追いたくなる、追わねばならぬという思いへの裏切りだ。

 頼まれたわけでもなく勝手に追っているのだから、「裏切り」もなにもあろうはずはないが、その「裏切り」への恐怖をまさしく鮮やかに「裏切られる」ことの快さは、僕の稚拙な筆による描写など及びもしない爽やかさに溢れている。

 

 『コールド・ベイビーズ』に触れて、氏を追いたくなる、追わねばならぬという僕の思いは、なおもなおも募っている。

 

 まずはあらすじを公式サイトから引用する。

 

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 昨今の少子化問題の深刻化により、日本政府は秘密裏に体外受精の研究機関に多額の予算を割いている。
 その結果、研究所は人工子宮の開発に成功。
 冷凍保存されていた精子と卵子は交配され、人工子宮によって新時代の子供たちが次々に産声を上げた。

 2020年末。日本政府はその事実を発表。
 当然、大きな批判も起こったが、反面に面白半分で賛同する者も多かった。
 母体を必要としない彼らは、冷凍保存されていた赤ちゃんというところから、「コールドベイビー」と呼ばれた。

 2021年現在、コールドベイビーは、約100名誕生している。
 彼らは養子として家族を持つ者もいたが、政府管轄の施設によって生活していく者も多かった。

 舞台は、2040年。コールドベイビーも一つの選択肢をして受け入れられている世の中。
 コールドベイビーの第一世代である者たちは成人を迎えた。
 問題なく社会で生活する一方で、家庭で育った者と施設で育った者の感覚には大きな隔たりがある。

 愛とは。家族とは。子どもとは。人とは。誰も知るはずのない愛の形を彼らは探す。

 

 **********

 

 2019年12月の劇団5454公演、『カタロゴス~「青」についての短編集』からの連作として『コールド・ベイビーズ』を観る者と、『コールド・ベイビーズ』を単体として観る者への、それぞれの配慮と企みがある点に、まず春陽氏の作家としての誠実を感じる。

 

 「誠実」と言って当たらなければ、それは作家の持つ「愛」だ。

 観る者を置き去りにしない、観る者とともに在ろうとする作家の「愛」に打たれない者がいようか。

 

 しかし一方でその「愛」を、大上段に振りかざさないのが氏の作品の魅力なのだ。

 自省を込めて言うのだが、押し付けられる愛は痛い。

 愛はそっとそばにいてくれればよい。

 そのような愛にこそ、やはり誠を感じるのだ。

 

 氏の作品を観るたびに思うのだが、氏は観る者の能動的なコミットを誘発するのが実に巧みだ。

 ぐいぐいと引きずるようにコミットを求めるのではなく、知らず知らずのうちに誘われている心地よさ。

 それはYES/NOクイズであり、バドミントンであり、ポジションゲームであり。

 それらが巧みに構築された仕掛けであることは分かりつつも、素直に前かがみに身を乗り出してしまうところは、巧みすぎずに巧まれているからだろう。

 思い出されるのは2019年12月の劇団5454公演のアフタートークで春陽氏が語られた言葉だ。

 

 「嘘をつきたくはない」

 

 YES/NOクイズもポジションゲームも、やりようによっては観る者をただ引っかけるトラップになりうる。

 己が才気をひけらかすために(そんな作家はいないだろうが)巧みに巧んだ仕掛けは観る者を感心はさせても感動させない。

 しかしまったく巧みのない仕掛けはハラハラがなく乗せられない。

 春陽氏の繰り出す仕掛けにいつも心地よく乗せられるのは、まさしくそこに「嘘がない」からなのだろう。

 それもまた作家の「愛」の証なのだ。

 

 2019年12月の劇団5454公演で告知された『コールド・ベイビーズ』の触れ込みに「亜青以外にもコールドベイビーズは存在した」とあった(と記憶している)。

 『カタロゴス~「青」についての短編集~』からの連作として『コールド・ベイビーズ』を観る者は少なからず、C組の全員がコールド・ベイビーズであろうという予断を持って、冒頭からこの作品と向き合ずはずだ。

 そこにこそ、『カタロゴス~「青」についての短編集』を経由して『コールド・ベイビーズ』と触れ合う者の最大のコミットがある。

 それは文脈の大きなコミットだ。

 僕自身、C組の4人すべてがコールド・ベイビーズとして落ち着くのだろうという予断を持ってこの作品を観始めた。

 その予断を持った上で4人それぞれの感情の動きを追っていくのは非常に興味深い体験であったが、その一方でその予断は何度も揺らぐのでもあった。

 それは僕自身のどこかに、「普通」(という言葉をやや安易に使うのだが)の母体から生まれたのでないコールド・ベイビーズたちが、そのような感情の動きを、そのような表情を見せることはあるまいという、僕自身の狭量な色眼鏡があったからに他ならないことに気付き、観劇後、自分自身を暗澹たる気持ちで振り返ることになるのでもあるのだが。

 C組の4人の感情や表情、行動を見つめながら、「やはりC組にはコールド・ベイビーは1人しかいないのか、あるいは2人か」などと、さまざまな推測をしつつ、舞台上に設えられた4つの窓から彼らの行動を観察する施設の職員と自分が、ある部分で同化しているという経験でもあり、これもまた観る者としても僕がこの作品にコミットしていく道程でもあったのだ。

 春陽氏は観る者のコミットを誘うことで、舞台の上の物語と観る者の垣根をそっと取り払ってしまう。

 それもまた氏の作品の魅力の一つであり、氏の作品に観る者として参加する醍醐味の一つなのだ。

 

 直接のその名が出て来なかった(と思う)ので断言はできないながら、大木は亜青なのだろう。

 紫亜の名前が出て来た(とこれも頼りない記憶だが)ことと、朱井の言葉と思われるものが引用されていた(とこちらも頼りない記憶)ことから、おそらく間違いないと僕は思っているのだが、この推測が正しいとすれば、この物語は誠に深い奥行きを持っていることになる。

 そして佳境へと至る大木の言葉やしぐさを、僕は大木=亜青の前提のもとに観ていたのだが、その視点に立つときの渡辺コウジさんの演技は、『カタロゴス~「青」についての短編集』の山脇さんの亜青と、まことに見事につながっている。

 一つの役が二人の役者によって受け継がれる魂のリレーが、これほど涙を誘うという事実。

 僕の心は一足飛びに赤坂RED/THEATERへとワープして、そこで朱井が亜青に託した思いが、震えるような愛おしさで甦るのだった。

 

 追いたくなる、追わねばならぬ作家が同時代にいることへの幸せを思いつつ、帰る道すがらの川沿いの桜木に、満開の花を見るような気持がした。

2020年1月24日(金)

Brand Blend #2

『ダイナマイト佐竹くん.』

『あの釣り堀の日にはもう』

『僕は作詞家になりたい』

新中野Waniz Hall

 

 

 ゆうや氏のご紹介で新中野WanizHallにふたり芝居×3作品のオムニバス公演へ。

 それぞれの作品がおよそ30分ほどの短編。

 短編の戯曲をいままでほとんど書いたことのない自分としては、勉強させていただく気持ちで劇場へ向かいました。

 

 少し早めに着いたので、WanizHallの近くにある「珈琲や」さんへ。

 所狭しと並ぶさまざまな種類のコーヒー豆は壮観。店内にはコーヒーを焙煎するとても良い香りが。

 

 

 

 最近はどこもかしこも禁煙で、スモーカーの僕としてはちょっと辛いのです。

 特にコーヒーと煙草は、個人的にはベストマッチですから。

 しかしそんなことが気にならないくらい素敵な店構え、そして何しろコーヒーが美味い!

 エチオピアをオーダーしたのですが、提供までそこそこ時間がかかりました。

 それは一杯ずつ丁寧にドリップしてくれているから。

 一口すすっただけで幸せの香りと味が満腔に溢れます。

 

 

 

 ほっこりしたところでWanizHallへ。

 うっかりすると見落としてしまいそうですが、劇場HPに掲載されているマップが簡にして要を得ているので迷子にならずたどり着くことができました。

 

 

 

 階段を下りて場内に入ると、これがまた何とも素敵な空間なんでございますよ。

 ニューヨークにいるころ、こんな感じのライブホールに行ってスタンドアップコメディなんぞを楽しんだことを思い出しました。

 

 セットも照明も最小限、ここで繰り広げられるふたり芝居は役者さんの力量がもろに試されるだろうなあと思いつつ、開演を待っておりました。開演を待っている時間ってのは本当にワクワクします。ましてこんな素敵な空間ならなおのこと。

 

 1本目の『ダイナマイト佐竹くん』

 ナンセンス感満載のオープニング、畳みかけられるオーバーアクティング。

 このままコントタッチで奇想天外なエンディングに向かうのかなあと思っていると……。

 クリエイターならずともぶち当たらざるを得ないような、現実世界のシビアな側面が、チクリと刺すような箴言で表現され出して「おや?」と思い始め、そんな観る側の心の移り変わりを見透かしたように劇中に溢れ始める、優しい、あまりにも優しいペーソス。

 不器用だっていい、上手くいかなくたっていい。そんな自分を無理に肯定しなくてもいいけれども、でもそっと受け止めてやることから、自分なりの幸せ探しが始まるんじゃないか。

 不惑を迎えてもまだまだ惑いっぱなしの僕だけど、そんな僕の方を「トン」と叩いてくれるような優しさを感じる作品だった。

 

 3本目の『僕は作詞家になりたい』にも『ダイナマイト佐竹くん』と通じる優しを感じた。

 作詞家志望の青年の暑苦しいまでの真っすぐさ、演じているたつみげんきさんのシュッとした感じとのコントラストが面白い。

 その暑苦しさを受けて立つレコード会社の社員女性を演じた土田有希さんも秀逸。自分自身も何かを諦めざる得なかった人間だからこそ持っている包容力のようなものがしみじみ伝わってきました。手袋の伏線の回収も良く出来ているなあと感心してしまいました。あの手袋を外すときの決然とした感じ、良かったなあ。役者の力量というのは、ああいう仕草にこそ現れるんだなあ、とまたしてもしみじみ。

 

 2本目の『あの釣り堀の日にはもう』

 これねえ、困りますよ。。。まだ1月ですよ、今年始まったばかりですよ。

 このタイミングでこんなすごいの見ると、この先の11か月、僕はずっとこの作品を基準に芝居の良し悪しを考えちゃいますよ。そしてこの作品に匹敵するのって、そうそうは出て来ないという予感がビンビンするわけですよ。

 いやあ、言葉がないってこのことなんだろうけど、まず本がすごくいい。

 特に最後のまとまり方、巧みだなあ。

 僕は戯曲も小説もそこそこ読む方なのですが、そして手前みそに聞こえるかもしれませんが、ピタリとはいかなくとも大体の終わり方は予見できる方だと思うのですが……このラストはぜんぜん読み切れなかった。

 そしてこの作品のラストのまとまり方は、すごく素敵で、すごく説得力があるのです。完全にやられてしまった感じです。

 さらに二人のセリフのやりとりに、本当に無駄がない。すべてが必要だと思わせる言葉なんです。

 その言葉は決して大仰なものではないんだけど、一つ一つがちゃんと笑えたり、ちゃんと心に沁みて来るんです。

 またその言葉を紡いでいくお二人の間がいいんだなあ。

 トントントンと運ぶところがあるかと思えば、いぶし銀の演歌歌手が敢えて節をずらすような、ちょっとしたズレがあったり。「緩急」という言葉が陳腐に聞こえるほどの絶妙さ、完全に脱帽です。

 わずか30分の中に、これだけの要素が入っている、そしてそれが最も効果的と思われる形で演じられている。

 これは相当な巧者でないとできないことで、この二人以外にできる人なんかいないんじゃないかと思ってしまうほどです。

 

 3つの作品ともに、「切り取り」の妙を感じさせられました。

 ほんの一コマの中に、その人たちの生きてきた過程や、いま生きているあり様が広がっていく。

 いまそこに展開されている光景がとんでもない広がりをもってその人たちの全体像を見せていく。

 短編の醍醐味はまさにそんなところにあるし、そもそも限られた時間と空間で展開する舞台というジャンルはそういうものなのかもしれない。

 

 音響ガンガン、照明ギラギラの作品も面白いけれども、静かな舞台の中で役者の力がまさに静かに炸裂する。そして観る者の心にそっと灯をともす。こういう作品との出会いというのは、本当に心の栄養になるし、幸せなことだと思います。

 

 明日から、いや今日この時から、僕も自分の日常という小さな舞台で、不器用だけど一生懸命に生きていこうと思わせてくれる、そんな作品との出会いに感謝、感謝。

2020年1月12日(月)

Sweet Arrow Theatricals presents

『You're a good man, Charlie Brown.』

シアター風姿花伝

 

 

 2019年夏の公演を見逃したために、どうしても今回は観てみたかった『You're a good man, Charlie Brown.』を楽日にやっとこさ観劇。

 

 午前中の仕事と午後の仕事の間に無理やり3時間の隙間を作っての観劇だったので、スーツ姿で劇場へ。

 祝日のマチネ、スーツ姿で劇場にいるのは何だか恥ずかしくて(年甲斐もなく…)、劇場の最後部、しかも隅の方にそっと着席。

 

 しかし、とにかく客入れの際のクルーやスタッフの明るさと言ったら!

 型にはまったマニュアル通りの丁寧な客入れも嫌いではないけれど、「こういう客入れって本当に楽しいなあ、気持ちいいなあ」と芝居が始まる前から心が整えられていく感じが嬉しい。

 

 劇空間の作り方が魅力的で、「ここで何が始まるのだろうか?」「この空間がどのように使われるのだろうか?」とワクワクしながら幕開きを待つ時間。僕はこの幕開きまでの時間がたまらなく好きなのだ。

 

 

 

 いよいよオープニング。そしてオープニングに続くナンバーは「You're a good man, Charlie Brown.」。

 これを聞いただけで、僕の目から涙が溢れ始めて、それはしばらく止まらなかった。

 カンパニー全体によるこの曲を聞いた瞬間、まだ僕が若かった一時期、ニューヨークに住んでいた日々のことが一瞬にして甦ったのだ。

 

 あの頃、食事を一日抜いてでも、ブロードウェイやオフ・ブロードウェイで芝居を観た。

 言葉も肌の色も、考え方や感じ方も違う連中と、それでも芝居のこととなると、そんな違いなんか乗り越えて、侃々諤々の議論をした。

 貧乏だったけど、毎日が楽しくて、刺激的で、そしてとにかく熱く生きていた。

 

 そんな日々の記憶が、鮮明なイメージとしてではなくて、「体温」として甦ってきたと言おうか。

 あの頃の自分に対するノスタルジー、いまの自分に対する複雑な想い、でも止まってなんかいられないという意地。

 曲を聞くうちに自分の中でいろんな思いが混合されて、それがどんどん熱を帯びて、なんだか分からないけど、涙してしまった。

 

 僕はしばしばミュージカルを観る。

 お金のかかった大きなプロダクションのものも観るし、ご縁があって小さな会場で上演される作品を観ることもある。

 それぞれ素晴らしい作品に出会う機会が多いが、やはり生の声には力がある。マイクを通さない生の声ならではの熱量や訴求力。

 もちろん鍛錬された歌手や歌い手の力量があってこそのことだが、その力量と技術が生でぶつけられると、聞いているこちらの心にも熱いものがこみ上げてくるのだ。

 

 「You're a good man, Charlie Brown.」が終わるころには、僕の精神状態は、23歳の頃、ニューヨークで必死に生きていた頃の自分にかなり近づいていたと思う。青くさく、生意気で、負けず嫌いで、体温だけはやたらと高い。祝日の昼下がり、劇場の隅っこでスーツを着た40過ぎの男の心が、こんなにも燃え上がっていると誰が思うだろうか?

 

 とにかくこの一曲で、僕の心はすでにこの作品の虜になってしまっていたのだ。

 

 そのあとはもう、こちらの心がONになっているものだから、どんどん作品に没入していくことができた。

 コミカルで笑う場面でもハンカチが手放せない、ホロっと泣ける場面(僕はよく泣くので特に)でもハンカチが手放せない。

 

 このミュージカルにはストーリーらしいストーリーはない。

 日常の小さなエピソードが、ときどきデフォルメされながら、ポップでありながらも美しい音楽に乗り取り上げられる。

 チャールズ・シュルツのコメディ『ピーナッツ』を原作としているミュージカルだが、シュルツの『ピーナッツ』はなかなかウィットと風刺に富んだ作品だし、ときどきヒューマニズムも感じさせるエピソードもある。

 

 この作品でも、あるいはコミカルで楽しいエピソードが、あるいは現実社会の不条理や矛盾を一刺しするようなエピソードが、あるいは誰の心の中にもある不安や悲しみを優しく包み込むようなエピソードが、パッチワーク的に配置されている。

  しかしどのエピソードにも、毎日毎日の中で、忘れかけている小さなことへの感謝や、見逃している小さな幸せを、もう一度思い出すきっかけを与えてくれるような、そんな力が備わっている。

 

 ランチタイムの孤独、ブランケットを手放せない少年、短気な自分への自己嫌悪、成績の悪い自分がたどり着く哲学、そして食事への喜び。スヌーピーが歌う「Suppertime」はとてもシニカルかつインストラクティヴ。

 

 それらすべてのエピソードを本当に魅力的に演じ、美しい歌声で魅せてくれたキャストたちに最大限の賛辞を。

 池田さん演じるチャーリーのネガティヴさと不器用さの絶妙なブレンド、しかしその根底には真っすぐさや諦めない強さを感じられて、彼のチャーリーを見ていると本当に心が優しさでいっぱいになるし、僕も少しだけ前を向いてチャレンジしてみようという気持ちになる。

 海老原さんの演じるライナス。ルーシーに「姉のことを大好きな弟がいるからだ」を言う時のあの笑顔に溢れ溢れている優しさと慈しみ。いま思い出しても心がいっぱいになってしまう。

 

 今回の公演もキャストの組み合わせに色んなバージョンがあったようで、叶うことならもっといろんなバージョンを観たかったし、再演の機会があればぜひ英語版も観てみたい。

 

 新年早々、こんなに楽しくて、こんなに元気をもらい、そして自分が置かれている幸せを見つめ直すきっかけを与えられる素晴らしい作品との出会いに感謝。こういう出会いがあるから、観劇も芝居も絶対にやめられない。

2020年1月3日(金)

壽初春大歌舞伎 鰯賣戀曳網(いわしうりこいのひきあみ)

歌舞伎座

 

 

 一昨日の新春浅草歌舞伎に続いて、昨日は歌舞伎座の壽初春大歌舞伎へ。

 白鷗丈の河内山、猿之助丈の連獅子と観たい演目はあれこれあれど、時間の都合もあって中村屋兄弟の『鰯賣戀曳網』(いわしうりこいのひきあみ)を幕見にて。

 

 三島由紀夫が六代目歌右衛門丈のために書き、歌右衛門丈の蛍火、十七世勘三郎丈の猿源氏で初演されたこの狂言。

 その後は五代目玉三郎丈の蛍火、十八世勘三郎丈の猿源氏で人気を博した。

 分かりやすいハッピーエンドの娯楽作品で、ナンセンスな台詞が随所に散りばめられ肩の力を抜いて観ることができるし、廓ものならではの衣装の美々しさも目のごちそう。爽快な笑いに包まれる、まさに初春にふさわしく、歌舞伎を観たことがない人も楽しめる演目。

 

 この狂言は中村屋にとってはとても大事な作品のひとつで、十七世、十八世の両勘三郎丈が演じて人気を呼び、当代勘九郎の猿源氏、七之助の蛍火でも何度かかけられている。

 

 僕はいままで2000年、2005年、2009年と3度、歌舞伎座で観たことがある。

 2000年は十七世勘三郎丈の十三回忌追善興行、2005年は十八世勘三郎丈の襲名公演、2009年は歌舞伎座の建て替えに伴う「歌舞伎座さよなら公演」、いずれも十八世勘三郎丈の猿源氏、五代目玉三郎丈の蛍火だが、これを見ても大事な節目節目で中村屋が演じる大切な演目であることが分かる。

 2014年には当代勘九郎の猿源氏、七之助の蛍火でかかっているが、これは十七世勘三郎丈二十七回忌・十八世勘三郎丈三回忌追善興行と、やはり大事な折の上演。このときはどうしても都合がつかず観ることができなかったのは痛恨事。

 

 中村屋の身上のひとつは可愛げのあるコミカルな芝居だが、この猿源氏にはそのような中村屋の人がぴったりと合う。

 庶民の鰯売りが焦がれ焦がれる遊君・蛍火に会うために、大名のふりをして廓に足を運ぶ。いかにも人の好さそうな鰯売りが一生懸命大名の真似をしているあたり、いかにも微笑ましく思わず笑顔になってしまう。

 迎え入れる遊君・蛍火。遊君とは遊女の中でもトップクラスで、並の客は相手にしない。蛍火は実は大名の姫君なのだが、人さらいに遭い今は遊女に身をやつしている。遊女ながらも凛とした気品を備え、一方ではとぼけたコメディの要素も持ち合わせていなければならない。なかなかの難役だ。

 十八世勘三郎丈と玉三郎丈の軽妙なやり取りは「秀逸」という言葉では言い切れないほどで、3回とも歌舞伎座の幕見席で笑い転げていた。

 

 いよいよ勘九郎と七之助で観ることができると思うと、昨日はわくわくして少し寝不足だったので、1時間ほど昼寝してエネルギーを充填して歌舞伎座へ。

 

 ここのところ、勘九郎は十八世に声がそっくり。容貌も父君を彷彿とさせるところがある。

 かつてドキュメンタリーで勘九郎が『身替座禅』をやっているとき、「どうしても父のようにはできない」と苦悩している様子を見たことがあるが、たしかに父を亡くしたあとの勘九郎の芝居は硬かった。父に追いつこうと急ぐあまりの焦りみたいなものが感じられて、観ているこちらも余裕をなくすようなところがあった。

 しかしその後、いくつもの大役を務め、中村屋を引っ張る責任と向き合っていくうちに、勘九郎は確実に進化している。「余裕が出てきている」とは言えないが、父のコピーではない自分だけの勘九郎になろうとしている。今回の猿源氏にしても、良い意味で緊張感のとれた、勘九郎の猿源氏に仕上がっていたと思う。

 一方の七之助。この人にはいい意味で次男坊の気楽さみたいなものが感じられる。もちろん偉大な父を早くに失った大変さはあるだろうが、七之助には良い意味での「遊び」が感じられるのだ。『伽羅先代萩』の政岡、『助六』の揚巻など次々に大役に挑んでいる七之助だが、玉三郎丈の七之助にかける期待のようなものがひしひしと感じられ、それに応えようとする七之助の進境著しさは今年も目が離せない。

 

 観劇後うちに帰って、なんと十七世勘三郎丈の猿源氏と六代目歌右衛門丈の蛍火による昭和29年の初演の映像を発見。

 歌舞伎は良くも悪しくも家の芸だが、役の性根が十七世から十八世、十八世から当代勘九郎へと脈々と引き継がれている様を目の当たりにすると、心が熱くなる。

 

 初春早々の中村屋兄弟の芝居。高齢になりつつある名人上手の芸もさることながら、今年は同年代や若手の芝居をもっともっと観たいと思わせてくれる、笑いに満ちた充実の70分。