金剛寺は、小田急線本厚木駅から北西に約6kmの厚木市飯山にあるお寺です。以前ご紹介した荻野(現在の地名では厚木市上荻野・中荻野・下荻野)も本厚木駅から見て北西に位置しますが、荻野地区が国道412号と荻野川に沿うのに対し、飯山地区は県道60号と小鮎川に沿っています。(荻野から南に山をへだてて飯山をはじめとする小鮎川沿いの集落が広がっています。国道412号は厚木から愛川町や相模湖方面につながる幹線であるのに対して、県道60号は厚木から隣の清川村煤ヶ谷を結ぶ全長9.3kmのマイナー路線で全線が小鮎川に沿っています。マイナー路線といっても主要バス路線であり、本厚木駅からのバスはそれなりに本数があるのでご心配なく下三角(汗)。本厚木駅北口駅前バス停5番乗り場から上飯山行か宮ケ瀬行に乗り約20分。飯山観音前バス停で下車します)

 

(小鮎川。水が澄んでて気持ち良いっカメラ!)

 

飯山観音前バス停で下車すると、のどかな山里らしい風景が目に入ってきます。県道のすぐ西側は小鮎川が流れ、さらに西に向かって山々が広がっています。バス停から少し南下して「飯山観音入口」交差点を右折、小鮎川に架かる「庫裏橋」を渡ります。かつて金剛寺の庫裏に向かう橋として架けられたことから、庫裏橋と名付けられたのだとか。(庫裏橋はコンクリートの橋ですが、歩道と車道の境界をへだてるガードレールと欄干が朱色に塗られ、歩道には木板が敷き詰められていて雰囲気のある橋です。橋を渡ってすぐに右折し約50m歩くと緑におおわれた金剛寺の参道に入ります。途中に山門のある150mほどの長い参道の突き当りに本堂が建っています。参道には桜の木が並び、春には美しい花を咲かせてくれますびっくりマーク

 

(庫裏橋。欄干の朱色が眼にあざやかです。ペンキ塗り立て目?!)

 

(参道の入口)

 

それでは金剛寺の歴史を振り返ってみましょう!金剛寺は曹洞宗のお寺です。歴史は相当古く、807年に空海が開いた草庵がその起源とされます。空海は東国ではもはや伝説的存在であり、過去ご紹介したお寺でも空海作といわれる仏像が本尊になっていたりする例は良くあります。(空海くらいのレジェンドクラスになると「史実かどうか詮索するなんて野暮よ」というカンジで、私もこれだけ空海、空海出てくるとほぼスルーしてしまいます。これから先もたくさんの「空海伝説」が手ぐすね引いて待ってることでしょう自転車といいつつも野暮を承知でちょっとだけ詮索すると、飯山の南西にそびえる大山山腹の古刹大山寺は徳一菩薩の招きに応じ空海が3代目住職を務めた霊場であり、空海は大山寺の伽藍を整え華厳宗・天台宗を兼学としました。兼学というのは、専攻する真言密教の宗学以外の宗派の宗学をもあわせて学ぶことを意味します。空海は「秘密曼荼羅十住心論」において、真言密教が本宗(根本となる教え)であることに変わりはないが、教えを極めるためには顕教など真言密教以外の教えも学ばなければならないことを解明しました。ライバルを知ることで真言密教の教えの尊さがよりわかるということでしょうか。そういうわけで、空海と関係の深い大山を至近に仰ぐ飯山に空海が草庵を開いたとしても、まんざらおかしくはないということでしょう)

 

(山門)

 

(扉壊れてます本?!)

 

中世金剛寺は京都泉涌寺や鎌倉覚園寺と深く関わり、相模国の真言律の拠点として興隆しました。泉涌寺は鎌倉時代に月輪大師俊芿が建立したお寺で、俊芿は北京律(京都を拠点とする真言律の一派。北京=ペキンじゃなくて南京=奈良に対する京都のことです(汗))の祖と仰がれました。(覚園寺は鎌倉時代に智海心慧が建立したお寺で、北条氏によって俊芿が覚園寺に招かれ泉涌寺の9代目住職源智が覚園寺2代目住職を務めるなど東国における北京律の中心となりました。鎌倉時代末期から南北朝時代にかけては、泉涌寺の僧侶が金剛寺住職を経験して泉涌寺住職に、あるいは金剛寺住職が覚園寺住職、泉涌寺住職を務める例が数多くあったようです。泉涌寺9代目、覚園寺2代目の源智も金剛寺住職を務めていたとされます。現代の企業でもここの支社長を務めたら次は本社の幹部だ、とかそういう出世ルートのようなものがあると思いますが、泉涌寺を頂点とする北京律系真言の世界では金剛寺もそのルート上にあったということですねカブト金剛寺については鎌倉幕府の正史「吾妻鏡」にも記載がありますが、相当重要なお寺であったことはまちがいありません)

 

(本堂)

 

金剛寺は北京律、つまり真言律の拠点としての時代を過ごした後衰退しますが、天文年間(1532~54)に曹洞宗に改宗し再興されます。というわけで曹洞宗の僧侶忠州(46年7月卒)を中興とします。ちなみに忠州サンは、前回ご紹介した厚木三田清源院の4代目住職です。清源院は曹洞宗の有力なお寺でした黒猫(「新編相模風土記稿」によると、忠州が足柄上郡関本にある最乗寺の住職を輪番で務めるためにおもむく途中金剛寺のお堂に立寄って夜を明かしたところ神さま仏さまのお告げがあったので、輪番が終わった帰途金剛寺を曹洞宗のお寺として建て直すことにしたと。こういう経緯があって金剛寺は清源院の末寺となったのです。最乗寺の輪番は東国の有力寺院が代わる代わるに務め、自分のお寺と最乗寺を往来するあいだに立寄った相模平野一帯の集落で曹洞宗のお寺を新たに建立することも多かったようです。集落の人びとは立寄られた高僧を大いに歓迎したのでしょう。当時東国を支配していた後北条氏が曹洞宗に帰依していたことから、曹洞宗の勢いが増していた時代でもありました。91年には、徳川家康から朱印地5石を賜っています)

 

(参道に立つ灯籠)

 

現在の金剛寺の境内を一見する限り、過去の興隆を想像することはできません(「できませんっ」と言い切るのもナンですが(汗))。しかし、そのすばらしい歴史は文化財として隠されているのです。まさに「能ある鷹は爪を隠す」状態です(合ってるのか?!)。(まずは本堂の左手前に建つ収蔵庫のなかにいらっしゃる「木造阿弥陀如来坐像」。こちらは国重要文化財に指定されています。厚木市内で唯一の国重要文化財です。普段は収蔵庫にしまわれているので見ることはできませんが、飯山地区の各地を会場として春の訪れを告げる「さくら祭り」の最終日(4月上旬)と秋の文化財保護強調週間(11月)に一般公開されます。普段は非公開の仏さまが文化財ウィークとか干支に合わせてご開帳されることは良くありますが、「ぜひご尊顔を拝見させていただきたい!」とは思うものの、予想される混雑と天秤にかけてしまうとほぼほぼ「混むからやめよ・・・」となってしまう私完了それくらい混雑がキライなのですが、せっかくの機会をみすみす逃す愚か者でございます(汗)。個人的には、拝観料を払って年中公開してくれたほうがありがたいかなと。お寺の方の維持管理の手数とかプレミアム感(?)を考えれば、不定期で公開の方が良いんですけどね)

 

(収蔵庫)

 

木造阿弥陀如来坐像が建立されたのは平安時代後期。像高139.3cm、檜材の寄木造りの仏さまで、眼には水晶製の玉眼が嵌め込まれています。もともと境内にあった阿弥陀堂に安置されており、胎内におさめられた墨書から永享年間(1429~40)以降何度か修理がおこなわれたことがわかっていますロボット(仏像の眼の部分をくり抜いて玉眼を嵌入する技法は鎌倉時代初期に一世を風靡した運慶のアイデアによるといわれ、仏さまが現実に生きているかのような印象をあたえることに成功しました。以前ご紹介した横須賀芦名の浄楽寺の運慶作阿弥陀如来坐像は関東最古の玉眼を持つ仏さまといわれます。金剛寺の像の玉眼は、後の修理時に加えられたということなんでしょうね。金剛寺阿弥陀如来坐像は、お顔から身体にかけての丸みを帯び均整のとれた容姿やきれいに並んだ螺髪、流れるような衣の線など優雅で落ち着いた定朝様の仏さまの典型として知られています。リアルを追求した天平時代、鎌倉武士よろしく荒々しさが良く表された鎌倉時代の仏像と比較すると、洗練された貴族趣味の仏さまといったカンジでしょうか)

 

つづいてのご登場は「木造地蔵菩薩坐像」です。こちらは本堂にいらっしゃいますが、「黒地蔵」とも呼ばれもともとは小鮎川にかかる庫裏橋近くにあった黒地蔵堂というお堂に安置されていたそうです。胎内の銘文から、1299年9月に院慶という仏師が建立したことがわかっています。(院慶は京都を拠点として活動した「院派」仏師で、鎌倉にやって来てこの像を建立したようです。院派は定朝に起源を持ち慶派、円派と並び立つ由緒ある正系仏師集団でした。京都が拠点となっていたこともあり、貴族社会と深い関わりを持っていました。ちなみに各派の仏師は、属する派を一字含めてみずからを名乗りました(院慶であれば「院」の字が入っています)。院慶だと慶派の慶の字も入ってしまってますので、ちょっとまぎらわしいですね(汗)。このお地蔵さまには「身代わり地蔵」の別名もあります。これは昔むかし黒地蔵堂を守衛していた人が何者かに切られ傷を負った際に、不憫に思ったお地蔵さまが傷を代わりに自分の身体に移してあげたのだとか。この伝説を受けて健康や安全を願う人びとから大きな信仰を受けていましたチョコ木造地蔵菩薩坐像は神奈川県指定重要文化財に指定されていますが、木造阿弥陀如来坐像と異なり一般公開はされていません。ほかに水瓶、錫杖、銅鋺などの鎌倉時代に作られた銅製品が厚木市有形文化財に指定されています

 

本堂や収蔵庫の辺りから参道をもどり山門を出ると、右手に大きな木造の建物がそびえています。こちらは大師堂です。1770年に建立されました。建物はとても立派なのですが、なんというか荒れたカンジが否めません(汗)。大師=空海のことで空海の尊像を安置しているお堂です。尊像は空海が34歳の時に自分で彫ったものなのだとか。(前に述べたとおり金剛寺は空海を起源とするお寺ですが、戦国時代に曹洞宗に改宗し大師堂が建立された1770年の時点では曹洞宗の寺院でした。「新編相模風土記稿」には、真言律の拠点として栄えた時代から曹洞宗寺院として再興されるまでの衰退期には「大師の影堂のみ纔に殘りし」とあります。これが大師堂のことでしょう。つまり大師堂自体はもともと存在していて、建物が朽ちてきたかなにかで1770年に建て替えたということでしょう。曹洞宗からすれば「大師堂?うちとは関係ないよっ!」とも言えたかも知れませんが、しっかり建て替えてあげたということですね。曹洞宗&金剛寺グッジョブ!!でさっき述べた「荒れたカンジ」がするというのは、大師堂の周りに回廊のように増築された木造の小屋掛けのせいではないかと思われます。大師堂の屋根の下に今にも倒れそうな小屋が・・・。小屋に入ってみると壁がなくなって吹き抜けになってるところもあったり・・・。この回廊には、石造の百体地蔵がずらっと並んでいます。百体地蔵は死者の冥福を祈る人びとの深い願いの証であり、小屋掛けがもう少しキレイになったら良いなと思いましたねこへび

 

(大師堂)

 

(屋根の傾きが凛々しいですひらめき電球

 

(百体地蔵。棚がかたむいてるのか壁に寄りかかっていらっしゃいます・・・ペンギン

 

(さまざまなお姿のお地蔵さまたち)

 

(庫裏橋から金剛寺参道に向かう途中、左手には「あつぎ飯山花の里」があります。春は赤や白のポピー、秋はざる菊が一面に咲き乱れ観光客の眼をうばいます。ざる菊というのは、1本の菊が無数に枝分かれし直径1mあまりのこんもりとした球体をつくったもので、表面に無数の菊の花をつけます。マンションのエントランスとかに球体に刈られた植木をたまに見かけますが、あれの菊バージョンといいましょうか。色も黄色、ピンク、オレンジなどさまざまでカワイイですテレビ見た目がざるをかぶせたような姿だから「ざる菊」なのだそうです。「マンションのエントランス菊」のほうがわかりやすいかも?!)

 

(訪れたのは真夏ですが、ひかえめに花が咲いていましたフラッグ