東日本大震災から一年 ①ヒッチハイク-(1) | 徐裕行のブログ

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徐裕行の周辺で起きたことを
無理にでも拉致問題の解決に結びつける
うまく、落とせない時もあるけどね。

東日本大震災から一年。






日本を揺るがす未曾有の災害の被害にあい、命を落とされた多くの方々にご冥福をお祈り申し上げます。




また、今日に至っても避難所生活を余儀なくされておられる多くの被災者の方々にお見舞い申し上げます。




あの日、ぼくは埼玉県越谷市のビルの7階にある会議室でとある会議に参加していた。これまでに経験したことのない激しい揺れに動揺した。通信や交通が遮断され、連絡の取れない家族の安否を確認するだけでその日一日を費やした。




平成7年の阪神淡路大震災のとき、当日夕方から神戸に向かい、一週間の救援活動に出向いた経験があっただけに、今回の地震で東北の人たちがどれほどの困難に直面しているか、想像に難くなかった。




翌日になって、ぼくの盟友である夏井辰徳さんと二人でワゴン車一杯に水と食料を詰め込み、わずかながらでも被災者の力になりたいと国道4号線を北上した。その間に、夏井さんの携帯電話に後藤忠政氏から連絡が入り、ぼくたち二人が救援活動に向かっていることを知ると、間髪おかずに物資と金銭面での支援を申し出てくれた。


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左、夏井辰徳さん、右、ぼく


そのご、ぼくたちは南相馬市やいわき市、北茨城市への救援活動を展開していくが、そこで思い出に強く残るエピソードを2~3させてもらいます。



ひとまず、ぼくと夏井さんはそのまま北上を続け、福島県須賀川市、日立市などで物資の提供と情報収集をした。提供する物資が尽きたところで、夏井さんはそのまま北上して情報収集を続け、ぼくは今後の活動の打ち合わせや物資の調達のために東京に戻ることになった。



とはいえ、地震発生以来電車は止まっている。「本当に、大丈夫ですか」と心配する夏井さんと常磐線佐和駅近くの国道6号線工業団地入口交差点で別れた。



ぼくは、南下する車にヒッチハイクして東京まで行こうと考えていた。夏井さんが心配していたのは、本当にヒッチハイクで東京まで帰れるのか、ここで別れることでぼくまで被災者になってしまうのではないかという可能性があることだった。目指す東京は直線距離にしても130km近くありそうだった。



心配しても始まらん。まずはやってみるだけのことだ。車が止まらなければ歩けばいい。日が暮れてしまえば野宿をすればいい。それだけのことだ。



ぼくは南下する車に向かって親指を突き上げた。



5分ほどそうしていただろうか、反対車線からクラクションを鳴らしながらUターンをする車が現れた。目を向けると、ぼくに車に乗れと合図をしている。ぼくは車に駆け寄り、「東京まで行きたいので、国道6号線沿いであなたが行けるところまで同乗させてほしい」と伝えると、「そんなに遠くまではいけないけど」と快く同乗させてくれた。彼はぼくが困っているのを見て取り、一旦は通り過ぎたものの、わざわざ戻ってきてくれたのだという。心からありがたいと思った。



車内で互いに情報交換をした。彼は水の入手が困難だと言っていたので、ぼくたちが通ってきた県道36号線沿いの御岩神社に湧水がある旨伝えた。


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県道36号線沿いの御岩神社で湧水を求める人々




つづく。



※皆さんにお願いします。

北朝鮮による日本人拉致事件は、国籍、思想、年齢、性別、職業などに関係なく、日本に住むすべての方に関係する問題です。ぜひとも
朝鮮総連に拉致問題の解決を求める署名
にご協力ください。

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