※今回は梨の木坂横穴群(神奈川県座間市入谷西)、鈴鹿横穴群(神奈川県座間市入谷西)を紹介します。

 

梨の木坂横穴群は座間駅西口、県道407号線との交差点を坂上とし、北西方に弓なりに下っていく梨の木坂の途中にある横穴群です。梨の木坂は相模川の段丘崖を下る坂で、坂上の標高は約50m、坂下の標高は約30mです。梨の木坂と坂下に近い座間山心岩寺の辺りは、「下鈴鹿」という地名で呼ばれていました。(梨の木坂の坂下から鈴鹿地区の中心である鈴鹿明神までは、直線距離で北西に約150m離れています。梨の木坂の周囲は住宅地ですが、横穴群のある坂の中程は雑木林に覆われて鬱蒼としており、ちょっと異世界なカンジですゾウ

 

坂下の座間山心岩寺は、臨済宗建長寺派のお寺です。山号は「ざまさん」ではなく「ざけんさん」と読みます。1460年頃に建長寺第75世悦岩興惟禅師の法弟成英玉を開山、この地を統治した地頭白井是房を開基として開かれました。当初は久光山心願寺と称していましたが、江戸時代に現名称に改められました。(心岩寺は裏山の段丘崖から湧く心岩寺湧水で知られ、本堂前には湧水が流れ込んで美しい不動池をつくっています。不動池の名の通り、池の中央に不動明王が祀られています。心岩寺湧水は近隣の水田をうるおすとともに、生活用水としても重宝されました。地域では、根下の神井戸の水、谷戸川の水とあわせて「天水」と呼ばれていました。地域の人々からすればまさに天の恵みだったのでしょうベル綺麗な水を利用して、太平洋戦争前まで心岩寺の境内にはワサビ田があったといいます。ワサビの本場伊豆に行ったときに、食堂にご飯の上にワサビとかつおぶしをたっぷり乗せた「ワサビ丼」るものがありましたが、惹かれつつも結局天ぷらそばを頼んでしまいました。食に冒険できない小心者なので(汗))

 

坂上から梨の木坂を下って行くと、左手に「梨の木坂」と書かれた標柱と梨の木坂横穴群の案内板が立っています。案内板の向こうは柵で囲われており雑木林で覆われているので様子は良くわかりませんが、柵の少し先が段丘崖になっていて崖の途中に横穴群が口を開けています。(横穴群の開口部は、南東から北西に向かって下る梨の木坂の直角方向に当たる南西に向かって開いていて木々に隠れているので坂自体から目にすることはできません予防しかし、案内板から少し坂を下った左手に未舗装の道が通じていて、横穴群に近付くことができます)

 

(梨の木坂の標柱)

 

(梨の木坂横穴群の案内板)

 

未舗装道を通って雑木林のなかを約50m進むと、横穴群の開口部とご対面です!!ちなみに私はこの時ひそかに蚊の襲来を受けていて、しばらくしたら顔やら手やらむごいことになってしまいました(汗)。訪れたのが真夏で、しかも人や動物のあまり通らなさそうな場所なので、「ひさびさの獲物だ!」とばかり食いつかれたのかも・・・。(ふだん蚊のウヨウヨいそうな場所に入り込む時は虫よけスプレーで武装してから進軍(?)するのですが、たまたま忘れたところさっそく大々的に襲われました。完全な不覚です。後悔先に立たず。私はアース製薬の「サラテクトリッチリッチ30」という虫よけスプレーを愛用していて、夏場木々に覆われたところに行く時は顔・首・手にまんべんなく吹きかけていますTシャツ良くわかりませんが「リッチリッチ」って「リッチ」を2度繰り返すくらいなんで、成分も濃厚なんでしょう、たぶん・・・。と脱線してしまいましたが、梨の木坂横穴群は10基が確認されそのうち2基が座間市重要文化財に指定されています。1号墓と2号墓は南北に隣り合っています(1号墓が正面向かって左、2号墓が右)が、開口部の手前には鍵がかかった柵があって厳重にガードされています。くわしく見学したい場合は、市教育委員会の許可を得る必要があります。梨の木坂横穴群が発見されたのは1970年、梨の木坂の道路拡張工事を行っていたときのことだそうです)

 

(柵の向こうにはなにがある栗?!)

 

では1号墓から見てみましょう!まずビックリするのが1号墓の外見です。開口部自体は小さいのですが、開口部の両脇と上部に重ねられた河原石の石積みがおみごとです。見える範囲で、開口部の高さの5倍くらいの高さに面を揃えて綺麗に石が積まれています。某番組なら「あっぱれ」確定ですお母さん(汗)(2号墓も1号墓程ではありませんが、しっかりした石積みが残っています。開口部の周囲には特に大きめの河原石が使われています。開口部のこのような石積みは、丹沢山地の前山に抱かれた伊勢原市、厚木市を中心に座間市、秦野市から多摩川上流域にかけて見られる特徴で、当時の技術水準の高さを示します。古墳の横穴式石室を参考にしたものだともいわれます。横穴式石室も石室正面の開口部や前庭部に石積が確認されるものが多く見られます。横穴式石室と横穴墓は墓穴の構造自体はかなり似通っていて、追葬可能(一人の埋葬で終わらず、後代の人も追加で埋葬できる。さすがに限度はあるでしょうけど)という点も同じです。横穴式石室を目にした当時の人が、「ウチもやってみよう!」と横穴墓にとり入れたのかも知れません)

 

(横穴群に向かって行きます宇宙人

 

1号墓の規模は長さ7.1m、奥壁の幅3.3m、高さ2.3mです。開口部の高さが58cm、幅が63cmしかないので、開口部と比較して奥に向かってかなり広い空間がとられていることがわかります。平面は開口部を頂点、奥壁を底辺とする三角形で、天井はドーム型に造られています。(羨道部(開口部から玄室までの間の通り道)と玄室(遺体を安置する区画)には、にぎりこぶし大の礫が敷き詰められています。玄室内からは人骨、8個のガラス玉、鉄鏃(鉄製のやじり)が検出され、羨道部からは刀装金具(刀の鞘や柄の部分にほどこされた外装のこと)が見つかりました。また、墓道(開口部より外側に設けられた墓穴専用の通り道)からは底に穴の開いた長頸壺が検出されました。底に穴が開いているということは、本来の機能(水などを貯める)を果たすためではなく死者を慰めるための儀式として使われたのでしょうかリキュール

 

(1号墓。かなり暗いですけど・・・。これだけの河原石をはこんでくるのはかなりの労力を必要としたのでしょう。鳩川の河原から持ってきたのでしょうかOK?!)

 

つづいて2号墓です!規模は長さ7.6m、奥壁の幅3.7m、高さ2.2mで、1号墓より気持ち大きいくらいでしょうか。開口部も1号墓より少し大きく、高さ、幅ともに70cmです。1号墓と同じく平面は開口部を頂点、奥壁を底辺とする三角形で、天井はドーム型に造られています。(床には礫が敷き詰められ、奥壁近くから人骨のほかにガラス玉100個以上、金環が検出されました。梨の木坂横穴群を構成する10基全体を見てみなければわかりませんが、少なくとも1号墓と2号墓は、規模、形、副葬品からするとほぼ同等の人物や家族が埋葬されたお墓といえるのでしょう。それにしてもガラス玉100個はスゴイですね、埋葬された人は生前毎日ガラス玉をながめながら「あー、キレイ」とうっとりしていたのでしょうか猫

 

(梨の木坂横穴群のある段丘崖から下を望む。この道は梨の木坂から南方に分岐する根下道です。根下道に沿って、「神井戸の水」や「根下南湧水」といった湧水がこんこんと湧いていますひらめき

 

梨の木坂横穴群が築かれたのは、古墳時代終末期に当たる西暦7世紀~8世紀ごろとされます。ただ東国で横穴墓が造られたのはほぼこの時期に限定されるので、「このテレビは20世紀後半以降に造られたものですね口紅」というのと同じくらいの意味しか持たないと思われます。(副葬品などから年代を限定することが難しかったのでしょう。梨の木坂横穴群と同時期に構築されたと見られているのが、梨の木坂横穴群の北150mにある鈴鹿横穴群です。詳しいことは良くわかりませんでしたが、鈴鹿横穴群は梨の木坂横穴群よりずっと早く1891年に発見され、1954年に調査が行われました。こちらも座間市重要文化財に指定されています。梨の木坂横穴群の北150mというと、鈴鹿横穴群も梨の木坂と同じ段丘崖に築かれたものでしょう。個人のお宅の敷地内にあり、開口部と同じ平面の両脇・上部に加え墓道の側面にも河原石の石積みが見られます)

 

梨の木坂は古くから知られた坂で、江戸時代には「梨の木諏訪坂」とも呼ばれていました。「諏訪」というのは諏訪明神のことで、坂を下る途中(坂上の交差点から約300m)から雑木林に覆われた石段を上ったところに鎮座します。信州出身者が、故郷に縁深い諏訪大社を勧請したのがはじまりといわれています。(社殿の棟札には、1724年に再建されたと記録されています。現在社殿は南東から北西に下る梨の木坂を起点として東西に走る石段を上ったところを正面、つまり西向に建っています。しかし、往古は社殿が逆の東向に建っていました。なぜかというと、かつては社殿が東側を走る鎌倉街道に面していたからなのです。「梨の木坂」と書かれた標柱の車道を挟んで向かいで分岐する細い道が鎌倉街道であったとされ、段丘崖の上に沿って北上します。その途中に諏訪明神があるのです。諏訪明神の社殿の裏(かつての正面)には、「鎌倉街道」と刻まれた標柱が立っています。いつ社殿の向きが逆になったかはわかりませんが、「いざ鎌倉!」と東国武士がいきり立っていた時代が遠く過ぎ去ったころ座間郷の中心で鈴鹿明神のある坂下側に正面を向けることになったのでしょう真顔

 

こちらの諏訪明神、実は前回鈴鹿明神を取り上げた際にも登場済みなのです。伊勢からやって来た鈴鹿神がこの地を支配していた有鹿神と争った際に、鈴鹿神に加勢して有鹿神を勝坂(現相模原市、有鹿神社奥宮がある)から追い出したのがこの諏訪明神と弁財天だったのです。(有鹿神は蛇の姿をした神さまだったといわれますが、負けじと(?)鈴鹿神、諏訪明神、弁財天も蛇の姿に変化し、鈴鹿明神の社の南に当たる「谷の深」という湿地帯で激闘を繰り広げました。諏訪明神は往古より梨の木坂に住まっておられましたが、近くには有鹿神社の中宮が残っていました。しかし、中宮は次第に衰退し、海老名の本宮近くに移って行きました。といいつつも有鹿神社にとって勝坂は創業の地(?)として非常に重要な場所であり、例祭の時には神輿を渡御していました。ある年有鹿神社の若衆が神輿を担いで勝坂に向かう途中、現在の座間小学校付近(鈴鹿明神の北西約250m)で突然鈴鹿神の起こした竜巻に神輿がからめ落とされてしまいました。そこでこの地を「輿巻」と呼ぶようになったそうです。そして神輿は諏訪明神の住む梨の木坂も通らなくなったとか。なぜ鈴鹿神の怒りを買ったのか、あわせて諏訪明神を避けなきゃいけなかったのか、まさに「神のみぞ知る」ですが鈴鹿神チームとにかく容赦ないですキャップ(汗))