とっても久しぶりに、ブログを書きますニコニコ

 

読んでくださってありがとうございます音譜

 

このブログは、私個人を知っている人も読んでくださっているので、身の回りのことを書くときに、気を使わないと、変な風に思われたり、嫌な思いをされたりする人がいたら困るな、、、となど考えてしまうので、ついつい、手が進みませんでした。

 

でも、今この時、発信したい事があるので、また少しずつ書いていこうと思ってます。

 

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コロナ禍において、連絡が途切れる友人がいます。

 

その人の心の動きを、こうかな?と想像することはできます。

もちろん、こうだと、断定はできないけど、今までその人とのお付き合いの中で、その人が見せてくれたパターンがありますよね。

恐らく、私にもあるでしょうね~爆  笑

 

ある友達は、よく周りの友人のことを私に漏らしていました。

 

「Aちゃんの愚痴を聞くのにうんざり。その環境は、本人が作り上げている環境。でも、本人に言っても耳に入らないし、理解しててもくれない。」…そのようなことです。

 

それを説明する言葉も激しいので、正直、うう~ん、と心の中で思ってしまう自分がいました。

「あいつらよ~」等という言葉遣いは、私はあまり聞きたくない単語…

 

その愚痴っているAちゃんや、Bちゃんと距離を置くからと言って

深刻に相談話を聞き、もう一生のお別れかと思いきや、

しばらくすると、お茶ししてきた~、とか、ご飯食べに行った~!という話が出てくるので、逆にこちらが、唖然笑い泣き

 

それが数回も繰り返されてしまうと、友人が何を相談してきても、そっかそっか、といつの間にか真剣に聞くことができなくなる自分がいました。

 

この友達、あることをきっかけに、今度は私に一切連絡が来なくなりました。

何がきっかけかというと、彼女が使った、彼女自身の造語なんです。

その意味が分からず、確認したところ、日本語と英語のミックスで、彼女の思いが込められて作られた単語でした。

 

使っている状況でなんとなく、意味は分かるようなわからないような…でも、いい加減に理解しないように、確認したら、、、その流れで、何か怒っちゃた様子…

一応、その後も、フォローメッセージを送りましたが、、、その後は音沙汰ナシ。。。

 

 

 

もう一人の友達は、枠チンを打たない派の私の話や、私が提供する情報を聴いたり読んだりしてたし、本人も枠チンは打たないと言っていました。

 

でも、友達が尊敬している人たちのほとんどが枠チンを推奨するわけです。

枠チンは怖いから打たないという結論だったけど、、、私の意見と、本人が尊敬している人の意見が真逆。

ある時、枠チン打つ、という結論になったようです。

 

私のSNS投稿が「過激」だからフォローしないとわざわざ連絡が来がきました。

 

メッセージでこう言われたら、もう何をメッセージで返しても、話は通じないと思ったので、スタンプでOKとお返事しました。

 

フォローを外しますっていうことを、わざわざ連絡する必要はないかな~と思いました。

私の投稿が「過激」というのも、少々ビックリ。

私は、活動家でもないし、枠チンやマスクについて、かなり控えめに投稿しているので…。あれが彼女にとって「過激」なのであれば、それはもう、確かにフォローはやめたほうがいいはず…(苦笑)

 

更に、自身が枠チンを打ったことを公表するSNSにて、「大人なら」社会のために打つべきというご意見を披露していました。

枠チンを打たない人は「無責任だ」というご意見ガーン・・・

 

 

この友人二人の行動をみていて、なにか?社会に対して、人に対して、自分が「こうである」ということを言い訳しているように感じています。

 

どうしてそういう行動になっているんだろう?

きっと、理由があると思います。

 

でも、実は、人はどうでもいい。(この言葉だけが独り歩きしてほしくはないですが)

自分がどうあるべきか、どうしたいか?

それが今のこの世では本当に大切なのではないかと思うのです。

 

今、コロナ禍において、恐らく、皆さん、イライラしているのでしょう。

人に対して、自分の思う所を正当化しないと、もしかしたら安心しないのかもしれません。

自分が正しいことを証明したいのですよね。

 

コロナ前ももちろんそういう気持ちや、行動は人々の中にあったとは思うのですが、

このコロナ禍においては、この一連の出来事と情報については、そして、テレビ情報だけを信じているご意見に対しては、見てみないふりはできない、いや、するべきじゃない、と感じています。

 

だから、ちょっと言わせてください。

 

残念ながら、、、枠チンは製薬会社との契約であって、国は、政府は止められないんですよね。

詳しく知りたい方は、ナカムラクリニックの中村先生のNOTEを見られるといいと思います。

 

万能酵母液のおさらい会を開催してた時も、1913年からの医療制度について話をしてきました。

 

でも、政府やテレビは、「人のために枠チンを打とう」といいます。

 

これって、本当に「人のため」ですか?

 

そういう言い方をする理由と、この先の方向性とは?

 

枠チンは治験中

枠チンを打っても、コロナにかからないわけではない

枠チンを打っても、人にうつさない保証はない

枠チン打っても、マスクは外せない

枠チンを打っても、また打たないといけない

 

なぜ?効果がない、今回の枠チンを打つことが、人のためになるんですか?

 

重篤化しないためにうつなら、医療機関の人のため?

 

枠チンを打った人が、これまたいい加減びーしーあーるうけて、陽性だと言われるキョロキョロ

 

ぐるぐるですね…真顔

 

 

コロナという概念、PCRという検査方法、そして、今、世の中にあるコロナ枠チンについては、それがどういうものか?という理解が人によって知ってること、信じていることが、大きく違うところがありますね。

 

例えば、リンゴなら、世界中の人が、ほぼ同じ果物を思い浮かべるでしょう。

色や大きさは違ったとしても、同じものを「リンゴ」だと理解しています。

 

でも、コロナに関しても、PCRに関しても、そして、コロナ枠チンについても、全く違う見解となります。それをデマだという政治家がいても、それはデマではなく、問題だと発表する医師がいるという始末です。

 

どっちの医師の言っていること、どっちの政治家の言っていることが本当なのでしょうか?

 

テレビの言ってることは偏りまくりですし、YouTubeがバンされたり(バンされるという言葉も、最近、知りました)、動画が消されたり…

 

どう考えても、私にはかなりおかしい事態と感じます。

同じように感じている人多いのではないでしょうか?

 

この、コロナを中心とした1年以上続いている世の中の状況は、いよいよ、無視できないと思います。

 

「自粛を要請」という日本語は、根本的に間違っていますし、

その検査方法を開発したキャリー・マリス博士が、コロナ禍前に亡くなり、彼はこの検査をウィルス感染検査に使ってはならないと言い残しています。

でも、それを基準に物事が進み、経済が止まり、日本では自殺者が増え、子どもから大人までがマスクを外す自由がないと思いこんで毎日を生活しています。

 

自分の友人関係に異常があることからも、世の中の異常さ感じます。

 

国を変える、世界を変える、医療界を変える…とかではなく、まずは、一人一人の意識を変えないといけない、と痛感する毎日です。

 

大切なのは、人ひとりの命が、非常に簡単に扱われてしまっている今です。

先日は、枠チンの中に異物が入っていても、回収も、撤回もなし。中止もなし。

この枠チンは大丈夫って、どういうことなんでしょう?

今までの世の中だったら即効、回収の、しばし様子見の上に、接種中止じゃないんですか?異常事態も甚だしいですよ~えーん

 

あなたの命は大切で、とっても尊いです。

 

大切にしていきましょう、命と體と心♥

 

私は、枠チンを打った方を非難したり、おかしいと言いたいわけではありません。

それは、私が枠チンを打たないのと同じように、その方の自由だからです。

 

ただ、私の知っている情報を一度吟味してもらいたいと思うだけです。

そして、枠チンを打たない人たち、マスクをしない人たちの自由も認めてもらいたいのです。

 

マスクについては、これまた、非科学的な考えが世の中にのさばっていて、どうしてこうなるのか不思議でなりません。

これについては、長くなるので、また別に書く方がいいと思われます。

 

 

お読みいただいてありがとうございます音譜