2020年2月24日(月)
The Stag Party Show
『ぼくらの事情』
Eagle Tokyo Blue
※内容についての記述があります
昨年の6月に続いてThe Stga Party Showさんに。
一緒に観劇するR氏が開演30分前に起床するというスリリングな展開にひやひやしながら、何とか間に合った。
会場はいつものことながら鈴なり満員。
お客様が多いというのは役者の力になるし、役者に主体性も与える。
うちのメンバーにその爪の垢でも飲んでもらい……ま、いいか。
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それは新宿2丁目のとあるバー。
週末の昼間には心に悩みのある人々がグループセラピーに訪れる場所だった。
「れもん」と名乗るカウンセラーに導かれ、さまざまな事情を抱えた登場人物がそれぞれの思いを語る。
”さあ、切符をしっかり持っておいで。
お前はもう夢の鉄道の中でなしに
本当の世界の火やはげしい波の中を
大股にまっすぐあるいて行かなければいけない。
天の川のなかでたった一つの
ほんとうのその切符を
決しておまえはなくしてはいけない”
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会場の性質上、照明効果はほとんどない。
それは一つの狙いなのかもしれない。
照明効果の助けを得られない分、役者の力量がもろに試される。
それを受けて立つ良い意味での気負いが役者に生まれれば、空間は熱を帯びてくる。
役者から発せられる熱が観る者に伝わり、観る者から返される熱が役者の熱をさらに高める。
その熱の往還、交換こそが生の舞台の醍醐味なのだ。
Stagさんの特徴である生演奏によるBGM。
コンセプト・マネジメントもアレンジも秀逸で、これは役者にとっての心強い援護射撃だ。
やはり言葉と音の親和性は強い。
良い音は言葉の力を何倍にも何十倍にも増幅させてくれる。
限られた時間と限られた空間のなかでは、グループセラピーに参加しているそれぞれの人物に振り分けられる言葉もまた限られてくる。その限られた言葉の向こうに、それぞれの人物の背景を見せるのはなかなか難しい。
それぞれの人物の切り取られた一部分から、その人物の全体を見せることは簡単ではない。
でもそれでいいのかもしれない。
すべてを見ようとするのも、すべてを見せようとするのも、もしかしたら傲慢なのかもしれない。
そもそも生きていくということは「部分」の集積だ。
「部分」の集積が「全体」を形作らなければならないという強迫観から逃れたときに初めて、本当の何かが見えてくるのかもしれない。
「部分」を「細部」と言い換えるならば、細部にこそ真実の種が宿るとは言えないだろうか。
たとえば家族から拒絶された「やかん」の、たびたびひん曲がる口元だ。
その口元は、彼の人を突き放すような立ち居振る舞いよりも、何倍も何倍も濃厚に彼の哀しさとやるせなさと、そして心根の優しさを映し出している。さすがはジュン氏、行き届いている。
あるいは恋人を亡くした「たま」が、涙ながらにちびちび齧るあのクッキーだ。
あれは秀逸の極みと言う他ない。
どんなに悲しみに打ちひしがれていようとも、人は食べるのだ。そして「たま」の武骨な手に握られたあの小さな小さなクッキーは、彼の悲しみを癒すことはなくとも、彼が明日を生きる小さな力になるのだ。そう感じずにはいられない。
彼が小さなクッキーを食べる姿に、僕はチャップリンの言葉を思い出した。
"Life can be wonderful if you're not afraid of it. All it takes is courage, imagination, and a little dough."
「人生は素晴らしい、恐れることをしなければ。勇気と愛と、ほんの少しのパンさえあればそれでいいのだ」
小さな小さなクッキーを齧る「たま」の姿と頬を伝う涙は僕に伝播し、僕も涙しながら勇気を分けてもらった気がした。
「れもん」の口から次々と引用される名言・箴言が実は彼自身に向けられていたのだと明かされるラストに及んで、僕は僕自身があのグループセラピーの参加者の1人であったことを改めて感じたのだ。
そして『ぼくらの事情』というこの作品のタイトルの「ら」の一文字の中に、自分自身が溶け込んでいったことを感じる僕の耳に甦る『Seven Days War』。
「闘う」勇気と力はないかもしれないけれど、少なくとも逃げてはいけない、向き合わなければならい。
Stagさんの作品にまたしてもそっと背中を押されながら会場を後にして、僕はぼくの事情が山積しているSeven Daysに戻って来た。