地頭山古墳は、小田急線本厚木駅と南西にある愛甲石田駅のほぼ中間にある古墳です。両駅からの直線距離は約1.4km、徒歩でアクセスすると約30分はかかります。かくいう私も徒歩で向かいました、しかも真夏(汗)。本厚木駅からアクセスする場合、駅北口(小田急本厚木ミロード2のある側)の前を走る道を南西に進みます。(国道246号線バイパスにぶつかったら南下、小田急線をまたぐ陸橋を越える前に右折し246号線を南西方向に進みます。陸橋のある方の道は国道129号線で、そのまま進むと東名高速道路厚木インターにぶつかりますトラック246号線と129号線の分岐地点から地頭山古墳までは、途中で恩曽川という川を越えて約600mです。ちょっと注意しなくてはならないのは、このあたりの国道246号線は片側2車線の幅の広い道ですが歩道は進行方向向かって右側にしかついておらず、しかもめざす地頭山古墳はあろうことか(?)左側にあるのです。で横断歩道もほとんどないので、古墳の約200m手前にある国道をくぐる地下道を渡って左側に出ます(横断歩道のないところでの横断はゼッタイ止めましょう!!)。左側といっても国道自体の向かって左側には歩道がないので、国道とほぼ並行に走る細い道を進むことになります。道なりに進むと、目の前にこんもりとした木立が近づいてきます。目的地の地頭山古墳に到着です!私はスマホアプリに道案内してもらったのでスマホの指図にしたがうままに地下道をくぐることができましたが、道案内がなかったら知らずに先に進んでしまってたと思います。本厚木駅から徒歩でアクセスする場合はちょっと要注意です)

 

国道246号線バイパスと並行する細い道からは、地頭山古墳の基部に向かって長い坂と階段が設けられています鏡餅ちなみに地頭山古墳は、古墳の下を246号線のトンネルがくぐっていることでも有名です。このトンネルが地頭山隧道です。地頭山隧道は、246号線の南東側を走る下り車線のみを覆っています。(地頭山隧道の全長は30m、自動車であれば瞬間に通り過ぎてしまうミニトンネルですが、トンネルの進行方向左側は壁で覆われていて右側は上り車線との中央分離帯に柱がたくさん並んでいて景色が見えます。なので半地下トンネルというカテゴリーに分類されるようです)

 

(地頭山古墳につづく坂と階段)

 

地頭山隧道は、国道246号線バイパスの建設と地頭山古墳の保護を両立しようとした結果の産物といえます。この地(厚木市船子)を含む区間でのバイパス建設工事が始まったのが1977年のことでしたが、同じ年に木々が伐採されて後は削られるだけになった丘の上を目にした人が、「あれ?この丘ってもしかして古墳じゃないの?!」と厚木市教育委員会に連絡します。(そして翌78年に測量調査が行われた結果、この丘が前方後円墳であることがわかったのです。地頭山古墳は、北側を北西から南東に流れる恩曽川と南側を東西に流れる玉川に挟まれた長谷丘陵が南東側に突き出した先端部にあります。国道はその先端部を北東から南西に向かって分断するように計画されました。そして国道の計画ルートと地頭山古墳の前方部が重なってしまったというわけです・・・どうする、建設省(今の国土交通省)馬?!)

 

答え:古墳の下にトンネルを通しちゃおう、そうすれば解決だっ!というわけで、地頭山隧道の建設が決まりました。ただ国道の計画ルートと重なっている古墳前方部は高さがそれほどなく、保存しようとするとトンネルの高さ自体を低く抑えなければなりません。そのため工事の工法も限定されたようです。(本来であれば何のこだわりもなく切り土をして丘を削ってしまえば、余計な予算もかからずに済んだでしょう。実際に高度成長期以降日本各地でつぎつぎに整備された高速道路や一般道路の工事の際には、多くの場合遺跡が見つかったとしても調査・記録後削平されています。しかも地頭山古墳は、文化財指定もされていません。そのためにわざわざお金のかかるトンネルを通したというのは、相当な決断ではなかったかと思うのです。基本的には前例主義と思われる建設省の偉い方をどうやって説得したのかな、と。一つの小さなドラマがあったのかなと勝手に想像します左差しその決断のおかげで、地頭山古墳は21世紀の今もその雄姿を私たちに見せつづけてくれています。本当にすばらしいことだと思います)

 

(地頭山隧道の本厚木側入り口)

 

坂と階段を上り切ると、地頭山古墳前方部の目の前に出ます。向かって右側が前方部、左側が後円部です。前方部の端をとりかこむように、グルっとコンクリートの遊歩道が整備されています。遊歩道は地頭山隧道を平面で見た4つの辺のうち、3つの辺に沿って走っていることになります。(遊歩道からは見晴らしが良く、北東側に厚木市街、北西側に恩曽川沿いの低地と恩曽川・玉川に挟まれた長谷丘陵、南西側に東西に走る東名高速道路を望むことができます。遊歩道を道なりに進むと、地頭山古墳の南西約50mで国道246号線バイパスからの入り口にぶつかります。ちなみにこのあたりだとバイパス両側に歩道があり、地頭山隧道のなかにも歩道がついています。ただトンネルを本厚木側に出てすぐのところで途切れてしまうので、本厚木駅から徒歩でアクセスする場合は、一番最初に紹介した方法が最短ルートになります。愛甲石田駅を出発点とするなら、進行方向向かって右側の歩道に沿って246号線をひたすら歩けば、地頭山古墳の南西側入り口に到着することができます。ちなみに本厚木駅、愛甲石田駅の両方から地頭山古墳の近くまで行けるバス(神奈川中央交通)も実はちゃんとありまして(それを早く言えっ、というお叱りが殺到しそうですが・・・そもそも殺到するほど閲覧されてないという事実はさておきまして(汗))、本厚木駅(正確には駅近くの厚木BC)から厚43森の里行、愛甲石田駅から愛20毛利台団地行に乗り船子バス停留所で下車します。停留所は、地頭山古墳南西側入り口近くにあります。ただネックはどちらも本数が1時間に1本程度と少ないことで、私も本厚木駅を起点にして地頭山古墳までのルートをスマホアプリで調べたら、一番早く到着するルートが「ひたすら歩く」だったのでえっちらおっちらと歩いた次第です。ただ古墳に着くまでみごとに日陰がないので、私のように真夏のウォーキングは避けた方が無難かと思われますグッド!言われなくても避ける?はい、スミマセン・・・)

 

(国道246号線の先に厚木市街を望む)

 

(地頭山隧道の愛甲石田側入り口と、地頭山古墳前方部)

 

地頭山古墳は、前方部が北側、後円部が南側に向いています。全長約70m、前方部幅約24m、同高約4m、後円部径約30m、同高約6mで、規模から見ても立派な古墳です。神奈川県内にある古墳の中では、3、4位にランクされる大きさなのだそうです。以前紹介した海老名市の瓢塚は全長約80mといわれますので、ほぼ似たり寄ったりの規模です。(神奈川県自体が他県と比べると前方後円墳が数少ない場所ではありますが、厚木市、伊勢原市などの相模川右岸中流域は地頭山古墳が発見されるまで前方後円墳の空白域とされてきました。つまり、地頭山古墳は厚木市で初めて発見された前方後円墳なのです。しかもいきなり県下有数の規模ですから、当時市教育委員会に古墳じゃないかと伝えた方(市文化財保護委員を務めていた方だそうです)グッジョブです学校!!)

 

(坂と階段を上り切ったあたりから。右側が前方部、左側が後円部です桜

 

地頭山古墳が造られたのは墳丘の形から推定して5世紀前半とされていますが、これまで測量調査が行われただけで発掘はしていないので、出土品は特に発見されていません。出土品を研究すればさらなる年代の特定と被葬者の推定に近づけるかも知れませんが、古墳の保存を優先しているということでしょうジンジャーブレッドマン(5世紀前半というと古墳時代中期にあたり、瓢塚が造られたと推定される年代と同じか少し遅れた時期にあたります。瓢塚は、相模川を挟んで地頭山古墳から北東5kmに位置します。瓢塚を取り上げた際に、被葬者は大和朝廷に服した地域の有力な支配者だったのではないかと書きました。地頭山の被葬者も、古墳の規模からすれば同等の勢力を持ちライバル関係にある豪族だったのかも知れません。地頭山古墳は、長谷地区5号墳の別名でも知られます。長谷地区というのは恩曽川と玉川に挟まれた地域の地名で、両川は地頭山古墳の南東1kmで合流した後相模川にそそぎます。地頭山古墳の造られたのは、長谷丘陵の南東側突端部。突端ですから東の相模川、西の大山・丹沢、そして自らが支配する恩曽川・玉川流域を一望できる一等地だったのでしょう。大古墳=一等地立地説は、ここにも十分当てはまりそうです。長谷地区は現在東名高速道路厚木インターの周辺地区として流通団地が整備され、工場や倉庫が集積しています。地頭山古墳の被葬者も、恩曽川・玉川の水運をつかさどる「流通王」だったのかも知れません)

 

(北西側から前方部を望む。草が生い茂っているので、墳丘に上るのはいつものごとくすぐさま断念しました。虫とお友達になるのはちょっと・・・ハチ(汗))

 

(左側が前方部、右側が後方部です流れ星

 

遊歩道の途中には、厚木市教育委員会が1990年3月に設置した説明板が立っています。それを読んでみると、「前方後円墳は・・・市内ではただ一つのものです」という記述があります。さきほど、相模川右岸中流域は地頭山古墳が発見されるまで前方後円墳の空白域だったと書きました。そして説明板が設置された後も、市内で前方後円墳が矢継ぎ早に発見されたのですカエル(それが愛甲大塚古墳、高松山古墳、ホウダイヤマ1号墳、神の山古墳です。なので教育委員会サン、とりいそぎテプラでもなんでも良いから記述変えた方が良いのではないかと激しく思います(汗)。愛甲大塚古墳は愛甲石田駅の南側、伊勢原市と厚木市にまたがって存在する古墳で、現状では径約30m、高約5mの円墳しか残っていませんが、調査の結果前方部と周溝が消失してしまったことがわかり造った当時の全長は70mを超えていたと推定されます。4世紀代に造られたとされ、鉄鏃​​​​​​などの出土品が発見されました。墳丘の上にお堂があったため、かつては「堂山」とも呼ばれていたようです。ちなみに愛甲大塚古墳というのは厚木市側の呼称で、伊勢原市では石田車塚古墳と呼んでいるそうです。まあ古墳の厚木市側の地名が「愛甲(正式には愛甲東)」、伊勢原市側の地名が「石田」で、駅も「愛甲石田」と両市に配慮して名づけられているカンジですから、ここは譲れないんでしょう(汗)。愛甲大塚古墳の呼称の方がどちらかというとメジャーなようで、伊勢原市の説明を見ると石田車塚古墳(別名愛甲大塚古墳)などと記述しています。駅と同じ発想で「愛甲石田大車塚古墳」とかにしても良いかも?!)

 

つぎにホウダイヤマ1号墳を紹介します。ホウダイヤマ1号墳は、地頭山古墳の北西約1.1kmの長谷丘陵に造られた前方後円墳です。今は一帯が「ぼうさいの丘公園」として整備されていて、園内南東部にある「季節の丘」の地下に古墳が眠っています。造られたのは4世紀後半とされますが、残念ながら墳丘は削平されてしまっており古墳の面影はありません。(その代わりといっちゃなんですが、丘の上からの見晴らしは良く西側にそびえる大山の眺めは格別です。いや、それでもやっぱり古墳が残っててほしかったですが(汗)。調査の結果前方部と後方部のあいだのくびれ部から小型器台、小型丸底坩、壺形土器などの出土品が発見され、その一部には非常に精巧な加工がほどこされていました。4世紀後半であれば地頭山古墳より前、愛甲大塚古墳や瓢塚と同じくらいの時期にあたるのでしょうか。文字のない時代ですから、造られた年代はどこまでいっても推測でしかありませんが・・・。前方後円墳は、大和朝廷に服した豪族が朝廷から許可を得て造ったとされます。朝廷からすれば自らの支配が地方にも及んでいることの象徴であり、豪族からすれば領民や地域のライバルに対する権威の象徴だったのでしょう。確かなことは、大規模な前方後円墳が発見されている地域は人の往来が多く、古墳時代の地域の中核であったということです。地域の中核であるということは大和朝廷とのパイプも強いということであり、当時の幹線道が通っていたのでしょう。今でも、新幹線や高速道路のルートが有力政治家の地盤に沿って決められる例が見られますが(汗)。奈良時代の古東海道は厚木・海老名を通っていたとされますが、それも古墳時代に地域の中核として栄えた基盤があってこそともいえるのかも知れません地球