気づきは、常日頃から万人の脳裏で閃いている。
しかし、それを即座に掻き消してしまうのは、大抵は思考による自己否定だ。
固定観念や思い込み、経験則からくる防衛反応。
まず浮かぶのは“でも、だって、どうせ”
そんな逆接の接続詞。
自分ひとりの言動では何も変えられない。
自分ごときが革命なんて起こせる筈がない。
そうしてまた一つ、また一日、大なり小なり、我慢と不満が積み重なる。
だからって“がんばれ”と云う安直な精神論で強行突破しては、心に負荷が掛かりすぎる。
最も楽な方法は思考も心も納得して進む事。
そうすれば、不思議とすぐに動けるようになる。
“可謬主義”なんて、面白い言葉がある。
知識についてのあらゆる主張は、原理的には誤り得るという学説だ。
また、ネイティヴ・アメリカンの教えにこんな言葉もある。
知恵を探せ、知識ではない。
知識は過去、知恵は未来だ。
要は、人間の脳味噌では計り知れないところに、兆しがある。
頭を使い過ぎた者たちも、感覚を重視し自然と共生している者たちも同じ答えに辿り着いているのが面白い。
私も彼らの意見に賛同する。
その方が、可能性が無限に拡がるからだ。
私たちを挫かせようとする誰かの言葉は、
所詮、過去の遺物に過ぎない。
私たちの閃きこそが、未来からの先導である。
この資本主義社会の仕組みを裏側から覗いて回るのは、本当に興味深く、これまた面白かった。
スーパーやデパートに行けば当たり前に陳列されている商品がどうやって造られているのか。
“合格”を貰えなかった商品たちがどんな扱いを受けているのか。
そして、その製造に携わる人間たちがどんな環境で労働をしているのか。
私は職業に貴賎を感じない。
だからその現状に否定も肯定も、同情も尊敬もする気は無い。
ただ、疑問に思った。
何故、誰も声を上げないのか。
食品に関わる職場では、大量のフードロスは当たり前。
社員に配ることも、何か別の商品として販売することもせず、何ら傷んでもいない食べ物をゴミ箱に投げ込む事に、誰も何の感情も抱いていない。
初めは、誰しも衝撃や違和感を覚えたはずだ。
しかし、見て見ぬ振りをする方が楽だといつしか感情を不感にし、思考が心を矯正したらしい。
これを大袈裟な想像に結びつけると、捨てられていく命にも感情が動かなくなってしまうから、いつの時代にも戦争が出来るんだろうなと、人間の順応力の高さには不穏な方にも感心してしまう。
機械のように、非常に単純な繰り返し作業。
急げ急げと急かされ、一分一秒を争う大会競技のように、誰もが俊敏さを強要される。
トイレや水分補給も自由にままならない。
自分が流れに逆らえば、誰かに迷惑が及ぶ。
だから、心理的に楽な“我慢する方”に走る。
体調を崩すまで、その負担に気がつかずに。
何故、自分よりも他人を優先するのか。
何故、心だけを優先し、身体的苦痛を受け入れ、順応しようとするのか。
心が納得していれば自然と身体が動くのか。
それは、自分を虐待していることに他ならない。
虐待を続ければ、いずれ心身から白旗サインが来て、強制終了がかかる。
人の健康を軽視した職場に、尽くす必要は無い。
心身の悲鳴に、耳を傾けてあげてほしい。
何故、誰も声を上げようとしないのか。
そんな所で見聞きするのは閉鎖的な話題ばかり。
愚痴、噂話、そして粗暴な態度が目立った。
あれだけ身体に苦痛を抑えていれば、気が塞ぐのも当然だ。
中には沼のように澱み、陰険なところまで堕ちている人間も居た。
悪臭を放って回るオクサレ様的な感じで、周囲に呪いのように陰気を振り撒いていた。
人間は不思議だ。
声を上げ、上司や先輩から睨まれる可能性より、身体的苦痛に耐える方が楽だと考えるらしい。
私は正直、大量生産の食品工場なんてのは、すべて機械化してしまえばいいと思う。
機械は単純作業のプロだし、トイレも水分補給も必要ないのだから。
何処もかしこも、人権よりも利益を優先にした結果の現状だ。
まあ、どの道長続きしないだろう。
しかしそれは全員が沈黙している限り、誰かが斃れるか、大半がリタイアするまで変わる事は無さそうだ。
変化には、印象的な切欠が必要不可欠だから。
本来、人間はもっと各々が個性を理解し、適材適所な職に就く方が社会全体に有益だと私は思う。
そして、誰もが苦痛を味わい続ける職場など、その環境ごと、どんどん消滅させていけば良い。
そうして戦後から少しずつ改善されて来たのが、今のこの社会の成り立ちだ。
それにはまず、声が必要だ。
不平不満や愚痴が湧いてくるのは、希望や要望を押し殺しているという証拠だ。
つまり自分も、共感してくれる誰かも、もうそれが必要だと既に気付いている。
誰かが動き、自然と環境が変わり、いつか救い出される事を願い、それが叶わない現実に不満を抱き続けている。
しかし、それがその場の全員だったなら。
全員が声を殺し我慢し続ければ、表面化される事はなく、変わらぬ日々が続いていく。
それを変えるには、やはり、一歩前に出てみるしかない。
押し殺していた言葉を、発してみる。
それは、ただ独りの人間の、小さな小さな動きにしか見えないかもしれない。
その程度の事で何が変わるのかと諦めたくなるかもしれない。
でも、そんな謙遜など無用だ。
私たちの後ろには常に、見えずとも頼もしいサポーターたちが控えている。
ひとたび私たちが動き出せば、彼らは総動員で追い風を起こし、歯車を回し、道を造り、橋を渡し、時に背中に乗せて私たちを新天地へと運んで行く。
彼らはいつも、私たちが動き出すのを今か今かと待ち構えている。
何故なら、運命を動かす権利は、私たちしか持っていないからだ。
目に映る世界では、今日明日では何も変わらないかもしれない。
そのせいで、しばらくは時折後悔や疑念、虚しさなどに苛まれるかもしれない。
でも、心の何処かに“行動を起こした”という晴れやかな誇りが必ず宿っている。
その誇りを、どうかあたため、大切に育んでみて欲しい。
そして、時にふと振り返ってみるといい。
あの時起こした小さな風が、大きな変化の源だったことに気が付くはずだ。
人間社会ではどんな環境であれ、人間が集まらねば、そこは自ずと改善を促される。
そして機能しない環境は必然的に消えていく。
それには、声を上げる。
若しくは拒否の意思を示す。
たとえそれが水面に落ちる一滴だったとしても。
蝶の羽搏きほどの風であっても。
動きは必ず連鎖を生む。
声は必ず共鳴を呼ぶ。
そうして無関心だった人たちの意識を引くのだ。
意識の磁力は、砂鉄のように寄り集まり、
大きなうねりを引き起こす。
世界は私たちの集合意識が創っている。
雲のように、悠然と、着実に変わってゆく。
今この瞬間は、何も変わらなくても。
私たちには、底知れぬ力が備わっている。
小さな蝶の、ささやかな羽撃き。
いつしかそれは、遥か彼方の象をも動かす。