今回は、厚木市中依知の浅間神社を訪ねます!市内には「浅間神社」の名を持つ神社がいくつかあり、それぞれ地名を前につけて「中依知浅間神社」などと呼ばれています。中依知のほかに、温水、七沢、上荻野、上依知に浅間神社があります。浅間神社は富士山を祭祀対象とする神社であり、丹沢を御前立として美しい富士山を望見することのできる厚木で浅間信仰がいかに盛んであったかがわかります。(私は訪問する前に(ザックリですが・・・)目的地へのアクセスやその歴史といった予備知識をインターネットで調べることにしていますが、厚木市内にこんなにたくさんの浅間神社があることを知らなかったため、気付かずに中依知ではないほかの浅間神社と混同してしまっていました。ネットの情報がバラバラなのでよくよく住所を見ると「あ、違う」と・・・いのしし(汗)。元はそれぞれの村の鎮守として信仰されていたのが、厚木市という広いくくりでとらえると浅間神社乱立状態のように見えるということですね)

 

中依知浅間神社へのアクセスは、小田急線本厚木駅(正確には駅近くの厚木BC)から神奈川中央交通のバスに乗り、国道129号沿いの「追分」で下車します。妙純寺を取り上げた際に書いたように、厚木BC10番乗り場から出発するバスであればほとんどが妙純寺のある金田を経て追分に停まってくれるようです。(一応最新情報をご確認くださいっギザギザ!!バス停から国道を南下し「圏央厚木インター入口」交差点の歩道橋を渡って進行方向左側の歩道に移り、左手にあるTSUTAYA手前の道路を左折します。そのまま道なりに坂を下って行くと依知中学校にぶつかるので、校舎南側の道路をまっすぐ進み校舎の建物の端あたりの曲がり角を右折、さらに2つ目の曲がり角を左折して約150m進むと浅間神社の一の鳥居が左手に立っています。周囲は宅地に囲まれていますが、鬱蒼と茂るお宮の森を目印にすれば迷うことはないと思います!)

 

(一の鳥居)

 

一の鳥居の柱を見ると、「昭和五十九年(1984年)区画整理事業に再建」と刻まれています。区画整理事業というのは「下依知特定土地区画整理事業」のことで、浅間神社や依知中学校の南側、国道129号の東側一帯の厚木市下依知を対象として、81年度から96年度を事業期間として行われました。(区画整理事業によって畑のなかに細い道路がうねうねと走り宅地が散在する状態が解消され、まっすぐな道路や都市公園が整備されました。浅間神社自体は事業の対象にはならなかったものの、事業の影響を受けて一の鳥居のあった場所が移ったということなのでしょうかびっくり?!参道は長く、一の鳥居から約100mは両脇が宅地や事業所になっています。そこを抜けると、赤く張り出した屋根を持つ正面の社殿を中心として背の高い杉林に囲まれた森厳とした空間に一気に変貌します)

 

(植え込みもあったりして、参道というより遊歩道みたいコアラ?!)

 

(社殿が見えてきましたスター

 

明治期に記された浅間神社の由緒書によれば、1247年6月1日に大雪があって五穀に被害が及ぶことを免れるために木花咲耶姫命を御祭神としてお祀りしたのが神社のはじまりといいます。6月が旧暦であれば盛夏の入り口の時期であり、雪やみぞれがちらついたとしても大雪というのは普通はあり得ないでしょう。(五穀が不作になることをおそれた村人たちが神頼みしかないっ、と考えてもなんら不思議ではありません。木花咲耶姫命は古事記、日本書紀に登場する神さまで、大山津見神の娘で邇邇藝命の妻となりました。サクラの花の象徴で大変見目美しいことで知られ、富士山がその神体山とされました。安産や五穀豊穣の御利益があるといわれます。ちなみにかな~り前に取り上げた東京都練馬区小竹町の浅間神社の由緒書のなかに、村同士が浅間神社の所有をめぐって争っていると夏に突然雪が降ったため、神さまの怒りではないかとおそれた2つの村があわてて共同所有にしたというお話がありましたパソコン浅間神社を夏の雪にからめるお話は浅間神社グループ(?)のなかに共通の筋立てがあるわけではないようですが、浅間神社=富士山=夏でも雪が降るのは富士山だけ、という連想が働いて夏の雪は木花咲耶姫命が霊験(もしくは怒り)をあらわしている、というような受け止めになったようです。「夏」、「富士山」、「雪」の3点セットがそろっていれば、あとはなんでも良いよ~といったカンジですかね。6月1日は富士山の山開きの日であり、この日に合わせて雪が降るというお話はかなり広範囲に広がっています。8世紀初頭のある説話では、富士山の神さま(「福慈の神」)が祖先神をないがしろにあつかったため、夏でも雪に閉ざされるようになったなんていう言い方もされています。やっぱり富士山がイチバン美しく見えるのは、快晴の真っ青な空を背景に山頂から七合目(?)くらいまですっぽり雪に覆われている姿ですかね。「ヨッ、日本一!」と叫びたくなってしまいます。実際には叫ばないわけですが(汗)。ちなみに中依知浅間神社の由緒書には、「木花咲耶姫命をお祀りしたら無事五穀に被害なく収穫を迎えることができた。そのため村人たちは木花咲耶姫命を大いに尊敬して、社を「富士の宮」と名付けた」とあります)

 

(鳥居の柱?!)

 

1591年浅間神社は徳川家康より社領2石の御朱印を賜り、中依知村と下依知村両村の鎮守として尊敬されました。だからなのかわかりませんが、神社は現在の厚木市中依知と下依知の境界付近にあります。1854年には火災によって社殿が炎上、御神体と銅鐘をのぞいて古文書などが灰燼に帰してしまいました。(68年明治維新とともに、富士の宮(もしくは浅間社)は現在の浅間神社に改称されました。ちなみに「新編相模国風土記稿」には、「境内に布目瓦をくだいたものがたくさん残っている。この神社が古くから存在する証拠だ、そうに違いないっ」と書かれています。布目瓦は古代・中世の寺院や官衙で使われた古瓦で、瓦の表面に細かな格子状の布の圧痕が残っていることから名付けられています。なぜ布の圧痕が付くかというと、平瓦は断面がゆるやかな山形になっているので(現在の一般的な瓦もそうですが)木型で成形する必要があるからです。木型に材料となる粘土を塗り付け、生乾きの状態で木型からとりはずして窯で焼きます。凹型台を木型として一枚ずつ成形する一枚造りと、円筒形の木型に粘土を巻き付けて4分割する桶巻き造りがあります。その際に木型にくっ付いた粘土がキレイにとりはずせるように木型の周りに布を巻いて、その上から粘土を塗り付けたのです浮き輪そのため瓦の布に接していた側に布の圧痕が残ったのです。江戸時代に庶民の家にも瓦が使われるようになるまでは瓦を使える建物は寺院か公共建造物に限られていたため、そんな貴重な昔の瓦が残っているということは浅間神社って歴史がある神社なんだなあ、ということを新編相模国風土記稿も言いたかったんでしょうね)

 

(依知村の村社だったことを示す石柱。依知村は1889年に上依知村、中依知村、下依知村、金田村など相模川と中津川に挟まれた地域の7村が合併して成立し、1955年に厚木市に編入されましたニコ

 

(狛犬)

 

↑で社殿が炎上した際に御神体と銅鐘をのぞいて灰燼に帰したと書きましたが、この銅鐘は現在も眼にすることができます。社殿の向かって右側に、この銅鐘が吊り下げられた小ぶりの鐘楼が建っています。座間の鈴鹿明神につづいて「鐘in(at??)神社」再びです。(総高は116.7cm、口径 70.7cmで総高に対する口径の比率が大きく、ややずんぐりした印象を受けます。撞木もちゃんとついているので、鐘をつくことができます。撞木は片一方にしかついていませんが、座間星谷寺七不思議の銅鐘みたいに鐘座がひとつしかないというわけではないと思われますタコ(汗)。こちらの銅鐘は、神奈川県重要文化財に指定されています)

 

(社殿。屋根の張り出し具合がカッコイイですクリップ

 

こちらの銅鐘、銘には1350年清原宗廣という名の鋳物師によって鋳造されたと刻まれています。清原は、中依知から西に5km弱はなれた厚木市飯山に住んでいた人物であるとされます。ただ、この鐘は元は浅間神社に納められたものではなく、鎌倉の大楽寺というお寺にありました。(イキナリ大楽寺見参ですが、大楽寺は鎌倉胡桃ヶ谷(鎌倉中心地から東、横浜市金沢に抜ける金沢街道方面)にあったお寺で、永享の乱(1438年)の後に薬師堂ヶ谷(鶴岡八幡宮の北東約900m)に移転しました。明治初年に廃寺となっています。大楽寺にあった鉄造不動明王坐像は、文永年間(1264~75)に京都東寺の復興に力を尽くした願行上人が大山寺の本尊不動明王像を造る前に試みに造ったとされる仏像で、「試みの不動」の別名があります。大山寺は伊勢原市の大山山腹に建つ修験道の霊地で、奈良時代に高僧良弁僧正が開山し弘法大師が第3世住職として赴任したことで知られます。大楽寺の「試みの不動」と本堂は、廃寺とともに近くにあった覚園寺に移築されました。で中依知浅間神社の銅鐘に話を戻しまして(汗)。銅鐘は明治の大楽寺廃寺の際に浅間神社に移ってきたわけではなく、1459年に大楽寺から浅間神社に納められたと追銘されています。この頃は、大楽寺が胡桃ヶ谷から薬師堂ヶ谷に移った時期にあたります。薬師堂ヶ谷で心機一転するにあたって新たに鐘を鋳直したので、胡桃ヶ谷時代に使っていた銅鐘を浅間神社に寄付したのでしょうか??寄付するにしても、鎌倉にも星の数ほど寺社はあるのになぜわざわざ遠くはなれた依知に??大楽寺の「試みの不動」は大山寺不動明王像の試作品(こういう言い方はナンですが(汗))、銅鐘を鋳造したのは大山に近い飯山に住む清原宗廣・・・。もしかして点を線にむすぶのは大山あしあと!?)

 

(銅鐘)

 

中依知浅間神社が富士の宮と呼ばれていた時代は神仏習合の時代であり、現在も神社の隣地にある東泉山安龍寺が別当として神社を管理していました。安龍寺は曹洞宗を宗派とするお寺で、1577年に玉山が開山しました。新編相模国風土記稿には、「浅間社別当安龍寺」として記述されています。(記述のなかに、「鐘銘に據ば古大楽寺と云る別當ありしにや」とあります。「鐘に刻まれた銘によれば、かつて大楽寺という別当があったのだろうか」ということでしょうか。この鐘は浅間神社の銅鐘のことを指すと考えるのが自然かと思いますが、風土記稿は銘に刻まれた「大楽寺」が浅間神社の別当だったのではないかと考えているようです。大楽寺は創建から廃寺まで鎌倉にあり続けたお寺ですが、別当寺って地理的に離れた神社を管理することもあったのでしょうか?!現実的に管理するには近くないといろいろと不都合が生じるのではないかと思うのですが・・・。もしかして大楽寺って鎌倉にあった大楽寺じゃなくて依知にあった同名のお寺だとか?!安龍寺が開山する以前から浅間神社が存在していたことは確実と思われますが、安龍寺の前に別当を務めていたお寺があっても不思議ではありません。それが依知にあった大楽寺?!なんらかの理由で大楽寺が廃寺となるか遠くに移ったかによって浅間神社との関係が切れるにあたって銅鐘が形見のように残された、とかゲッソリ?!一気に勝手な妄想がふくらんでしまいました(汗))

 

(境内西側には神楽殿が建っています絵馬