昨日、NHK・BSで映画「生きる」を見ました。
これで、10回以上です。
「生きる」は、1952年の作品です。
監督は世界的な巨匠、黒澤明さんです。
内容は、中年の市役所の課長渡辺勘治(志村喬)が、
日々平凡な生活を送っていた時、病院で胃がんが判明します。
余命は数か月でした。
それから、勘治は夜の街等に繰り出し、余生を過ごします。
しかし、ある時、部下である若い小田切とよ(小田切みき)と出会い、
彼女の自由奔放な生活、発想に心動かされます。
そんな彼女の影響もあり、地元に公園を作ることに決めました。
余生をすべて、そのために賭けました。
そして、公園が完成し、勘治は亡くなります。
お通夜の席で、同僚たちがお酒を飲み交わしています。
公務員の「お役所仕事」にも触れています。
勘治亡き後も「お役所仕事」は続きます。
しかし、勘治が残した思いは、その後の同僚の心の片隅に永遠に残るのです。
勘治が夜の公園のブランコで一人「ゴンドラの唄」を歌うシーンは、日本映画でも秀逸のシーンです。
この作品は、日本国内はもとより海外でも高評価を受けました。
主演の志村喬さんの演技はもちろん素晴らしいものでした。
しかし、一番ブレイクしたのは、小田切みきさんでしょう。
当時、ほぼ無名だった彼女は、この作品でその才能を花開かせました。
黒澤監督が見出した才能でした。
因みに、小田切さんのご主人は、俳優安井昌二さんです。
小田切さんは、2006年に享年76歳で亡くなられています。
ところで、この映画には私的には、もう一人忘れがたい女優さんがいます。
関京子さんです。
志村喬さんの、長男のお嫁さん役(渡邊一枝)でした。
私的には、あまり印象に残らない、光るところがないと感じています。
関さんは、私の実母の親友でした。
生まれは、1924年です。
母親と同い年です。
彼女は、東京音楽学校(現、東京音楽大学)へ進まれました。
そして、その後、新協劇団に女優として入りました。
新協劇団は、当時、宇野重吉さんも所属していました。
我が母親は、その劇団の裏方を務めていました。
そこで、知り合いました。
新協劇団は、思想的には、国から監視されていた集団でした。
関さんは、その劇団に在籍している時に、黒澤監督から「生きる」出演のオファーを受けました。
正に、晴天の霹靂でした。
映画主演後、しばらくして、関さんは母親の実家に遊びにみえました。
当時は私共一家は母親んの祖父母宅で同居していました。
私は、当時おそらく3~4歳だっと思います。
お会いした記憶はありませんが、当時の写真が残っています。
関さんは、ベレー帽を小粋にかぶり、正に女優のポーズで写真には残っています。
当時の関さんは、女優としての未来に全身包まれているようでした。
関さんは、新協劇団を辞め(解散)て、新たに1959年から東京芸術座を立ち上げました。
彼女が、座長です。
彼女はその後も劇団活動、映画(2本位)、テレビドラマに出演されていました。
しかし、印象には残らない役ばかりでした。
母親とは、数年に1回位、同窓会で会う付き合いでした。
今から、20年くらい前に、母親の元に、関さんが経済的にかなり困窮しているという情報がはいりました。
そして、2006年に大田区の病院で亡くなられました。
享年82歳でした。
映画「生きる」は、私にとって、少し意味のある映画になっています。

