遅くなり過ぎましたが、記録を残すために書いておくことにします。(^^;)
狂言は最後のどんでん返しというか、あべこべになる結末が面白さのツボです。あちらが此方で、此方があちらみたいな逆転の結末。
例えば「武悪」では、始まるといきなり主人(野村萬斎さん)が家来の太郎冠者をものすごい剣幕で怒っています。
武悪という家来が不奉公でけしからんから、「お前、あいつを撃って来い」と命令しています。(理由はわかりません。ここでは理由は関係ないのです)
そして、中に太郎冠者と武悪のやりとりを挟んで、最後はなんとさっき怒っていた主人が武悪に追われて、「謝る、謝る」と言って逃げるように橋掛りを下がっていく羽目になります。
観ていて、あれ?これって、あべこべじゃない、クスッ(笑)みたいな可笑しさ。
もうその頃には、萬斎さんはサササーッと橋掛りを下がって揚げ幕へ向かっていて、まごまごしていると狐につままれたように終わってしまいます。
野村万作さんの「無布施経(ふせないきよう)」も、檀家がうっかりお布施を忘れたので、和尚(万作さん)がなんとかお布施に気付かせようと、「フセ」という言葉を混ぜた説教をあれこれ繰り出して苦心惨憺するところが笑える話。
必死に説教する和尚は、さもしくさえ見えたのに、いざもらえる段になったら、自ら策を弄し過ぎたために墓穴を掘って、もらえなくなるという皮肉な結末に、和尚の人間臭さがなんとも哀れで苦笑する話。
その場のギャグに反応してワッハッハっと笑って、一瞬で消えるような笑いではなくて、寧ろその場ではエッあれ?と思って、後からジワジワと脳にきて笑いが起きて、その後心に深く留まって消えないような笑い。だから残るし、この簡潔で深い面白味に嵌ると、また観たくなります。
今回初めて野村万作さんの狂言を観ましたが、橋掛りの出と引っ込みが、歌舞伎の片岡仁左衛門さんの花道の出と引っ込みに似ているように感じました。
音もなく、気配で、あ、出てきたと感じると、もう一瞬で舞台の空気をガラッと変えて、作品の世界に引き込む力があるのと、サーッと引っ込んでしまうのに、後にずっと余韻が残って、しばらく身動きできない感じになるところ、似ている気がしました。
ムムムッ、さすが人間国宝同士、ありきたりだけど、そういうことなんだなやっぱり、なんてなんか納得してしまった。
場面を説明するものが一切ないので、謡による場面と人物の説明から状況を想像しなければなりません。
今回自分で驚いたのは、那須与一語(なすのよいちかたり)で、舞手が片膝ついて正面上手に向かって、扇をすっと出した時に、扇と舞手の視線の先に青い海原がサーッと広がったことでした。助けになるものは扇面の波模様だけだったのに。
楽器の演奏と謡から、大海原を挟んで対峙する源氏と平家のざわめきや、緊迫する空気も思い浮かんできて、殺風景と思った舞台は、俄然色を帯びたものとして楽しめたのでした。
舞手の力もあったと思いますが、何度か歌舞伎の舞台を観て、大海原の背景画が記憶に残っていたか、笛や大鼓の意味を歌舞伎から応用して、自分でも無からイマジネーションする力が上がったか、どっちかです。(大河ドラマの影響もあるかもしれません(笑))
歌舞伎を観てきたことで応用力がついた(と思いたい)嬉しい体験でした。(^ω^)
歌舞伎には能や狂言から取り入れた作品が多くあるので、ルーツを知る意味でも能や狂言には興味があります。
序や状況説明を省いて本質だけを演じる、簡潔で深い狂言の世界、難しいですが面白い。多分これからも観ると思います。歌舞伎はもちろん私にとって基本なので観ますが。(^o^)