建徳寺は、臨済宗建長寺派のお寺です。前回取り上げた妙純寺からは至近で、国道246号線をはさんで直線距離で北に200mの場所にあります。妙純寺の山門を出て左、150mほど県道を北に進むと、国道246号線金田交差点とぶつかります。信号を渡る前に交差点を左折して側道に入り突き当りを右折し、国道の下をくぐるトンネルに入ります。(トンネルを抜けるとそこは・・・まだ厚木市金田です本命チョコ(汗)。地名上の金田は、相模川の支流中津川が相模川に合流する地点を南端とします。中津川・相模川合流地点から北2kmのラインと、東側の相模川、西側の相模川の支流中津川に囲まれた範囲が現在の厚木市金田で、明治時代初めまでは金田村、のち依知村の一部となりました。建徳寺は金田の北西部にあります。246号線の北、建徳寺の周辺は住宅地のなかを狭い道路が縫うように走り、トンネルを抜けて突き当りを右折、また突き当りを左折すると左手に建徳寺の山門が見えてきます)

 

(寺号標)

 

山門自体は閉じられていてくぐることができないので、脇を通り抜けて境内にお邪魔します。山門は東向き、本堂は南向きに建っています。山門から本堂の間は駐車場の用地が多くを占めていて、背丈の低い植栽が多いので開放的なカンジです。本堂の西側と北西側一帯、中津川河川敷の手前にかけて墓地がひろがっています。(建徳寺のあたりは南北に連なる依知台地の南端に位置し、山門付近が標高30mほどであるのに対し標高の高い本堂北西側の墓地は40mほどに達します。ちなみに前回紹介した妙純寺が30m、中津川の河川敷が25mほどですので、墓地から南側と西側の眺めが良いです。お参りのときには坂の上り下りがちょっと大変ではありますが。建徳寺に限らず全国的にお墓(お寺自体も)は斜面地にあることが多く、高齢の方はお参りするのに苦労されることと思います。そもそも山門から本堂までの石段が大変でたどり着けない・・・ということもあるかも知れません。私もできるだけ長く各地の寺社へのお参りを楽しめたらなあとは思いますが、足腰が弱くなったらなかなかむずかしくなってしまいますしね。こんな時ドラえもんの「どこでもドア」が一家に一台あれば、なんて年甲斐もない妄想にふけってしまいます・・・おとめ座(汗))

 

(山門)

 

(南側の本厚木駅方面を望む)

 

「新編相模国風土記稿」には、建徳寺の開山は大興禅師、開基は本間六郎左衛門尉重連と記されています。開基が本間重連であることは、妙純寺とおなじです。大興禅師(1219~1301)は、鎌倉時代中期に執権北条時頼の招請を受けて南宋(中国)から来日し鎌倉の大本山建長寺開山となった蘭渓道隆(大覚禅師蘭渓和尚)の高弟です。(大興禅師は示寂後に贈られた名で生前は葦航道然と称し、建長寺第6世、同じく鎌倉の円覚寺第5世を務めました。「禅林諸祖行状」という書物には蘭渓道隆の高弟として上から3人目に名前が挙げられており、エリート中のエリートでした。厚木、海老名、伊勢原といった相模平野の中部には、鎌倉時代以降室町時代を頂点として安土桃山時代までの間に臨済宗建長寺派のお寺が多く建立されました。建長寺のある鎌倉から見れば同じ相模国への教線拡大は自然ではありますが、一説には蘭渓道隆が鎌倉幕府によって甲斐国に謫されたことがきっかけになったとされます。元寇が勃発すると中国から来た蘭渓道隆が間諜ではないかとする讒言があり、蘭渓を危険視した幕府は2度にわたって甲斐国に流しましたブー蘭渓は甲斐国で臨済宗の布教にはげみますが、甲斐と鎌倉を結ぶ道の途中で弟子たちが布教を行いそこでつくられた信仰の基盤が多くのお寺の建立につながったのではないかということです。日蓮が佐渡国に流された時期と蘭渓道隆が甲斐国に流された時期はほぼ同時期で、謫された地で布教を行いそれが広まってしまうという、幕府からすれば逆効果このうえない結果になってしまっている点もいっしょです(汗)。蘭渓は日蓮と異なり幕府と対立していたわけではありませんが・・・。また、蘭渓自身が厚木に立寄ったかどうかはさだかでないにせよ、その高弟大興禅師を開山とする建徳寺の存在は本間重連を介した厚木と新仏教のかかわりの深さをほうふつとさせます)

 

(本堂。人の気配がありません。実は建徳寺では最近住職がある事件により逮捕され、無住寺の状態になっているそうです。歴史あるお寺で多くの檀家さんをかかえているでしょうから、早く正常な状態に戻って欲しいですね・・・)

 

(本堂西側から)

 

そして建徳寺墓地の一画には、厚木市史跡「本間氏累代の墓」があります。多くの宝篋印塔と五輪塔が並び、「石造物28基」の名で市有形文化財にも指定されています。これらの石造物は無銘で造られた正確な年代ははっきりしませんが、宝篋印塔が南北朝~室町時代中期、五輪塔が室町時代のものとされます。(前回妙純寺を紹介した際に、本間重連の祖父能忠の時代に本間氏が海老名氏から分封して依知郷の地頭として勢力を誇ったことを取り上げましたが、今回は重連の後の時代における本間氏を取り上げてみたいと思います。鎌倉幕府が滅亡し後醍醐天皇による建武政権が成立すると、本間忠秀は武者所番衆として活躍しました。武者所というのは、1334年5月に記録所、雑訴決断所とともに置かれた建武政権の重要な機関のひとつで、天皇の親衛隊の役割を担い御所を守るとともに兵馬の権限を一手ににぎり追捕(犯罪者の逮捕)を行い軍事的動員を組織しました。この武者所の長官(頭人)が新田義貞でした。本間忠秀は、頭人の下に組織された6つの班(番)の一つで武田大膳大夫信貞をリーダーとする六番に属しました。そして室町時代となり将軍足利尊氏が鎌倉府を置くと、本間氏をはじめとする愛甲武士は奉公衆となり、その被官として鎌倉府と強いつながりを持つようになります。鎌倉府は室町幕府が関東地方を統治する、つまり東国大名を抑え込むために置いた出先機関のようなもので、職制も幕府に準じたもの(評定衆、引付衆、侍所など)が置かれ首長を「鎌倉公方」といいました。ただ、室町幕府と鎌倉府の対立は室町時代を貫く通奏低音のように途切れることなくつづき、関東の武士たちは幕府派と鎌倉公方派に分かれ(日和見派も含めて)不穏な状態にありましたニヤそんな時限爆弾が大きく爆発したのが、これまで何回か取り上げている「永享の乱」です。第6代将軍足利義教と関東管領(鎌倉公方の補佐役)上杉憲実VS第4代鎌倉公方足利持氏の戦いです。この時本間氏は本間季綱が持氏に重臣として用いられており、本家の海老名氏とともに鎌倉公方派につきました。結果は鎌倉公方派の敗北。ここに200年近くにわたり依知郷を統治してきた本間氏は没落し、厚木の歴史から姿を消すのです。一方、鎌倉時代に地頭として統治するために佐渡に渡った一族は、新天地で佐渡本間氏として栄えました。今でも佐渡には本間の名字をお持ちの方々が多くいらっしゃいます)

 

本間氏累代の墓。整然と並べられていますレンチ

 

(宝篋印塔。後ろに塚のようなものが見えますが、これは「寺畑古墳」という古墳で依知地区古墳群のひとつに数えられます栗依知地区には非常に多くの古墳が造られ、約150墳が知られます。大半は古墳時代後期(6~7世紀)に首長配下の有力者によって造られた小規模な群集墳で、耕地や住宅の開発で多くは消えてしまったと考えられます)

 

時代は移り、1516年伊勢宗瑞(のちの北条早雲)が相模国を制覇、厚木も長い北条氏の治世に突入します。北条氏は歴代当主の優れた内政・外交により盤石な体制を築きますが、北に上杉謙信の越後国、西に武田信玄の甲斐国と関東地方制覇を虎視眈々と狙う強国を隣国とし、まさに戦国時代というべき合従連衡の合間にこれらの国からたびたび侵攻を受けます。(建徳寺の記録のなかにも、謙信と信玄が関東遠征した際に厚木一帯が大きな被害を受けたと記されています。謙信(当時は長尾景虎)は60年5月、関東の盟主北条氏を討伐するため越後山脈を越えて一路関東に来襲します。北条氏当主は第四代氏政でしたが、父で戦国を代表する武将として知られる第三代氏康が影響力を保っていました。謙信軍は北条氏の守る諸城を落としながら北条氏に敵対する国人の協力を得て軍勢を拡大し、そのまま越年して61年3月武蔵国を経て10万という圧倒的兵力で小田原城に到達します。氏康は謙信を頭にいただくような破格の大軍を相手にまともに戦ったら勝ち目はないと、堅固群を抜き多くの武器・兵糧もたっぷりと集積された小田原城での籠城戦を決め込みます。そして1ケ月・・・遠征に参加していた国人も長期にわたる出兵に疲弊し、「これ以上維持するのは無理っ!」として連れてきた兵士たちとともに勝手に地元に戻ってしまうという事態が起こります。こうして軍勢内部の足並みが乱れたため、さすがの謙信も勝利を目前にしてこれ以上の包囲を断念します。謙信は小田原を去って鎌倉に入り、名門山内上杉氏から家名を譲られて上杉を名乗るとともに、室町幕府の歴史ある重職関東管領に任命されます。信玄の遠征は69年10月、北条氏、駿河国の今川氏、三河国の徳川氏による「武田包囲網」を打破し、上杉氏と北条氏の越相同盟に揺さぶりをかけるために小田原城攻略を図ります。ただ、謙信と同じく信玄も堅固な小田原城を落とすことは無理と判断、早々に甲斐国に撤収することにします。その帰路全軍が相模川沿いに北上、相模湖・上野原方面(当時は相模湖はまだありませんが(汗))に向かうなか氏康・氏政は追撃を決断し、氏政の弟である氏照・氏邦が厚木市に隣接する愛川町の三増峠(建徳寺の北西12kmほど)で待ち伏せ、武田の軍勢を挟撃する作戦を立てましたオーナメントしかし、氏政率いる本隊が三増峠に到着する前に、氏照・氏邦隊は武田側の軍略に撃退されてしまい氏政本隊も小田原城にすごすごと引き揚げざるを得なくなります。武田側も有力武将の浅利信種を失う一方、北条側は2000~3000もの兵力を失ったとされ回復に多くの時間を要しました。これが戦国史に残る山岳戦といわれる「三増峠の戦い」です。北条氏からすれば、小田原城は囲まれちゃうわ「よっしゃ、リベンジだっ!!」と意気込んだら撃退されちゃうわで踏んだり蹴ったりのイベントだったといえましょう。いずれにせよ小田原は北に丹沢の山々が陣取っているため、北から侵攻しようとすると丹沢東麓の厚木付近を通る必要があり、金田のあたりは交通の要衝になっていました。そのためとばっちり的に大きな被害にあってしまったということなのでしょう)

 

(誰が置いたのか、本堂近くの大石のうえに・・・かわいらしいですカメラお寺の現状を想うとちょっと物悲しくなります・・・)

 

(平成12年というと2000年、ダイオキシン問題が世の中をさわがせていた時期で境内の焼却炉が使えなくなったのでしょうぶー南無地獄大菩薩・・・(汗))

 

建徳寺の西側、中津川の河川敷との間を区切るように、細い水路が南北を流れています。「牛久保用水」です。建徳寺本堂の北西250mにある取水堰から中津川の水を取り入れ、建徳寺の西側を南下し本堂の南西150mのあたりで地下にもぐります。南下したあと東、北と方向を変え金田の地をうるおしながら相模川にそそぎます。(この牛久保用水の開削を計画したのは、本間六郎左衛門尉重連です。1240年金田で田んぼの開発を進めるため、重連は鎌倉幕府の家人杉山将監弘政に用水の整備を依頼しました。今でも相模川西岸に近い金田北東部と下依知南東部には多くの田んぼが残っていて、牛久保用水の恵みを存分に受けていますお父さん妙純寺の南500mほどの道端には1988年3月に建立された「牛久保用水」標柱があり、建徳寺そばの用水が地下にもぐる付近には水天宮の小さな石祠が祀られています。また、牛久保用水は本間氏の屋敷を囲むように開削されたといい、屋敷のお堀の役割も担っていたのではないかといわれています。前回依知にあった重連の屋敷は3つあり、のちに妙純寺、蓮生寺、妙傳寺になったことを取り上げましたが、牛久保用水が屋敷堀として利用されたというのであれば地理的には妙純寺を取り囲んでいたことになります。そういう意味でいえば、屋敷が3つあったとしても妙純寺が主人・家族が暮らす中心的な屋敷であったといえるのかも知れません)

 

(牛久保用水が地下にもぐる付近。コンクリート製の水門が設けられていますコーヒー