※今回は法界寺(神奈川県厚木市下荻野)、難波惣平旧宅(神奈川県厚木市下荻野)を紹介します。

 

それでは、厚木の民権史跡シリーズ第3回です!まずは厚木市下荻野の法界寺から。前回ご紹介した中荻野の戒善寺から法界寺に向かうには、国道412号線「公所海道」交差点から旧道を南東に約1.3km進み「荻野新宿」交差点を右折、約150m歩くと右手に山門が建っています。荻野新宿は、かつては交通の要所として知られていた地です。(まず北西から南東に向かう道。戒善寺方面からやって来る国道412号線旧道です。かつては「甲州道」と呼ばれました。甲州道は厚木宿の近くにあった相模川渡船場を出発点とし、甲州街道吉野宿(現在の相模原市緑区)を終点とする道です。南北を縦断する道は現在の県道63号線で、「八王子道」の一部でした。八王子道は、熊谷(現在の埼玉県熊谷市)からまっすぐ南下して八王子を経て上粕屋(現在の伊勢原市)に至る道です。上粕屋は大山の南東麓に位置し、新東名高速道路伊勢原大山ICが近くにあります。八王子道は「大山参り」のための道、「大山街道」でした。大山参りは、宝暦・明和年間(1751~72)以降大山御師の先導で貴人から町人・百姓まで老若男女問わず爆発的に流行しました。大山街道は武蔵、相模など大山参りのさかんな地区から大山へと通じていた古道の総称で、江戸赤坂見附を出発点とする「矢倉沢往還」、東海道戸塚を出発点とする「柏尾道」、藤沢を出発点とする「田村道」などがありました。八王子道もその一つだったのです。さらに荻野新宿は、もう一つの大山街道「府中道」の終点でもありました。荻野新宿交差点から北東に延びる細い道です。府中道は日光街道春日部を出発点とし、浦和、国分寺、府中を経て広い関東平野を北東から南西に縦断し、荻野新宿で八王子道に合流しました。まさに「すべての道は大山に通ず」!「大山にあらざれば山にあらず」!「大山よ、お前もか」???荻野新宿交差点の脇には、「大山街道」の碑が立っています。この道を行き来した喜怒哀楽さまざまな人々の表情がよみがえって来ます付けまつげ

 

法界寺は浄土宗の寺院で山号を無礙山、院号を圓融院と称します。山門をくぐると約70m先に本堂が建ち、本尊阿弥陀如来が祀られています。参道の両側は駐車場や住宅が迫っているため、境内は比較的こじんまりとしています。本堂は1844年3月に建造された歴史ある建物で、1955年3月に屋根が茅葺から亜鉛葺に葺き替えられました。(本堂前の向かって左には、お地蔵さまが祀られています。1719年に信濃高遠の伊東甚助という石工が造立した石仏です。安山岩で彫られたお地蔵さまで、光背と錫杖が付属しています。こちらは石ではなく金属で出来たものです。高遠の石工は有名ですが、江戸時代前期から信濃国内をはじめ近隣の上野、武蔵、駿河などに出稼ぎに出て、石仏、手水鉢、鳥居などさまざまな石造物を手がけました。相模では、厚木市、伊勢原市を中心に多くの活動の痕跡がみられます。法界寺の地蔵は、神奈川県内に残る高遠石工の作品のなかでも最も古い部類に入りますくまクッキー

 

(山門)

 

寺伝によると、法界寺は1585年小田原城主北条氏直が松田右兵衛大夫康長に命じて造立した寺院で、康長の家臣土屋豊前守が開基、広蓮社覚誉宗公大和尚が開山となりました。松田康長は後北条氏の奉行衆の一で、山中城主(現在の静岡県三島市)を務めました。1590年の豊臣方による後北条氏攻略の一環として、豊臣秀次らに大軍で攻められ山中城は落城、康長も討死しました。(一連の戦のなかで法界寺も兵火により焼失しました。土屋豊前守の事績は定かではなく、1600年に死亡したこと、法名を桂山源秀としたことが「新編相模風土記稿」に記されています。法界寺の北西に康長の屋敷、法界寺近隣に土屋豊前守の屋敷があったといいますが、詳しい場所はまったくわかっていません。49年8月第3世雲竜和尚が徳川3代将軍家光公に歎願し、朱印地10石を賜りました。新編相模風土記稿には37年に鋳造された鐘のことも記されていますが、現在は行方知れずとなっています。この鐘の銘には、鋳物師木村河内守吉久と木村内匠吉治の名前と1710年と34年の両度再鋳されたことが刻まれていました。木村氏の祖先は後北条氏家臣で、お抱えの鋳物師でした。後北条氏に用いられていた鋳物師は江戸時代下荻野に集住していたようで、康長や土屋豊前守ら後北条氏に関連する人びととの関わりもあり得るのかも知れませんコスモス

 

(山門脇の掲示板に「欲しがりすぎて苦しみなやむ 愚かな人の心アイシャドウ」と。分を知り心穏やかに生きたいものですね・・・むずかしいけど(汗))

 

それでは、法界寺と自由民権運動の関わりについてみてみましょう!ここ法界寺は、1883年1月に「講学会」設立準備会が開催された地として知られます。講学会は、名前の通り学問を講じる会、つまり教育学習結社です。講学会には、前年82年1月に設立された農業・学術研究を目的とした結社「相愛社」メンバーが深く関わっていました。(講学会幹事の小宮保次郎・難波惣平、幹事補助の天野政立は、相愛社幹事を務めていた面々です。先に取り上げた神崎正蔵も常議員(常務評議員みたいなカンジでしょうか)として加わりました。神崎正蔵を取り上げた際に相愛社が政治結社の色合いを強めてメンバーが次々と自由党に入党したことを書きましたが、このあたりの事情をもう少し詳しく説明したいと思います。相愛社は3月には自由党加盟を申し出、自由党の愛甲郡支部のような存在になります。社として丸ごと自由党の一部になったというカンジです。相愛社の例のように、あいついで地方の結社が在地自由党になることで自由党の勢力は急速に拡大しました。しかし、6月政府は80年4月に制定された集会条例を改正・強化し、政党が支部を設置することを禁ずるとともに学術会議に名を借りた政治結社の取り締まりも可能にしました。つまり、学術研究を行う結社であり自由党支部でもある相愛社は、存立の危機に立たされたのです。結果として相愛社は自由党から離れ、相愛社メンバーのうち小宮保次郎・難波惣平ら9名が東京を拠点とする自由党に直接加盟することになりました。これにより相愛社の活動はフェードアウトしていき、代わって講学会が設立されたのです。講学会は相愛社と異なり自由党に直接所属してはいませんでしたが、自由党後援会とも言うべき存在でした。「みんなで民権を学習して自由党を応援しよう!」というカンジでしょうか。講学会の時間表をみると、学習スケジュールは午前と夜の1日6時間、つまり農業仕事の前後に配置したのです。これを1週間から10日を1クールとして繰り返すかたちで、83年と84年にたびたび開講されました。講学会では、英国の政治思想家のミル、ベンサム、あるいは福沢諭吉の民権論や政治論に関する著作を教科書として用い、招かれた講師が講義にあたりました。講師として、細川瀏(56~1934)らが招かれました。細川は福沢の開いた慶応義塾出身で、中学校長を経て板垣退助とともに自由民権運動に加わりました。92年からは、日本基督教会牧師として横浜海岸教会、市ヶ谷教会(東京都)や台湾の教会に赴任し伝道に努めました。細川は講学会設立準備会にも出席しています。農民たちは、講学会を通じて自由とは何か、民権とは何かを自分達の身に直接関わるものとして学習していきました。集会条例でいつ弾圧の手が加えられるかも知れず、しかも厳しい農業仕事の合間を縫って法界寺に集まった農民たち。おどろくべき熱量です満愛甲郡に限らず多摩や湘南などでも講学会に類似する結社が設立され、地元の人びとによる学習活動がひろがっていきました。講学会が誕生したのは明治維新から約15年後、明治時代の近代的な教育制度の下で育った世代はほぼ20歳より下の世代に限られていたでしょう。一方で講学会に出席した面々は、旧幕時代あるいは明治時代初頭の当時の見方からすれば「遅れた」教育を受けた人がほとんどだったとも思われます。そのような農民たちが、深く理解したかどうかは当然別にしても英国の政治思想やら福沢諭吉やらを「読む」という出発点に立つことが出来ていたということはおどろくべきことだと思います。これは、江戸時代農村社会の教育への関心の高さの裏付けであり、それが思わぬところで効果をあらわしたということなのかも知れません)

 

(本堂)

 

(軒には葵の御紋がウエディングケーキ

 

法界寺のそばには、相愛社と講学会の幹事を務めた難波惣平(1847~1904)旧居があります。「あります」と胸を張って書いたものの、実際には見つからず(汗)。地図によると、法界寺から県道63号線(八王子道)を約300m南下した荻野川の間のどこかにあるはずなのですが・・・。神崎正蔵旧居といい、私は旧居をさがす能力がいちじるしく低いのかも知れません(汗)。(難波は、地元下荻野村で学務委員を務めました。学務委員は教育令(1879年公布)で定められた役職で各学区に設置された小学校の事務を管理する事務長のような存在ですが、町村民が複数の候補者を「薦挙」して県令(県知事)が選任するという制度になっていました。つまり町村民が「この人こそは任せられる!」という人を推薦するわけですから、難波は下荻野村きっての有力者であり名士だったわけです。そして難波の自由民権運動との関わりは、80年の国会開設請願運動で愛甲郡代表を務めたことにはじまります。国会開設請願運動は、板垣退助が設立した政治結社「愛国社」が国会期成同盟に衣替えして全国的な政治運動に発展したものです。全国で多くの運動家が地元を東奔西走して演説し、集めた署名を国会開設請願書として太政官に提出しました。請願書は受理されませんでしたが、翌81年の「国会開設ノ詔」に結実しました。難波も愛甲郡各村をまわって署名を集め、国会開設に向けた皆の思いを政府に届けるために上京したのでしょう。その後難波は愛甲郡における自由民権運動指導者の一人として相愛社、講学会に関わり、神崎正蔵らとともに地租軽減運動に尽力します。そして自由民権運動の転機となり荻野の運動家も幅広く関与することとなった大阪事件(85年)の発生・・・。事件で有罪判決を受け現在戒善寺のお墓に眠る難波春吉は、難波惣平の弟です。難波は、自由民権運動が変質し過激化していくなかで起こったこの事件に関わった弟の救済のために走り回ったといいます。そして89年には神奈川県会議員に就任、県政発展に尽くしました。前回戒善寺を取り上げた際に「神奈川県の政治の中心は荻野村であったニコニコ!」という天野政立の言葉をタイトルにも選びました(絵文字は付けてませんが(汗))が、難波惣平は間違いなくそのシンボルの一人ですし荻野村自由民権運動の始まりから終息まで指導し見届けた数少ない人物です。というわけで、旧居が見つけられなかったことが無念の極みでございます(汗)。訪問する前のインターネット検索ではヒットしなかったので、もはや現存しないのでしょうか・・・少なくとも現地に説明板などは立っていないようです)

 

(高遠石工が造立したお地蔵さま)