JOA MUSIC HOUSE -30ページ目

この道3

この道2の続き

母は、結婚してから歌手としての勉強を正式に始めたようだ。

子供たちの面倒を見ながらも、早く自分の練習をしたかったのか、夕方私に食事をさせると、早々と「もう寝なさい」と寝かせられてしまう。

そして、その後が、母の天下の練習時間となる。

母の練習室と私の部屋とは壁1枚の隣の部屋なので、練習を始めると、とても寝ていられるものでない。
クラシックの声楽の練習は、尋常ではない声の音域の広さと声量で、とにかくうるさい。
と、いいながらも子守唄にしながら寝てしまうのだ。

発声練習が終わると歌曲の練習になる。
発声練習は、ハハハハハーとかいって、曲になっていないし、とにかくうるさい。
それにくらべて、歌曲になると、美しい曲や楽しいものなど色々と変化があって楽しい。

「からたちの花が咲いたよー」という曲もとても好きな曲の1曲だ。
「まちぼうけ、まちぼうけー、ある日せっせとのらしごと~」なんかは、結構シュールなイメージだったような気がする。

特に好きだったのは、「この道はいつか来た道」という曲だった。

眠りの中で、私が通った道とオーバーラップして、日が燦々と降り注ぎ、母と歩いたことのある道がなんとも美しく感じられた。

今では、東京のあらゆるところが変わってしまい、思い出のあるなつかしい道は、ほとんどが様変わりしてしまっているようだ。

旅に出ては、ふらふらとさまよい歩いているのは、そんな懐かしい道を無意識のうちに探しているのかもしれない。

戦争の世紀といわれた20世紀が終わり、新しい時代である21世紀が始まったにもかかわらず、過去の争いの世界から脱しきれずにさまよっている私達人間。

光と愛とに包まれた道を次の世代に残すのも、私たちの役目なのではないかと思う。



この道 2

この道1からの続き

ある時、祖母の家に何人もの人が来て、物を運び出したりしていることがあった。何をやっているのだろう?と思いながら、静かになった時を見計らって、大人たちには見つからないように探検しにいくことにした。

その家に行くのは、祖母がフランスにいってしまってから始めてのことだった。

私がいつも遊びにいくと祖母が出てきて、台所のまん中にある大きな調理台についている細長い引き出しをあけて、中に入っている竹の皮で包んであるおかしをいつもおやつにくれることになっていた。

ほのかに梅の味がして甘酸っぱく、薄いようかんのようなものが、竹の皮に一枚一枚ていねいに包まれているお菓子が、山形の名物の『のし梅』というものだと知ったのは、音楽で仕事をするようになって、山形に演奏旅行に行った時だった。

しんとした祖母の家に入ると、驚いたことに、そこはがらんとしていて何もない。
誰もいないのは分かっていながらも、いつものように
「おばあちゃん!」と呼び掛けてみた。
でもそこには、いつものあばあちゃんの返事はない。

もう一度声をかけてみたが、そこには静寂があるだけ。
家のなかには、食器棚もソファーもテレビもすべての物がなくなって、白い壁だけがやたらに目について、がらんとした部屋を強調しているようだった。

ふらふらと台所に行ってみると、部屋のまん中にあの大きな調理台はそのまま残っていた。
「ああ、おばあちゃんの調理台。」

そう、この引き出しの中に、いつも私に手渡してくれた竹の皮に包まれたおかしが入っていたわ」と思い、引き出しをあけてみることにした。
いつもは祖母が開けてくれるその引き出しを、私が手をかけて開けるのは、その時初めてだった。

何か悪いことをしているようで、ちょっとどきどきしながらも、取っ手をつかんでひいてみた。
そこにはいつもの竹の皮で包まれたのし梅が入っているはずだった。
思ったより簡単にするりと開いたその引き出しの中は、からっぽで、木の底がむきだしのまま見えるばかりだった。

その時に始めて、祖母の不在という意味が分かった。
もう、戻ってこないという意味を。
それはあまりの突然のことで、「おばあちゃん、おばあちゃん」と心の中で叫びながら、どうしようもない胸の中の空白に呆然とするしかなかった。

続く
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この道 1

道ばたに咲く小さな花、雑草。青い空。車はまだ少なく、その道を車が通っている記憶があまりない。
そこを歩いている幼い時の私がいる。
小さな紫色の花はなんだったのだろう。
私の記憶のなかでは、とても静かな、しかし、太陽が燦々と降り注ぐ暖かな日だった。
私の幼い時の記憶の道は、現在ではすっかり変わってしまって、その時の面影すら、もう望むことはできない。

大人になるにつれ、とても大事なものや、大切な身近な人たちがいなくなったりすることに、とまどいを覚えながらも、しばしの忘却という衣を羽織ったりしては、自らをなぐさめてみたりもする。

小さい頃、きっと美味しいものを作ってもらって、調子に乗って食べ過ぎたのだと思う。
寝る時間になってもおなかが苦しくて、「おなかが痛い!苦しい」と、ベッドに入っても言っていたようだ。
父と母が私の部屋に来てくれて「食べ過ぎたのよ。でも、もう大丈夫よ」と、おなかをさすってくれた記憶がある。

祖母がフランスに旅行に行って、うさぎのぬいぐるみを買ってくれた。
私が、「うさぎが欲しい!うさぎを飼いたい」と言っていたからだったと思う。
でも、祖母は私に直接渡してくれることは出来なかった。

滞在していたパリで、交通事故にあい、亡くなってしまったからだ。
確か私が幼稚園に入る前の頃だったと思う。

幼い私は祖母が亡くなったという意味が、その時にはよくわからなかった。
でも、「おばあちゃんが送ってくれたうさぎのぬいぐるみ」は、私の一番のお気に入りになった。

祖母が急死したからだろうか、その頃から子供の私達は、いつも遊びにいっていた同じ敷地の中の、祖母の家には行ってはいけないおふれが出ていた。

何故遊びにいってはいけないのかは分からなかったのだが、「行ってはいけない」と言われると、庭からちょっとした木戸をあけていくのも、大人たちが見ている時には出来なくなってしまった。

ある時、祖母の家に何人もの人が来て、物を運び出したりしていることがあった。何をやっているのだろう?と思いながら、静かになった時を見計らって、大人たちには見つからないよう
に探検しにいくことにした。

続く