相模国分寺跡は小田急線・相鉄線・JR相模線海老名駅から東に約500メートルにあり、徒歩15分くらいで到着します。私が訪ねたときのルートをご紹介しますので良かったら参考になさってください。まずは小田急線海老名駅東口ロータリーを右に曲がり、「海老名駅入口」交差点を左折します。ちなみにJR相模線の駅は小田急線と相鉄線の駅の北西約200メートルにありますが、2つの駅は高架橋で結ばれていますので、小田急線・相鉄線の駅まで移動するカンジですね。で海老名駅入口交差点から約400メートル進むと、「国分坂下」交差点があります。(この交差点を直進してすぐ次の交差点で、左ななめ前に分岐した側道に入ります。100メートル歩くとちょっとした五差路があるので左へ。約200メートル歩くと右手前方に広大な原っぱが現われます。これが今回の目的地、相模国分寺跡です本命チョコ

 

(五差路に目印のように立つのが神奈川県天然記念物「海老名の大欅」です。太平洋戦争終戦後に再三の落雷により高さが半分になり、幹も3つに割れてしまいました。昔相模湾が海老名辺りの内陸まで深く入り込んでいた頃、船頭が舟をつなぐために打った欅の杭が大きく成長したという伝説があります鉛筆

 

(なかなか痛々しい姿です。樹齢約580年と推定され、1990年代後半以降挿し木をしたり樹木医による治療が進められたりと元気を回復しているようです。良かった・・・栗

 

原っぱは北辺と南辺をそれぞれ頂辺と底辺とする台形をしていて、北辺が約150メートル、南辺が約200メートル、北辺と南辺の間の距離は200メートル強あります。東辺には県道406号線が走っていて、原っぱの脇の方にはちらほら住宅も建っています。ここにかつて相模国分寺が存在していたのです。(建立当時の寺域はもっと広大で、東西240メートル、南北300メートルに達していたそうです。これは、境内とその外側の境を示すために掘られた区画溝から推定されています。この辺りは海老名駅東方に広がる台地上の西端にあり(海老名駅は相模川沿いの低地にある)、国分寺跡の標高は30メートルくらいです。昔は人家もほとんどなかったでしょうから、西に連なる大山・丹沢系の山々をキレイに見渡すことのできる超一等地だったということですねやぎ座

 

で相模国分寺っていったい何者?!ということですが、奈良時代の741年仏教を厚く信仰した聖武天皇が各国に国分寺と国分尼寺をそれぞれ1つずつ建立することを発願された「国分寺建立の詔」がそもそものスタートになります。国分寺の正式名称は「金光明四天王護国之寺」、国分尼寺の正式名称は「法華滅罪之寺」といいます。(歴史の教科書でなんとなく習ったような(汗)。ちなみに私が高校生の時、日本史の先生が授業で江戸時代をすっ飛ばしていきなり近代に突入したことがありました。先生いわく「江戸時代も大事だけど、現代により関係の深い近代の歴史を知って欲しい」ということでしたが、「じゃあ縄文時代とか弥生時代をあんなにミッチリやんなくて良かったじゃん、時間配分間違ったんでは?!」と思ってしまいました(汗)。学習指導要領とかはあるにせよ、日本の歴史は長いのでこういうことは起こりがちかもですね。小中学校は義務教育なので、小学校高学年(?)の時に旧石器・縄文時代の授業をはじめて中学校修了までに近現代が終わるようにすれば、子供の成長に合わせて複雑な内容に進めるから良いのかなとか。自分勝手な意見ですが・・・スミマセン(汗)。で国分寺建立の詔ですが、聖武天皇の目的は「鎮護国家」の実現でした。鎮護国家というのは、「仏教の力で国家を守護してもらおう宝石赤!」という思想です。国分寺の正式名称金光明四天王護国之寺の「金光明」というのは、金光明経のことです。金光明経は中国で信仰された仏教経典で、四天王による国家守護と現世利益が説かれました。この時代天然痘が全国で流行(35~37年)して政府高官がつぎつぎと亡くなったり飢饉が起こったり、大宰少弐として大宰府に赴任していた藤原広嗣が反乱(藤原広嗣の乱)を起こしたりと、社会不安と人心の動揺が極限まで高まっていました。大化の改新以来進められてきた天皇中心の律令体制に無理が生じていたこととあわせ、聖武天皇は大いに危機感を感じていたのでしょう。そこで苦しい時の神さま仏さまということで天皇は仏教に傾倒し、特に鎮護国家を説く金光明経を信仰したのです。同時に天皇は国家が仏教に飲み込まれてはいけないとも考えていて、あくまでも国が主体、仏教は国に尽くすという関係を望んでいたのでしょう。天皇は25年にお経を僧尼に転読させたり28年には書写したお経を諸国に配ったりと、仏教による国家の平安を追い求めます。その強い思いが奈良の大仏造立、そして国分寺建立の詔につながっていくのです)

 

国分寺建立の詔をきっかけに相模国にも国分寺が建立されます(ちなみに国分寺の北600mには国分尼寺も建てられました)。それでは国分寺跡を歩きながら、1300年前を振り返ってみましょう!まず当時の伽藍配置ですが、現地の解説板にも図が示されているとおり「法隆寺式」と呼ばれる配置になっています。これは塔と金堂が東西に横に並び、その奥(北側)に講堂が置かれる形式のことです。(法隆寺は奈良時代より前の飛鳥時代に建立されたお寺なので、奈良時代になってすでに古めかしくなっていた様式を取り入れるというのは珍しいそうです。そのため、もともとこの地に存在した豪族の氏寺を建て増しして国分寺にしたのではないかという説もありましたが、今では否定されています。純粋にレトロファンだったんでしょうかキョロキョロ?!相模国分寺では、塔と金堂の間をつらぬく中軸線上の南に伽藍への入口である中門、北に講堂があり、中門から左右に回廊が伸びて塔と金堂の周囲をグルっと囲んで講堂の左右で閉じていました。回廊の長さは東西160m、南北120mにおよび、東側は回廊の代わりに築地塀が築かれていました。現在では、原っぱの南辺に沿うように中門と南面回廊があった位置がコンクリートで舗装されています。中門と回廊の発掘調査は1966年と93年に行われ、その時点で中門の基壇土は削り取られていましたが、基壇の大きさは東西20.7m、南北10.8mと推定されるそうです)

 

(南面回廊跡から北側を望む)

 

(南面回廊跡。礎石が並んでいますあし

 

(それぞれの建物跡には解説板が立てられています晴れ

 

つぎは塔を見てみましょう!中門から入ると(正確には入ったつもりで脳内体験すると、ですが・・・)、向かって左ななめ前に塔が聳え立っていました。奈良時代から残存する礎石に加え、基壇も復元されています。基壇の大きさは各辺が20.4m、高さは1.4mあります。石段が設けられていて、基壇の上に登ることができます。(礎石は基壇に埋め込まれていて、その数16個。なくなってしまったいくつかの礎石については、よその石を代用しているのだとか。ベンチ代わりに腰を下ろしている方もいらっしゃいましたが(汗)。なんといってもビックリするのがこの塔の大きさです。塔は七重塔で、礎石から推定すると塔の底面は各辺10.8m、高さ65mに達したのだとか。現代のビルに例えると22階くらいなんだそうですベル!!今日本に残る木造の塔で最も高いのが京都東寺の五重塔で55m、法隆寺の五重塔が30mくらいですから、規格外のスケールであったことがわかります。ちなみに国分寺建立の詔には、七重塔を建て金光明経を塔に納めるよう指示されていました。実際は七重塔は吹き抜けで、上に登ったりできるような造りではなかったので、礎石と一緒に安置されました。この天に聳えんばかりの七重塔こそが各国国分寺の中心であって、天皇の権威を象徴するものでした。そのため、まず七重塔を完成させてから他の建物を建てていったようです)

 

(塔の基壇。意外と人がいたんで、あんまり写真撮れず(汗)。皆さん思い思いにくつろいでいらっしゃいました桜

 

(塔の礎石)

 

ところで相模国分寺には、ある「謎」があります。それは「なぜ海老名に国分寺を建立したのか?」ということです。一般的に各国の国分寺は、県庁に当たる国府に近い場所に建てられました。お隣の武蔵国国分寺は今にその名が残る国分寺市にあり、国府は約5km離れた府中市にありました。(一方相模国の国府はどこにあったかというと、平安時代に書かれた「和名類聚抄」には大住郡、今の湘南海岸に近い平塚市にあったと記されています。内陸に位置する海老名との距離は、10~15kmもあります。それで、和名類聚抄の頃には国府が大住郡にあったとしても国分寺が建てられた頃は海老名にあったのでは?とか、平塚により近くて相模国一宮のある寒川へ国分寺が移ったのでは?とか、いやいや国府は大磯(平塚の西にある町)、国分寺は小田原だっ!とか議論百出してはっきりとした答えは出ていません。寺院建築に深く関わった豪族壬生氏の拠点が海老名を含む高座郡にあったから、海老名に国分寺が建立されたのではないかという説もありますおじいちゃんこれは国府が平塚にあったことを前提とする説です。あとは私の勝手な想像ですが、他の国に建てられた国分寺も同じように地元の寺院建築に詳しい人たちに依存したのでしょうが、その人たちが国府の周辺に住んでるとは限らないので、相模国のように国府と国分寺の距離が離れる例が多くなるのではないかと思いますが、実際にはそういうわけでもないようです。そうだとすると、少なくとも国分寺が海老名に建てられた当初は国府も近くにあって、その後どこかの段階で国府が平塚に移ったと考えるのが自然のような気もします。詔は「国分寺は国府に造りなさい」とは言っておらず、「国分寺は国華であるから仰ぎ見るのによい好処を選びなさい。人家が近くて悪臭がするのはよくない、遠すぎたら誰も参拝できない」と要請しています。なかなか抽象的で難しいことをおっしゃってますが(汗)。天皇自らが「国華」と表現するくらいの大建造物なわけですから、やっぱり国の中心である国府に近いのは大前提のような気がしますが・・・。ただ最近の発掘調査によると、「国府最初から平塚にあった説」でほぼほぼ確定のようです。えーっ(汗))

 

それでは現場に戻りましょう!つぎは塔の東に位置する金堂です。金堂跡には、高さ1mくらいの盛り上がりができています。これが基壇で、大きさは東西47.5m、南北30.4mに達します。基壇の上には礎石が埋め込まれ、本来あるべき36個のうち16個が奈良時代から残存しています。(金堂の基壇は塔の基壇のように側面が切り立っておらず斜面状になっていて、斜面が葺き石で覆われていました。従来は基壇の大きさが東西41.2m、南北24mとされていましたが、2005年にはじめて本格的に行われた発掘調査の結果、もっと規模の大きなものであることがわかりました。また、基壇の北寄りにはちょっとした土壇(盛り上がり)があって本尊などを安置する須弥壇ではないかといわれていましたが、発掘調査の結果昔畑地として使われていた時に耕作されずに残った場所が盛り上がっていただけだと判明したそうです。真実が明らかになるのは楽しいですふたご座(汗))

 

(金堂の基壇。側面が斜面状になっていますカキ氷

 

(密集して咲いていた花。だだっ広い原っぱのなかで良いアクセントになってますちょうちょ

 

そして、塔と金堂を結ぶ線の北側にあった講堂です。講堂も金堂と同じく、高さ1mの基壇が築かれ礎石12個が残存しています。基壇の大きさは東西45m、南北29mで建立当時から変わらず、講堂の建物自体の大きさは東西34.7m、南北14.4mといわれます。今では講堂のあった場所の真上を東西にバス通りが走っているため、跡は残っていません。(相模国分寺の礎石は、各国国分寺のなかでは比較的良く残存しているといわれます王冠2礎石は2トンに達するものもあり、重機もなかった時代に人々が力を合わせて運搬した様子がしのばれます。バス通りを挟んで北側には僧が寝起きした僧房があり、その北西(境内の北西端)にも大型建物があったといわれます。僧房は東西81m以上という長細い建物で9部屋以上に分かれていたことが確認されており、建物の位置がコンクリートで舗装されています。先ほど巨石運搬の話をしましたが、巨石は無理にしても瓦をはじめ国分寺の建立に必要とされた資材の運搬に使われたのが「逆川」です。逆川は人工的に開削された運河であったと考えられ、国分寺跡の約500m東を南北に流れる相模川の支流目久尻川から水を取り入れていました。実際の取水口は国分寺跡の北東約1.5kmにある杉本小学校付近にあり、国分寺跡の北約300mの今小田急線が走る線路付近に長さ35mに及ぶ舟着場跡が発見されています。建立当時は、毎日たくさんの舟が接岸してにぎやかだったのでしょうね。逆川は、今の海老名駅周辺(国分寺跡から見て西側)に広がる海老名耕地を潤すかんがい用水としても使用されました。海老名耕地のすぐ西側には相模川が滔々と流れていますが、洪水の危険を考え相模川の水は使わずより遠くを流れる目久尻川からわざわざ水を取り入れたのだとか)

 

(手前がバス通りで、この辺りに講堂があったのでしょう。向こう側は僧房跡が確認されたエリアです長音記号2

 

(「ん?!オレの領地に勝手に入ってくるなっパンチ!」といわんばかりの野良猫。スミマセン、おじゃましまあす)

 

(僧房跡。絵としては↑の南面回廊と変わらないわけですが目(汗))

 

741年に国分寺建立の詔が出され、相模国分寺の伽藍が一通り整えられたのは8世紀後半の早い時期だったのでしょう。しかし、819年、78年に大きな災害が起き国分寺は荒れ果ててしまいます。この災害は古文書にも記述されていますが、発掘調査でも9世紀代の新旧 2 時期に火災に見舞われた痕跡が発見されたそうです。(19年は2度に及ぶ火災、78年は関東地方で起きた大地震とそれに伴う火災だったようです。遺構や出土品からは78年の大地震以降伽藍を再建した痕跡が見られず、そのまま失われてしまったようです。国華とも呼ばれた七重塔を擁し、まさに相模国の中心と咲き誇った国分寺はわずか1世紀でもとの姿に戻りました。礎石だけを残して・・・。その後は畑地として使われていたようです。しかし、相模国分寺は、ここで絶えてしまったわけではありませんでした。定説があるわけではありませんが、国分寺はその後約300m南の「上の台」(国分南3、4丁目の字名)と呼ばれる丘の上に移転したようです。ここにはかつて国分寺の塔と同じ配列と規模の礎石が存在していたことから、78年の大地震後のどこかの段階でこの地に移転したのではないかと考えられています。また、この地には薬師堂が建ち、聖武天皇ご宸筆という「金光明四天王護国之寺」(国分寺のこと)と書かれた扁額が残されていたそうですニヤリ本当なら国宝級の超大事な遺産だと思いますが、どこに消えちゃったんだ(汗)?!そして室町時代、もとの国分寺跡のすぐ南側の敷地に薬師堂の建物ともどもまたもや移転します。最初に説明した五差路を右に曲がったところです(左に曲がるともとの国分寺跡です)。ここには今も「東光山醫王院国分寺」を名乗るお寺が残っています。現国分寺は高野山真言宗のお寺で、1292年に国分季頼から国分尼寺に寄進されたという銅鐘が国重要文化財に指定されています。銘文によると、この銅鐘を作成したのは鎌倉円覚寺や金沢称名寺の銅鐘を造ったことで知られる物部国光です)

 

(現国分寺の入口)

 

(お地蔵さん)

 

(本堂。室町時代の14世紀後半に作成されたといわれる薬師如来の木の立像を本尊とします。もともと上の台の薬師堂に安置されていた仏さまなんですかね龍?!)

 

(銅鐘。寄進した国分季頼はこの地に居館を構えた海老名氏の一族です。海老名氏は、康平年間(1058~65)源田郎親季が相模守となり海老名を名乗ったのをはじまりとしますNEW