あの大地震から早3年。
正直なところ、あの時の記憶は薄らいできている。
津波・原発事故・計画停電・ガソリン給油困難・液状化(浦安)など。
私が住んでいる千葉県の東葛地域では震度5弱程度だったと思う。
家族は皆無事だったが、携帯電話は夜まで繋がらなかった。
家財はほとんど無事だった。
ガスや、水道、電気も大きな影響はなかった。
茨城の実家の近くでは瓦屋根が落ちたり、雨漏りが発生。
ちなみに茨城では長期的な停電、ガスが止まり、水道も止まった。
小さな余震が度々あった。
スーパーは生鮮食品が主に品薄状態だったが、食品であまり困った記憶はない。
たばこは品薄。生産する製品の種類も減った。
原発事故の影響でヨウ素やセシウムが拡散し、水道水に関しては皆過敏になった。
ゆえに、ミネラルウォーターは常に品薄だったし、値段も高騰していた。
近くの浄水場では、子供がいる家庭のみ、水の配布を行っていた。
福島から遠く離れたこの地でも、ホットスポットと呼ばれ、放射線が高値で検出され、市は除染作業に取り組んだ。
ガソリンスタンドの復旧には時間がかかった。1か所で一時的にオープンすると、渋滞ができ、10リッターしか給油できなかった。
病院や介護施設の送迎バスはガソリンの調達に時間を費やした。(数日後より、優先給油ができるようになった。)
大規模な停電はなかったが、原発事故の影響により、東京電力管内で消費電力を抑える必要が出た。企業をはじめ、皆、省エネ生活へと変わっていった。駅やショッピングセンターでは照明が間引きされるようになった。電車の本数も数か月間、間引き運転となった。
千葉県浦安市にある、東京ディズニーランドでは、ゲストに対して売り物のお菓子を配布したり、防寒等の配慮にキャストが夜を通して動いていたという。
また、病院では東北地方からの転院相談も多かったようだ。しかし、ヘリコプターでの移送ならまだしも、高速道路や一般道での移動は、倒壊や地割れ、渋滞等を考えると、かなり困難を極めたに違いない。
私の職場で、仙台出身の同僚が、翌日の12日に車で地元に帰ったが、ほぼ1日がかりだった。しかも、着いたはいいが、給油ができず、長い間帰ってこれなくなった。
また、学生時代の友人は福島の南相馬に住んでいたが、死の淵を彷徨うような状況だったと、後からメールで知った。その時の状況もあり、あまり深くは話を聞けずにいる。
ここまでは、私が住む千葉での話。
岩手県、宮城県、福島県など、東日本の太平洋側の地域では大津波が発生し、多数の死者や行方不明者が出た。多くの建物は流された。
宮城県気仙沼では大規模な火災が発生し、3.11当日の夜はテレビでずっと中継されていた。
仮設住宅での生活者は今でもいる。
福島の原発事故は数か月に渡り、情報が公開されず、東電と国との足並みも揃わず、国民はマスコミの情報に振り回された。避難区域となった近隣住民は、家に住むことができなくなり、埼玉県加須市をはじめ、地方の自治体への非難を余儀なくされた。
これらの経験と知識を、これから先の防災に活かしていけるのか。
記憶や意識は完全に薄らいできている今、僕はもう一度立ち止まって、後ろを振り返って、そしてまた前に進む。