浜田三塚公園は、瓢塚から250mほど南下した住宅地のなかにある公園です。標高は60m前後で瓢塚と同じく座間丘陵南端の尾根上に位置し、相模川と2つの河川(中津川と小鮎川)が合流する地点の東側約2.7kmにあります。場所が場所だけに眺めは抜群、東も西もいい景色を楽しむことができます!(東は目久尻川沿いの低地、西は近くに相模川流域(小田急線・相鉄線海老名駅を中心とする海老名市街)、遠くには丹沢・大山の美しい姿が目に入ってきます。浜田三塚公園周辺は丘の上なのでどこに行くにしても歩くなら上り下り必須ですが、景色のよい高台なんで地価も高かったりするのでしょうか???朝起きてカーテンを開けると目の前に丹沢・大山の雄姿・・・低血圧の私も気持ちよく目覚められそうです!?ちなみに我が家の寝室の前は駐車場なので風情もへったくれもありません(汗)。浜田三塚公園の「浜田」は地名(浜田町)、「三塚」は近接して存在する3つの古墳を指します。「三塚」ではなく「御塚」(塚をていねいに表した言い方??)が正しいのではないかとする説もあるようです。というわけで今回も古墳探検in海老名でございます。よろしくおねがいします音符

 

三塚といわれる3つの古墳は、それぞれ上浜田第1号墳、第2号墳、第3号墳と呼ばれています。上浜田古墳群は全部で第7号墳まであり、三塚を中心として座間丘陵の尾根上南北500mほどの範囲に古墳が点在しています。第8号墳、第9号墳もあったのでは?という地元の伝承もあるみたいですが、さだかではありません。(ちなみに第7号墳というのは、前回紹介した瓢塚のことです。瓢塚は上浜田古墳群最大(神奈川県下最大の前方後円墳ですし)・最古の古墳といわれます。上浜田古墳群を構成する各古墳の築造年代は、4~6世紀代とされます。全国的にみると4世紀後半から5世紀前半にかけて古墳(前方後円墳)が巨大化し、古墳の大きさが序列をあらわすという価値観が鮮明になっていきます。大和朝廷が全国に勢力を伸ばしていくなかで、その支配下に入った豪族たちが多くの人民と大量の資材を使い大和朝廷の象徴である前方後円墳を建造していくのです。大和朝廷は自分の勢力圏を、そして豪族たちはそんな今をときめく大和朝廷の一員となったことを「見せびらかす」ための古墳といえるかも知れません。そして大和朝廷を頂点とし地方の豪族がそれを支える体制がしっかり確立すると、「大きいことはイイことだっグラサン」という時代は終わりを告げ、墳墓自体は単純・簡素化され副葬品の豪華さで勝負するようになっていくのです)

 

浜田三塚公園は北、南西、南東を頂点とする三角形の形をした公園で、北側頂点付近に第1号墳、南西に第2号墳が保護されています。三塚のもう一つ第3号墳はどこ?それは後ほど・・・(汗)。瓢塚公園のように「古墳の古墳による古墳のための」(しつこい・・・台風)公園というわけではなく、子どもが走り回れる地元の公園といったカンジです。(浜田三塚公園は、周辺住宅地の開発がはじまった1980年に浜田町区画整理事業の一環として海老名市が管理する公園としてオープンしました。その際に第1号墳と第2号墳が現状保存されたのです。南側と東側に設けられた入口を入ると脇に樹木が茂った古墳があり、残りは広場になっています。広さは3726㎡で、瓢塚公園とほぼ同じです。遊具などは特にない公園ですが、地元の人々の憩いの場としてよく利用されているようです。私が訪ねたのは真夏の真っ昼間だったので、人っ子一人いらっしゃいませんでした。雲が多くて日射しは大したことありませんでしたが、いかんせん蒸し暑かったです(滝汗)。個人的には旅行するなら春夏秋は曇り、冬は晴れた日がいいですね。目が弱いみたいで日射しが強いとすぐ目が痛くなるので。。。サングラス買わないとですね(汗))

 

(東側の入口。奥には古墳らしき雄姿が・・・ワクワクしますブーケ2

 

それではまず第1号墳をみてみましょう!第1号墳は別名「馬捨塚」と呼ばれます。旅人が馬を乗り換えた場所??それとも姨捨山みたいに年とって働けなくなった馬を捨てた場所??昔はこの辺りは住宅がなかったのでしょうから、「今までありがとう、あとは気ままに生きてくれえ」と泣く泣く馬を放したのかも知れません。(第1号墳は未調査のため築造年代は不明ですが、1973年に墳形を計測したところ径16m×9m、高さ1.3mの円墳だったということです。円というか楕円ですね。今の第1号墳は明らかに1.3mよりも高く、小山のようになっています。おそらく浜田三塚公園としてオープンするにあたり、墳丘上に土を盛って「お化粧」したのでしょう。こういう土盛は他の古墳でもたまにみられるものですが、墳丘に樹木が生えたり自然であれ人為的であれ土が崩れたりしているわけで、築造した瞬間からどんな古墳も刻々と変化しています。築造当初の墳丘を推定して土盛で当時の状況を復元するのがベストなのかも知れません。あまりに墳丘が小さいとインパクトに欠けるでしょうし(汗)。そういう意味では調査が大変重要になると思いますが、第1号墳は土盛をする前に調査ができていないのでどこかの段階で調査するのでしょうか。それとも、瓢塚みたいに盗掘した人が急死したとか調査できないなんらかの事情があるのでしょうか・・・だとしたらコワイので無理に調査しなくていいと思いますねこクッキー(汗))

 

(第1号墳)

 

(東から望む)

 

つぎは第2号墳です。第2号墳も第1号墳と同じく、小山のように盛り上がり樹木で覆われています。こちらも長らく未調査で築造年代や規模・墳形が不明でしたが、2015年にはじめて調査が行われ、現況測量の結果墳丘の径2630m、高さ4.5mであることがわかりました。墳形は円墳もしくは方墳の可能性もあるんだとか。(高さは大正時代の計測(こちらも相模国分寺跡発掘で有名な郷土の偉人中山毎吉先生!)では5.5m、第1号墳と同じ1973年の計測では約5mでしたので、自然に土が崩れて低くなってしまったのでしょう。それでも十分な高さがあったので、浜田三塚公園オープン時に土を盛ることはなかったようですカメそして第2号墳調査のきっかけとなったのは、2014年3月の地元の方によるある発見でした。第2号墳の墳丘の頂上で鉄剣をみつけたのです、しかも偶然・・・。発見者のみつけたのは鉄剣の2つの破片で、「おや?」と思って教育委員会に持ち込んだのだそうです。これを受けて教育委員会が急遽現地を踏査しました。踏査の結果さらに鉄剣の破片とガラス小玉が発見されました。どうやら頂上の土が崩れていくうちに、埋まっていた副葬品が外に露出してしまったようです。計測の誤差の可能性はありますが、大正時代に高さ5.5m、1973年に約5m、直近で4.5mならかなりのペースで表土がなくなっていったように感じます。結局鉄剣は3つの破片から成り、つなげると長さ約80cm、最大幅約6cmに達すると推定されています。教育委員会では「発表したら盗掘されるかも」と考えて、しばらく公表をひかえていたとか。賢明な判断ですね(汗)。発見者がみつけた鉄剣の破片は土にまみれていて、専門外の人がパッと見ただけでわかるようなものではなくスゴイとしかいいようがありません(発見者は普段から浜田三塚公園を訪れており、考古学的分野にも詳しい方だったようです)。私も実際に頂上まで登ってみましたが、私なら地面に落ちてても絶対気付かないです。私の場合、頂上は樹木におおわれて涼しくて気持ちよかったというのが第一印象でした。ダメダメですね(汗)。いつごろからどういう形で鉄剣が露出していたのかはわかりませんが、子どもたちも多く利用する公園で探検ごっことかにも向いてそうな格好の小山ですし、散歩がてら墳丘に登る大人も多かったでしょう。踏まれて粉々に・・・ということもあり得たかも知れません。眼力のある方に発見してもらえて本当によかったですね!!)

 

(右手奥が第2号墳です右矢印

 

(北西から第2号墳を望む)

 

そして鉄剣の破片が見つかった翌年の2015年3月教育委員会が調査を行い、第2号墳の頂上が掘り下げられました。その結果なんと地下10cm(!)から勾玉2個、鉄鏃2束、ガラス小玉30個などが出土したのですビリヤード海老名市内の古墳から副葬品が発見されるのははじめて、しかも地元の方が偶然発見したというきっかけともあわせ地域で話題となりました。(6月には現地説明会も開催され、320人が参加する盛況ぶりだったそうです。会場には実際に出土した品々も展示されました。出土品を検証した結果、第2号墳の築造年代は5世紀後半と推定されています。5世紀後半であれば、瓢塚の被葬者より1~3世代ほど後の指導者ということになるのでしょうか。副葬品が出土した位置から、(たとえば鉄剣を左手に持たせるように置いたのではないかとか)被葬者が安置された位置も推定されています。また、埋葬の仕方は木棺直葬であったと推定されます。木棺直葬というのは表土を素掘りして墓穴を造り、そこに木棺を安置する埋葬方法です。木棺自体は腐ってしまうので、腐って生じたスペース分表土がくぼんで痕跡が残ることが多いようです。埋葬してから副葬品の位置が変わっていないとすれば人骨も一緒に出てきそうなところですが、人骨はどこに行ってしまったのでしょうか?)

 

(第2号墳の墳丘に登ってみますキョロキョロ

 

そして第3号墳です。第3号墳は第2号墳の50mほど南、浜田三塚公園の敷地からはずれて今は住宅が建っている場所にありました。1973年の調査時にすでに墳丘が破壊されていたので、この時点で「三塚」ではなくなっていたのですね・・・。調査の結果径29m、幅約3mの周溝がめぐらされた円墳であることがわかりました。(第3号墳からは出土品が見つからず、築造年代も不明です。第2号墳とそれほど変わらない規模でしょうか。だとすれば瓢塚の被葬者の後を継いだ指導者の一人のお墓なんですかね?!そして第4号墳です。こちらは第2号墳から道路を隔てて公園敷地外に南西に隣接するように存在していました。第2号墳と比べるとずっと小さく、かつては「第2号墳と第3号墳はつながっていて前方後円墳なのではクッキーのプレゼント?!」という説もあったようですが、2002年に住宅地造成の際に調査が行われた結果、そもそも古墳ではなく「中世の塚」であることが判明しました。それはそれで気になりますが(汗)。人間は「論理的な思い込み」をしがちなので、やっぱり科学的調査は大切ですね!)

 

(第2号墳の頂上。黒いシートは調査に関係するものでしょうかキャップ?!)

 

第5号墳は、浜田三塚公園から南西に200mほど進んだ場所にあります。直接アクセスできる道路がなく、私有地を経由するちょっとわかりにくい場所に位置しています。こちらは公園のように積極的に保護されているわけではありませんが、小山のような墳丘は残っていました・・・が!少し前に削平されてしまったようです(汗)。(もともとはたくさんの樹木に覆われ墳形もわからないほどでしたが、伐採された後完全に削平され跡地に住宅が造成されたようです。径35m、幅約5mの周溝がめぐる円墳でしたが、近年は周辺の住宅地造成とともに切り崩され一部が残るような状態になっていたといいます。第5号墳からは、かつての調査で土師器の高坏や坩(壺のこと)が出土しています。それから第5号墳は「太鼓塚古墳」という別名をもっています。相模国分寺を建てた時に瓦などの資材運搬のために利用された運河「逆川」に船が着くと、この古墳の上から太鼓を鳴らして村中に知らせ手伝う人たちを呼び集めたという伝承から、「太鼓塚」と呼ばれるようになったといいます。太鼓塚古墳については、海老名郷土かるたの「よ」の字からはじまる札で取り上げられています。「世に伝う 市神跡と 太鼓塚」。絵札をみると、前方に「市神跡」と刻まれた石標と見渡す限りの田園風景、奥にこんもりと樹木に覆われた大きな太鼓塚が描かれています。市神跡はよくわかりませんでした。市場をつかさどる神さまが祀られていたのでしょうか?!古東海道が瓢塚の辺りを通っていたという伝承もふくめて座間丘陵の尾根を越える重要な道路があって、そこに市が立てられていたのかも知れませんおでん右郷土かるたの絵札に描かれた光景は、50年も経たないうちに完全に姿を消しました。せめて郷土かるたの中で、いつまでも地元の方たちの心に残り続けて欲しいと思います)

 

(浜田三塚公園から北西方向の景色。手前のお墓は春日鳳勝寺、右に見えるヘリポートの乗ったビルは海老名プライムタワーオフィス棟、一番左に頂上がみえる山は大山です。春日鳳勝寺は、相模湖底に没した勝瀬集落(現在の相模原市)に18世紀ころに建てられたお寺です。1940年集落とともにこの地に移転し地名も故郷をしのんで「勝瀬」と名付けられましたお父さん

 

最後に第6号墳をみてみましょう!第6号墳は第1号墳の北100mほどの場所にあります。瓢塚は北東に80mほどで、上浜田古墳群の中では最も瓢塚に近い古墳です。浜田三塚公園の西側に沿った道路を北上し、トンネル(瓢塚隧道)の真上に来たら北西側に曲がります。突き当りは行き止まりのロータリーになっていて、周りは住宅地です。ロータリーに面して第6号墳の墳丘が現存しています。(第6号墳は、調査の結果1辺22m幅約3mの周溝がめぐらされた方墳であることがわかりました。実際にはロータリーのある道路も第6号墳の範囲にふくまれ、現存している墳丘は削られて生き残ったごく一部ということになります。公園として保存されている訳ではないですが、墳丘の周りが擁壁とフェンスで囲まれているのでこれ以上削平されることはないのではないかと・・・。そうあって欲しいと心から願いますヒマワリ第6号墳からは壺形土器や高坏が出土し、築造年代は4世紀代と推定されています。上浜田古墳群のほかの古墳と比べると、最も瓢塚に近い時代に造られた古墳といえるでしょう。今回は上浜田古墳群をみてきましたが、もともとはもっとずっとたくさんの古墳があったのかも知れません。その中心となったのが瓢塚でした。想像ではありますが、瓢塚の被葬者の時代にこの地域が大和朝廷の支配下に入り、その象徴として前方後円墳の築造が朝廷から許されたのでしょう。そして大和朝廷と結びついた記念というか力の象徴として、瓢塚が造られたのでしょう。瓢塚の被葬者の後を継いだ指導者たちは、もはや大和朝廷と深く結び付き民を安定的に統治できるようになったので、わざわざ瓢塚のような大きな古墳を造る必要はなくなり、偉大なるご先祖様のそばに第1号墳、第2号墳、第3号墳のような中規模の円墳を造ったんでしょうか?!それとも、それぞれの古墳が造られた時代はまだ「大きいことはいいことだ」の価値観が残っていたとすれば、単純に勢力が衰えてしまった結果なのでしょうか?!)