昨日、私の実母の葬儀でした。
・3/1に緊急入院して、
・・・早ければ3日以内で退院
・・・肺炎を併発の場合は約2週間で退院
そういった説明を受けており、状況を見守りながら
悪化した場合は連絡を受ける事にはなっていました。
~その後の状況~
・3/4、病院での状況を母のお世話になっている介護施設の相談員から連絡を受け、「軽い肺炎になっているため、退院は3/15前後になる見込」との報告があり
・3/6以降からは回復傾向にあり(介護施設の相談員)
・3/7からは酸素吸入器もはずしてもよくなり(介護施設の相談員)
・3/9から食事も開始しはじめるところまで回復。(介護施設の相談員)
・3/10午前中に病院から1回目の連絡いただき、回復状況を確認。
・3/11夕方に介護施設の相談員からも再度、更に回復の状況の連絡があり
・3/13夕方に病院の看護師から2回目連絡あり「主治医から説明ありますので、近日中に病院に来られる時間はありますか」との事だったので、私も入退院を繰り返している母の、退院の前には、毎回、同様の連絡が病院からあり、いつも通り、今後の退院後に注意する点などの説明を受けるのかなと思い3/15に帰省して病院に伺う約束。
・3/15に帰省先の昼に病院の母の病室に行って・・・唖然。
・その後、主治医から説明を受ける
内容は、「命がもって1か月。早ければ、1週間以内の可能性もありえる。意識の回復は見込めない。」
・主治医からの説明後、約1~2時間は、私自身が放心状態になり家族や母の事を心配してくれている人達への連絡もできずにいました。
・その後、皆へ連絡。また、奇跡的な母の意識回復の可能性を考え、母の大好きだった「食べ物」を買いに行き、母に語りかけながら「できたてあつあつの食べ物」の匂いを与えながら・・・
・まだ、大部屋で病室に宿泊できない為、各看護師やナースセンターや医師にも「急変で個室に移る事になった場合は、24時間いつでも私の携帯電話に連絡をください」と約束をした上で、病院の最寄の宿泊施設に宿泊
・翌日3/16の午前中、私も病状悪化後の個室に移る事を頭にいれて、目先の1週間の宿泊(病室)の着替えの購入や母の大好きな「食べ物」を購入後、病室(大部屋)に行ったところ・・・母のベッドに母はおらず、荷物もなく、私は一瞬、目眩・動悸が激しくなり、ナースステーションに確認。看護師から「今朝早朝に急変したので、部屋を個室に移動しました。」とあり病室を教えてもらうが、そこにも母はいない・・。また、動悸が激しくなり、再度、ナースステーションに確認した所、病院側の連絡ミスで他の病室が判明し、連絡をうけた部屋に行き、急きょ、≪昨日、見舞いに来てくれた全員に病状が急変して個室に移動した事などを連絡したり、お見舞いにきてくれていた親戚などと一緒に母に語りかけながら約1時間後・・・
・母が泡を吹き出し、顔色も急変の為、即、緊急呼び出しコールをしましたが・・・約7分後に医師が来て母の病状を確認し、「もう、もたないかもしれない」と言われ、再度、家族や母の大切な人達に3分ほどで、「大至急」の連絡をとり・・・病室に戻った時には、母は息をひきとっていました。
今回は、3/15に病状確認に来てくれていた介護施設の方からも聞いていましたが、病院の対応の悪さ(連絡漏れ・連絡違い・誤診・など)もあり、すべてが後手に回り・・・という事もありましたが、それをどんなに嘆いても母が生き返る事はありません。
・母が死亡して1時間後には、葬儀会場となる会館へ移動し、3/16は、親戚など母の大切な人達も集まってくれており、まだ、連絡をとっていない人達へも連絡をとったり、お通夜や葬式などの準備などの打ち合わせを葬儀会場の人達と打ち合わせなどをして、3/16の夜は、私と死亡した母(遺体)の二人で、添い寝をしました。
・3/17には妻と子供も、帰省先である葬儀会場となる会館に到着し、ほかの人達も集まり・・・18時から通夜。
・3/18の11時より葬式。
≪私の母≫
≪波乱万丈な人生を、幸せに生き抜いた女性であり母親でした。≫
・四国では知らない人がいないくらいの「飛ぶ鳥を落とす勢い」のある会社を経営している両親の長女として生まれ、多くの兄弟姉妹や友達にも恵まれ、豪華絢爛で優雅な青春時代。また、両親の教育により「人を大切に!家族や友達を大切にする事が最も重要」との教育を受けた青春時代を謳歌していました。
・私の父(約8年前に他界)と結婚後は、幸せと苦難の両方を体験。
母の夫であり私の父は、冤罪では、日本で2番目の無罪判決になった「財田川事件」の弁護団の一員として、公務員でありながら私財を投げ打ち、活動。無罪の死刑囚の潔白を証明し、勝訴に!
ただし、勝訴を勝ち取るまでの道は、私も含め、大変な時期が多々ありました。特に母は・・・。
その当時は、国や警察の間違いに対してであっても、巨大な権力を相手に戦うという事は、非国民に近い扱いをされる人の割合が多く、自宅には、毎日のように石を投げ込まれたり、ガラの悪い人達から絡まれたり・・・しかし、普段はのんびりしている母も、そういった相手には毅然として立ち向かい私を守る事に最善の注意をしてくれていました。
私も小学生の時は、市会議員や県議会議員を親や親戚に持つ子息である同級生や上級生から「あの子の親は悪い事をしている人」とか「犯罪者の片棒を担いでいる」など陰口や噂を学校中に流されたりしていました。そして今だから話せる事ですが、何度か、誘拐に近い事をされそうになった経験もあります。私の場合は、私も含め友人や先輩などの仲間が、その学校の中でももっともやんちゃであった為、みんなで私を守ってくれる事もあり、気になる事はなかったのですが、母は大変だったと思います。
そんな中で、私が母に思った事は・・・
「おふくろは凄いな!偉い!」
というのも、世間からは変な目でみられ、陰口をたたかれ、時々、危険なメにさらされる事もありながら、「お父さんは正しい事をしている!間違った事は何ひとつしていない!堂々としていなさい!」と私や私の友人に、いつも話してくれていました。
母だけでなく、私の父もですが、私は両親に感謝している事があります。
「友達・家族を大事にしなさい!」
私が両親に教育されたのは、上記の事と「弱いものいじめはするな!逆に守りなさい!」と「一度、喧嘩をすると決めたら、相手が、どんなに強かろうが勝ち抜け!」くらいでした。勉強ができなくても笑い話で終わるような両親で、ただ、この3点には厳しく躾をされました。
その父がすでに他界してから約8年・・・。
そして母が他界して私の実の両親は実体としてはいなくなりましたが、私の心の中には永遠に居続けます。
母さん、本当にいままでありがとう!
また、約8年間、母の介護を懇切丁寧にしてくださった介護施設の皆様には感謝します。
読者のみなさんも親は尊敬し、大切にしてください!
・3/1に緊急入院して、
・・・早ければ3日以内で退院
・・・肺炎を併発の場合は約2週間で退院
そういった説明を受けており、状況を見守りながら
悪化した場合は連絡を受ける事にはなっていました。
~その後の状況~
・3/4、病院での状況を母のお世話になっている介護施設の相談員から連絡を受け、「軽い肺炎になっているため、退院は3/15前後になる見込」との報告があり
・3/6以降からは回復傾向にあり(介護施設の相談員)
・3/7からは酸素吸入器もはずしてもよくなり(介護施設の相談員)
・3/9から食事も開始しはじめるところまで回復。(介護施設の相談員)
・3/10午前中に病院から1回目の連絡いただき、回復状況を確認。
・3/11夕方に介護施設の相談員からも再度、更に回復の状況の連絡があり
・3/13夕方に病院の看護師から2回目連絡あり「主治医から説明ありますので、近日中に病院に来られる時間はありますか」との事だったので、私も入退院を繰り返している母の、退院の前には、毎回、同様の連絡が病院からあり、いつも通り、今後の退院後に注意する点などの説明を受けるのかなと思い3/15に帰省して病院に伺う約束。
・3/15に帰省先の昼に病院の母の病室に行って・・・唖然。
・その後、主治医から説明を受ける
内容は、「命がもって1か月。早ければ、1週間以内の可能性もありえる。意識の回復は見込めない。」
・主治医からの説明後、約1~2時間は、私自身が放心状態になり家族や母の事を心配してくれている人達への連絡もできずにいました。
・その後、皆へ連絡。また、奇跡的な母の意識回復の可能性を考え、母の大好きだった「食べ物」を買いに行き、母に語りかけながら「できたてあつあつの食べ物」の匂いを与えながら・・・
・まだ、大部屋で病室に宿泊できない為、各看護師やナースセンターや医師にも「急変で個室に移る事になった場合は、24時間いつでも私の携帯電話に連絡をください」と約束をした上で、病院の最寄の宿泊施設に宿泊
・翌日3/16の午前中、私も病状悪化後の個室に移る事を頭にいれて、目先の1週間の宿泊(病室)の着替えの購入や母の大好きな「食べ物」を購入後、病室(大部屋)に行ったところ・・・母のベッドに母はおらず、荷物もなく、私は一瞬、目眩・動悸が激しくなり、ナースステーションに確認。看護師から「今朝早朝に急変したので、部屋を個室に移動しました。」とあり病室を教えてもらうが、そこにも母はいない・・。また、動悸が激しくなり、再度、ナースステーションに確認した所、病院側の連絡ミスで他の病室が判明し、連絡をうけた部屋に行き、急きょ、≪昨日、見舞いに来てくれた全員に病状が急変して個室に移動した事などを連絡したり、お見舞いにきてくれていた親戚などと一緒に母に語りかけながら約1時間後・・・
・母が泡を吹き出し、顔色も急変の為、即、緊急呼び出しコールをしましたが・・・約7分後に医師が来て母の病状を確認し、「もう、もたないかもしれない」と言われ、再度、家族や母の大切な人達に3分ほどで、「大至急」の連絡をとり・・・病室に戻った時には、母は息をひきとっていました。
今回は、3/15に病状確認に来てくれていた介護施設の方からも聞いていましたが、病院の対応の悪さ(連絡漏れ・連絡違い・誤診・など)もあり、すべてが後手に回り・・・という事もありましたが、それをどんなに嘆いても母が生き返る事はありません。
・母が死亡して1時間後には、葬儀会場となる会館へ移動し、3/16は、親戚など母の大切な人達も集まってくれており、まだ、連絡をとっていない人達へも連絡をとったり、お通夜や葬式などの準備などの打ち合わせを葬儀会場の人達と打ち合わせなどをして、3/16の夜は、私と死亡した母(遺体)の二人で、添い寝をしました。
・3/17には妻と子供も、帰省先である葬儀会場となる会館に到着し、ほかの人達も集まり・・・18時から通夜。
・3/18の11時より葬式。
≪私の母≫
≪波乱万丈な人生を、幸せに生き抜いた女性であり母親でした。≫
・四国では知らない人がいないくらいの「飛ぶ鳥を落とす勢い」のある会社を経営している両親の長女として生まれ、多くの兄弟姉妹や友達にも恵まれ、豪華絢爛で優雅な青春時代。また、両親の教育により「人を大切に!家族や友達を大切にする事が最も重要」との教育を受けた青春時代を謳歌していました。
・私の父(約8年前に他界)と結婚後は、幸せと苦難の両方を体験。
母の夫であり私の父は、冤罪では、日本で2番目の無罪判決になった「財田川事件」の弁護団の一員として、公務員でありながら私財を投げ打ち、活動。無罪の死刑囚の潔白を証明し、勝訴に!
ただし、勝訴を勝ち取るまでの道は、私も含め、大変な時期が多々ありました。特に母は・・・。
その当時は、国や警察の間違いに対してであっても、巨大な権力を相手に戦うという事は、非国民に近い扱いをされる人の割合が多く、自宅には、毎日のように石を投げ込まれたり、ガラの悪い人達から絡まれたり・・・しかし、普段はのんびりしている母も、そういった相手には毅然として立ち向かい私を守る事に最善の注意をしてくれていました。
私も小学生の時は、市会議員や県議会議員を親や親戚に持つ子息である同級生や上級生から「あの子の親は悪い事をしている人」とか「犯罪者の片棒を担いでいる」など陰口や噂を学校中に流されたりしていました。そして今だから話せる事ですが、何度か、誘拐に近い事をされそうになった経験もあります。私の場合は、私も含め友人や先輩などの仲間が、その学校の中でももっともやんちゃであった為、みんなで私を守ってくれる事もあり、気になる事はなかったのですが、母は大変だったと思います。
そんな中で、私が母に思った事は・・・
「おふくろは凄いな!偉い!」
というのも、世間からは変な目でみられ、陰口をたたかれ、時々、危険なメにさらされる事もありながら、「お父さんは正しい事をしている!間違った事は何ひとつしていない!堂々としていなさい!」と私や私の友人に、いつも話してくれていました。
母だけでなく、私の父もですが、私は両親に感謝している事があります。
「友達・家族を大事にしなさい!」
私が両親に教育されたのは、上記の事と「弱いものいじめはするな!逆に守りなさい!」と「一度、喧嘩をすると決めたら、相手が、どんなに強かろうが勝ち抜け!」くらいでした。勉強ができなくても笑い話で終わるような両親で、ただ、この3点には厳しく躾をされました。
その父がすでに他界してから約8年・・・。
そして母が他界して私の実の両親は実体としてはいなくなりましたが、私の心の中には永遠に居続けます。
母さん、本当にいままでありがとう!
また、約8年間、母の介護を懇切丁寧にしてくださった介護施設の皆様には感謝します。
読者のみなさんも親は尊敬し、大切にしてください!