引用元:建勲神社
あれは、遡ること数年前。まだ私が会社員だったころ。
行きたくもない会社に向かうため、乗り飽きたいつもの電車に揺られていた。
社会に埋もれ、根性で働き、第六感?そんなバナナと疑い気味で生きていた時代。
私は昔から黙っていると頭の中がずーっと騒がしく、ひっきりなしに喋り続ける。
そのお喋りも脳内で動画が流れるのも、みんなそうなんだと思っていた。
今思えば、やたら色んな存在がくっついてたからか、と理解できるが、当時は「私やべぇな、多重人格かな」と思うくらい日々脳内お喋りの口調が変わっていた。
武士道はどうした、日本は脆弱になってしもうたわ‼︎
日本人よ、今こそ大和魂を思い出せぇ‼︎
その日、何故か私に知らない武士の人が憑いていたらしく、朝からえらい剣幕で怒り散らしていた。
ああ、昨日散歩がてら織田信長さんが祀られている建勲神社に行ったから、何か家来の人でも憑いて来ちゃったのか、と呑気に考えていた。
が、違うわ。
あれ、龍化した信長さん本人だったわ…。
サイキックが復活した今、改めてそう確信している。
信長さんが言うことには、現代日本人は敗戦後、某ジャイアン国の実質的支配下に置かれ、古来から漁や農作物など自然のもので賄われていた食文化が、資本主義お得意の大量生産型の添加物の導入によって、大いに変わってしまった。
それが日本人の精神に多大に影響しているという話だ。
自分を支配しているもの、逃れたいものから逃げる力を失い、下向き、鬱っぽくなり、従順になるしかないと思い込む。
化学物質は単に健康を害すると云うだけでなく、精神力をも奪うのだ。
反骨精神、闘争心、立ち上がる力、つまりは能動的な活力を失う。
制圧し、支配したい側からすれば、多くの人間を内側から弱らせる。
こんなに便利な代物はない。
そんな風に言うと陰謀論的で安っぽい話になってしまうが、実際は勝ち戦続きで調子こいていた日本がジャイアンにぶん殴られた、そういう時代の流れだったということだ。
私は教科書には詳しくないので感覚的知識しかないが、戦後の復興に力を注いだ高度成長期、失った人口を増加させ物質的損失を補うために、即席や大量生産は必要だったのだと思う。
強固な縦社会を形成するために、右へ倣え、規律、規則に従順かつ、長いものに巻かれることに違和感を抱かず一致団結して生きる必要性があったのだ。
それも、日本中が熱中したTVの導入であっさりと統制を取れた時代だ。
個人の違和感は社会の正当性の中に掻き消され“我慢”でどうにかなっていた。
しかし、時代は変わった。
食にしろ、物にしろ、建物にしろ、今、日本の物質は明らかに飽和状態だ。
私は現在、社会に従属して行先不透明な献上金を吸い取られるのが嫌で、単発のバイトを転々として資金稼ぎをしているのだが、これが、物質飽和社会の裏側をたくさん垣間見られてなかなか面白い。
その一環で先日働きに行った観光地にあるレストランでの、食品ロスのあまりの多さに心底引いた。
まあ、捨てているのは提供している側ではなく観光客の方なのだが。
しかしレストランの調理場では、忙しく面倒なのか蛇口を開けっぱなし。
無人の流し場で蛇口から延々と貴重な水が流れ、捨てられている。
「日本は恵まれている」を通り越し、恵みの上に胡座を掻いているような危機感すら覚えた。
時代はもう物質主義ではなく、精神的自由を求める時代に入っている。
もう物では心の穴は埋められない。
多くの人がそれに気づいているってことだろう。
少なくとも私はそう感じる。
そして、今の日本は自分に合ったものを自由に選択できる時代にある。
支配に従属し続けるか、自分の意思で生きるか。
私たちは日々食べ物を選ぶことを通して、実はとても重要な選択をしているのだ。
化学系の添加物の入った食事は、本当に不味い。
いや、本来は不味い。
多分エネルギーでも感じているのだろうが、味が嘘っぽくて、何か美味しくない。
地球の重いエネルギーに慣れて安定させるため、子供はジャンキーな物を摂取したがる傾向にある。
そのため、私も以前は常時摂取していたし、その時は美味しく食べられていた。
添加物なし生活を経た今だからこそ、味の違和感を感じられるんだと思う。
エネルギーにも人間の味覚や感覚にも“慣れ”があり、習慣化した日々の食生活ではなかなか気がつきにくい。
確実な判断材料は、食べたあとの身体と心の状態だ。
食べたあと、どんな気分なのか観察してみるのがいい。
愚痴っぽくイライラするのか、鬱々とやる気がなくなるのか。
それとも幸福感と満足感や、癒しや寛ぎを感じるのか。
私は質の良い食事を摂ると、少量で心からの至福を感じる。
採れたての瑞々しい野菜。
日本の海を感じる天然塩。
素材の味が生きた植物油。
防腐剤処理のない柑橘類。
グラスフェッドの乳製品。
平飼い鶏の卵。
あげるとキリがない。
だいたい、身体に良いものは“高い”と言われているが、確かにそうだ。
でも、エネルギー的に見てもそれらは“高い”。
何故ならそこに込められている愛情、
それは“与える側”の意識だからだ。
有機野菜といえば、単純に農薬を使わずに作っていると思われがちだが、それは単に無農薬野菜だ。
有機と謳うには土作りから始めなくてはならない。
化学肥料を使われていない自然の土地を耕し、遺伝子組み換えのない種を植え、虫や病気から守り育てる。
それには常に野菜たちを日々見守り、目をかけ続ける必要がある。
だからこそ高価であるし、高価だからこそ飛ぶように売れるほどの利益は見込めない。
それにも関わらず、作り手はそんな手間暇をかけてでも、丹精込めて育てたものを健康に美味しく食べて貰いたいと、少なからずあたたかな想いを込めて送り出しているのだと思う。
私はそんなエネルギーを逐一感じて生きているわけではないが、そんな食材は何故だか調理している時から嬉しくなるし、口に入れた時本当に美味しいと悦びを感じるのだ。
私はそんな至福を感じさせてくれる人たちに、悦んでお金を支払いたい。
対して、資本主義が提供する量産型の食品からは“奪う側”の意識を感じる。
如何に安く、早く、より効率的に生産し、継続的な利益を得るか。
つまりは食べる人々の健康よりも購買欲が優先なわけだ。
なので、ひと口食べたあとに必ず感じるのは、すぐに次に手を出したくなる中毒性。
そして、膨満感と同時に強い喉の渇きを感じる。
その欲するままに飲食を続けると、当然翌日は大抵消化不良で胃腸が重い。
以前どこかで知ったが、添加物の旨味成分を生成する際に、天然の塩に含まれている“ミネラル”が失われ、少量で濃い味を作り出すため塩味だけが残される。
なので塩分は多量に摂取しているにも関わらず身体が“ミネラル”を欲してさらに塩味、つまり味の濃いものを欲するという悪循環に陥る。
そして行き着く先は高血圧だ。
脳ってちょっとアホなのかなと思うほど単純で、実は、喉の渇きと空腹の判断もつかない。
ちなみに、天然水には天然のミネラルが豊富。
厳密には、原水にこだわり、化学的処理のされていない〝ナチュラルミネラルウォーターと〟記載があるものに限る。
スーパーに行けばいろんな水が並んでいるが、良い水選びは実はとても重要だ。
添加物には天然由来のものもあるので、神経質にすべてを除外する必要もないとは思う。
しかし、現在の日本では自国で作っているはずの国産の食品が高価で、安価な輸入食品に頼っているため、日本の食品添加物の認可数がやたらと多いのも事実。
その中には国外では危険と判断され、禁止されているものも含まれている。
まあ、だからと言って、私はすべての添加物を避け、有機野菜とグラスフェッドやフェアトレードの食品ばかりを選んでいるわけではない。
ただ、知っている、というだけだ。
知るということ。
それだけで人生は大きく変わる。
今の時代、情報すらも自分で選び取れる。
何を知り、何を信じ、何を選んで生きるのか。
すべて自由だ。
千円もある、と思うのか。
千円しかない、と思うのか。
そんな意識を選択することすら自由なのだ。
千円で高級な有機油を買うか、
安価なシャツを買うか。
意識次第でどちらでも選ぶことができる。
かつての私は仕事帰り、その千円ことごとく甘い物に費やしていた。
毎日のように手近な店で甘味を買っては夕飯前に二、三口で貪り喰った。
そんなもの付け焼き刃にすぎず一瞬だけドーパミンで幸福感を感じるが、またすぐに飢える。
ちなみに、糖の摂取量が増えると急騰した血糖値を一気に下げようと身体が作用するので、眠気、気怠さ、浮腫みが起こり、疲労も相まってソファから動けず、私はよくそのまま朝を迎えていた。
そして虫歯になり、寝た気がせず、体重も増加するというオマケつき。
あれも今思えば、あれはただのエネルギー枯渇状態だ。
本当に必要だったのは添加物満載の菓子パンではない。
ゆったりとした時間と天然水、そして栄養たっぷりの手料理を一口ずつ味わいながら食べる心の余裕が必要だったのだ。
そんな酷い有り様だった私だが、どんなに多忙な時期でも会社には手作り弁当を欠かさず持って行っていた。
毎日作るのは億劫なので週末に1週間分を作り置き。
これを毎朝ビュッフェみたいに選んでお弁当に詰める。
そして昼にたっぷり食べた分、夜はスープや麺類などで簡単に済ます。
塩漬けの肉や簡易の燻製にもハマって、旨味が凝縮した保存肉もよく作った。
買い物の回数が減ると余計なついで買いも減らせるし、光熱費も減る。
さらには帰宅後の脱力時間が減るので、一石何鳥かな。
最近は捨てていた野菜の皮を冷凍保存し、溜まれば煮出してスパイスからカレーを作る。
先日は同じく捨てていた柑橘類の皮(国産)と甜菜糖でオレンジピールを大量に作った。
これがまた、堪らなく美味しい。
ちなみにこれは健康意識や環境への配慮もあるが、無理な努力では全然ない。
単純に私が美食家で、種類豊富に楽しみたい食いしん坊だからだ。
自分で作る手料理が何よりも美味しい。
まあ、自分で自分好みに味や食材を調整しているのだから当然だ。
信長さんは少々破天荒だが、自ら先頭に立ち、あの苛烈な戦国時代を生きた強者だ。
きっと、自然を愛し、美食家でもあったんだろうな。
今は豪胆な高笑いが似合う、高潔な赤目の黒龍となり、日和った日本に喝を入れてくれている。
確かに私も、現代の利便性にかまけて、伝統やかつての日本の優美さ、心意気、日本人としての誇りが失われているようにも感じる。
それは戦国時代よりももっと遡る。
豊かな自然と共に在り、日出る国と詠われた、本来の日本の姿だ。
別に戦はしなくていいし、物理的には闘わなくてもいい。
ただ、信長さんや、日本を支えている龍たちと共に、これだけは声高に伝えたい。
誰の言いなりにもなるな。
何者にも屈するな。
決して諦めるな。
闘え、闘え、闘え。
そして、自らの自由を誇れ。