実相寺は日蓮宗のお寺で、山号は弘延山と称します。旧漢字で「實相寺」と書くこともあります。前回取り上げた五所神社の鳥居を出て道路を左に進み、五十メートル程で実相寺の山門前に到着します。ここから材木座海岸までは南西方向に五百メートル程。お寺の近所は静かな住宅地で、シーズンになると海水浴客であふれる海岸が近くにあるとは思えない落ち着いた別世界ですカチンコ

 

(境内に置かれていた鬼瓦。旧漢字の「實」ですねカメラ

 

山門は江戸末期に建てられた木造の薬医門で、正面と直角に張り出した四本の梁(男梁)がカッコイイです。柱には、「日昭尊者濱土法華堂霊跡」と書かれた木札が掛けられています。「日昭尊者濱土法華堂霊跡」の文字の両脇には、ちっちゃい字でビッシリとお寺の来歴が書かれています。その辺りは後程・・・。自治体とかの説明板は良く目にしますが、木札が説明板がわりに使われているのはあんまり見たことなかったんで斬新でした(汗)。(山門をくぐるとすぐ正面に、ご本堂が建っています。境内はこじんまりとしていて、山門も本堂もご近所のお寺さんといった雰囲気でとても心が安らぎます。観光で訪れる人も見かけず、お邪魔して良いのだろうかとちょっとたじろいでしまいました。小心者なので・・・おすましペガサス本堂は寄棟造りの建物で、先代の本堂が明治の初めに大火で焼失した後に再建されたものです。本尊は一塔両尊四士です。また、文化財には指定されていませんが、堂内には木造日蓮聖人坐像、木造日昭上人(開山)坐像、木造三日月大月天子立像が安置されています。「三日月大月天子」は天の神々のお一人で月の神さまです。竜口法難直後の1271年9月日蓮は四条金吾宛に手紙を著し、月天子が光る物(稲妻!?)として現れ首を斬られるところだった私を守護してくれた、と伝えています)

 

(山門)

 

それでは、実相寺の歴史を振り返ってみましょう。実相寺のあるこの地は、平安末期の武将工藤祐経の屋敷跡だといわれます。工藤祐経(1147?~93)といえば、有名な曽我兄弟の仇討で父の仇として討たれてしまった人物です。祐経は伊豆国の有力者で、若くして京に上り平重盛に仕え重盛邸に宿衛しました。(一方で祐経は時流を見る眼にするどく、京を去っていち早く源頼朝に従います。祐経は京にいた時代に養った歌舞音曲をはじめとする文化的教養を武器に、頼朝の寵臣として鎌倉で地位を高めていきます。特に有名なのは、86年4月源義経の愛妾静御前が鶴岡八幡宮の若宮回廊で舞を舞ったときに、祐経が傍らで鼓を打ったことです。静御前は遊女(白拍子)で、愛する義経は源平合戦後兄頼朝と対立して都落ちし、静とも別れ別れになっていました。静はそんななかで捕えられ、鎌倉に連れてこられたのです。頼朝から舞を舞うよう命じられる静。「しづやしづしづのをだまきくり返し 昔を今になすよしもがな」、「吉野山峰の白雪ふみわけて 入りにし人の跡ぞ恋しき」・・・どちらも義経を恋い慕う想いを表現したものでした。頼朝の顔にみるみるうちに怒りの表情が・・・「折角の神聖な場でお前はこんな舞を舞うのかっ、命は惜しくないのかっ」と静に一喝します。祐経も自分も巻き込まれるんじゃないかと気が気じゃなかったことでしょう(汗)。現在鶴岡八幡宮に残る舞殿は当時はなく、実際に静が舞った若宮回廊の跡地に建てられました。頼朝の隣で舞を見物していた北条政子は、すかさず怒る頼朝に向かって「あなた。自分の若いころを振り返れば私もきっと同じことをしたでしょうよ」と諫言し、頼朝も矛を収めました。頼朝って人間のちっちゃさを表すエピソードが多いですよね、それに引き換え政子カッコイイ!後世の創作かも知れませんが。で祐経に話を戻しますが、祐経は北条氏とも良好な関係を築き頼朝から各国に領地を与えられました。一方、武功ではなく文化的教養によってのし上がった祐経を見る東国武士の目は冷めていたようです。「なよなよしてるクセになんだあいつ」っていうカンジでしょうか?!90年7月頼朝は大倉御所で双六の催しを開きました。遅れてやってきた祐経は、座る場所がなかったので当時15歳の加地信実をヒョイと抱え上げて脇に座らせ、自分がその場所にどっかと座を占めました。侮辱を受けた信実は席を立ち、石つぶてを持ってきて祐経の額目掛けて投げつけました。祐経は流血、場はザワつきます病院この事件に対し、信実の父佐々木盛綱は信実を勘当します。怒った頼朝は信実を引き渡し謝罪させるよう盛綱に命じますが、盛綱は「いや、もう勘当してますからこれ以上はなにもできませんよ」と拒否。一方の祐経も頼朝の仲裁に対し、「私もやり過ぎました。道理は信実にあったと思います」と引き下がり騒動は収まりました。祐経からしたら信実は自分の子供のような年齢であり大してなんとも思わずに行動に出てしまったのでしょうが、驕りがあったといわれても仕方ありません。また、御家人の一員とはいえ、鎌倉での祐経は東国武士から「よそ者」とみられていた側面があったことも事がこじれてしまった原因なのかも知れません。そんな祐経に「曽我兄弟の仇討」という悲劇が刻々と近付いてくるのです)

 

(山門の右横には「南無妙法蓮華経」の題目塔が星

 

曽我兄弟の仇討は「日本三大仇討」の一つに数えられますが、その経緯は複雑きわまりなく、祐経の人生には幼少期以来通奏低音をなす不幸と憎しみの連鎖があるといえます。祐経の父は祐継といい、伊豆国伊東に領地(伊東荘)を持っていました。しかし祐経九歳のときに早世。祐継の遺言で祐経は義理の甥伊東祐親に預けられます。(さっそく連続ドラマの冒頭部みたいなカンジになっちゃってますが(汗)。祐親は祐継の遺言どおり祐経に元服式を催してやり、娘の万劫御前を祐経の妻とし、祐経と一緒に京に上って「コイツをよろしくお願いします」と平重盛に仕えさせます。良い叔父さんじゃないですかあ、と感動してしまいますがそれは祐親の仮面に過ぎなかったのですビーグルあたま祐継が所有し祐経が継いだ伊東荘は、工藤家の中心となる本領でした。もともと祐継の先代祐隆(祐なんとかがいっぱい出てくるので番号をつけます。祐隆は①)の実子である祐家②が、伊東荘を継いでいました。しかし、祐家②は早世。そのため、祐隆①は祐継③を養子に迎えて伊東荘を継がせ、祐継③の死後祐経④が継いだのです。で祐親⑤というのは、祐家②の子。つまり、順当に行けば血を分けた祐親⑤が伊東荘を継ぐはずだったのです。祐継③は祐隆①の後妻が連れてきた娘が産んだ子でした。「曽我物語」には、祐継③はこの連れ子の娘と継父祐隆①の間に産まれた子だと書いてあります・・・。系図の線がちゃんと書けないパターンですね(汗)。祐親⑤からすれば全く面白くない展開ですし、祐経④には血族としての親近感もなにもなかったでしょう。で祐継③の遺言や祐経④の思いを無視して、祐親⑤は自らの野望に向け邁進しはじめるのです。最初に連続ドラマと表しましたがそれを軽く超えるグチャグチャっぷりで、波乱の予感しかしません(汗)。ちょっと長くなったので一旦ここで・・・)

 

(山門の木札。いろいろ知って欲しいっ、というお寺の思いが伝わってきます目がハート

 

伊東祐親(この辺りで番号は外しますが(汗))は、まず京にあって不在の工藤祐経が継いでいた伊東荘を奪い取ります。そして、それに飽き足らず祐経に嫁がせた娘の万劫御前を離縁させ、伊豆国の有力豪族である土肥遠平に嫁がせます。祐親からすれば、自分以外に後ろ盾のいない天涯孤独の祐経なんぞ「怖くもなんともないわい」という思いだったのでしょう。(まさかの仕打ちに驚いたのは祐経です。京で訴訟を繰り返し伊東荘の奪還を目指しますが、祐親が根回しを済ませておりことごとく失敗。円満解決の道をあきらめた祐経は祐親を深く怨み、その命に狙いをさだめます。1176年10月祐経は祐親が奥野(静岡県伊東市)に狩りに出掛けた折を見て、帰る道中を配下に襲わせます。配下の一人八幡三郎行氏は誤って祐親の子河津祐泰に矢を射掛け、矢が当たった祐泰は亡くなります。亡くなった祐泰の子が、まだ幼かった曽我兄弟(兄の十郎祐成(当時は一萬と呼ばれた)と弟の五郎時致(同じく筥王))なのです。祐泰の未亡人は兄弟を連れて相模国の豪族曽我祐信の妻となったことから、「曽我兄弟」と呼ばれるようになったのです。ちなみに今回は難を逃れた祐親でしたが、源頼朝の旗揚げにともなって東国武士が次々と頼朝軍に加わるなか、あくまで平家方に身を捧げ続けます。80年の「石橋山の戦い」では、敗北した頼朝軍の武将がバラバラに散って逃亡していた際に祐親は北条時政の嫡男宗時を討ち取る戦果を上げましたが、「富士川の戦い」の直前に頼朝軍に捕まってしまいます。祐親は鎌倉に連れてこられ、三浦義澄が女婿であった関係で西御門にあった三浦の館に留め置かれます。そして82年2月義澄による助命嘆願を頼朝が聞き入れ恩赦を受けることになりましたが、祐親は「敵である源氏に許されてまで生きるなんぞ恥さらしだっ」と拒否。自害して果てました。ここまでですらドラマ「伊東一族物語」は富士急ハイランドのジェットコースター並みに山あり谷ありなわけです(私は若い時に徹夜明けに乗ってフラフラしてしまいました(汗))が、この後にクライマックス、曽我兄弟の仇討がくるんですからスゴすぎです!!

 

(本堂)

 

(境内から山門を望む。木々が多くて気持ち良いですニコニコ

 

そして曽我兄弟の仇討です。1192年念願の鎌倉幕府を開いた源頼朝は、翌93年5月7日から6月7日の一か月にわたり、多くの御家人らを引き連れて富士の裾野で大規模な巻狩りを催しました。巻狩りとは大勢で獣を追い詰める狩猟法ですが重要な軍事訓練の意味合いもあり、頼朝にとっては将軍としての権威を披露する場でもありました。(この巻狩りに工藤祐経が参加し、兄弟の養父曽我祐信も参加していたことから兄弟が祐経に近づくには格好のチャンスが訪れたのです。といいつつ数万から数十万人ともいわれるもの凄い数の御家人とその配下が参加する狩場で、なかなか祐経を発見することができません。そしてようやく5月28日深夜になって兄弟は祐経の寝所を探し当てることに成功。折からの風雨を冒して寝所に忍び込み、まず祐経の客人として寝所にいた備前国吉備津神社の神官王藤内を殺します。祐経は酒に酔い、遊女を傍らに寄せていびきをかいて眠っていました。兄弟が目の前に立っても祐経はまったく気づかず・・・あきれて祐経の肩を刀でちょいと切り付け「おい、起きろっ」と。ようやく寝惚け眼を開いた祐経は、迫る兄弟に「あのときのことは仕方ないじゃん」と言い訳しながら命を惜しんだといいます。そして祐経を殺害する兄弟。ここに父河津祐泰が非業の死を遂げてから十七年という時を越え、兄弟たっての悲願であった仇討が成就したのです。そうこうするうちにただならぬ状況になっていることが狩場の内に聞え、御家人たちがつぎつぎと祐経の寝所に駆け付けます。そして御家人たちと兄弟の間で、斬った貼ったの場面が繰り広げられます。ここで兄弟はさらに十人を討ち取りますが、最後に現れた北条時政の宿衛新田忠常に兄の十郎祐成が斬られて死亡。弟の五郎時致はなんとか脱け出して頼朝を狙いその寝所に進みますが、女装した小舎人の五所五郎丸に捕まります。そして翌5月29日、幕府の重臣たちが居並ぶなか、五郎時致は頼朝の前に引き出されます。五郎時致は最高権力者の眼の前にあっても、恐れ気もなく仇討に至った経緯を思いを込めて語ります。その覚悟と孝行心に打たれた頼朝は、五郎時致の命を助けようと思いはじめます。それに対し、祐経の遺児犬房丸(伊東祐時)が「命を助けるのだけはやめてくださいっ」と泣いて頼み込みます。結局五郎時致は筑紫仲太という御家人の手によって斬首されます。まだ二十歳の若者は従容として死出の旅についたといいます。こうして曽我兄弟の仇討は終わりを告げますが、私たちは仇討という言葉のなかに「仇=悪者」というイメージを抱きます。ただ、祐経のたどってきた一生をたどると、祐経は祐経で多くの理不尽と苦悩を経験してきたことがわかります。(北条時政が後ろで糸を引いていたとかいう説もありますが)曽我兄弟の仇討は、すべての登場人物にハッピーエンドのないあまりに悲しい物語であるといえます赤ちゃん泣き

 

(本堂向拝の象の彫刻)

 

そんな工藤祐経の屋敷跡が実相寺といわれているわけですが、実相寺の開山が祐経の娘の子とされる日昭上人なのです。日昭は1253年日蓮聖人が日蓮宗を開宗したときに弟子となり、教団の草創期を支えました。71年日蓮が竜口法難後に佐渡に流されると、日昭は鎌倉に残った信者をとりまとめつつ教線を拡大する役目を担いました。(そして工藤家の屋敷の一画に濱土法華堂を設け拠点としました。この辺りの地名は濱土の玉澤と呼ばれていました。日昭の役目は単なるお留守番ではなく、日蓮宗を目の敵にして弾圧を繰り広げる幕府のお膝元での活動ですから、日昭は組織運営や情報管理など並々ならぬ能力を持っていたということなのでしょう手裏剣日蓮が死の直前に六人の本弟子を定めたとき、日昭はその筆頭に位置付けられました。84年日昭は濱土法華堂を法華寺に格上げします。日昭は1321年まで長生きをし、その一門は日昭門流と呼ばれ繁栄します。実相寺の本堂向かって右横を進むと墓地があり、石段を上って行くと正面に日昭墓がひそやかに立っています。ちなみに実相寺の開基は風間信昭です。開基はお寺が設けられたときにパトロンとなった人のことで、通常有力な武将や貴族が担います。信昭は越後国村田(新潟県長岡市)で出生し信濃守と越後守を兼ね、日昭から教化を受けて有力な檀越信者(お金や土地を寄進するなどして教団を助成した信者のこと)として日昭を全力で外護しました。ただ信昭サンはその経歴が良くわからないところもあって、33年に鎌倉幕府が滅亡すると新田義貞軍に加わって南朝を守ったといわれています。1284年に法華寺ができたとき信昭が三十歳だったとすると、幕府滅亡時は八十歳くらい・・・まああり得なくはないのですかね。よくよく考えれば鎌倉幕府が開かれた1192年に生まれた人の孫が1250年くらいに生まれ、長生きすれば幕府滅亡に遭遇することもあるわけです。敵方の平家物語のマネじゃないですが、人間の歴史は「諸行無常」ということですね)

 

(日昭墓)

 

(お墓の脇に先へつづく石段がありましたが、立入禁止だそうですドア

 

(鳥の鳴き声と木の葉のさざめきしか聞こえませんくまアイス

 

日昭上人によって設けられた法華寺ですが、1361年には鎌倉を襲った地震によって被災し濱土から材木座に移転します。そして1493年には高御倉小路に移ります。で、さらにさらに1538年には氏綱の代の後北条家と他家が繰り広げていた戦乱を避けて誕生の地鎌倉を去り、越後国村田妙法寺内に移ります。村田は、実相寺(当時は法華寺ですが)開基風間信昭ゆかりの地です。(ついで94年14世日苞上人の代に、伊豆国修善寺加殿の妙国寺内に。災害とか戦争とか外から襲ってきた惨事を避けるためなので仕方ないですが、三百年で五か所目です。多い・・・電車そしてようやく最後に落ち着くことができたのは、伊豆国大木澤(静岡県三島市)の地でした。1621年15世日産上人の代に大木澤に移転し、続く日達、日亮両上人の代に伽藍の整備が進みました。法華寺が設けられた地(つまり現在実相寺がある場所)が鎌倉濱土の玉澤であったことにちなみ、大木澤は玉澤と改名されました。そして二代将軍徳川秀忠から約五十万坪を朱印地として認められるとともに、紀州大納言頼宜、水戸中納言頼房両公の生母、徳川家康の側室お万の方とお勝の方、太田道灌子孫の太田資宗ら熱烈な日蓮宗檀越信者から莫大な助力を得て伽藍が完成しました。駿府城からは、お万の方が過ごした居間が法華寺に移転され奥書院となりました。法華寺が大木澤に移転したのとちょうど同じ年(21年)、濱土にも日潤が一宇を再建しました。これが現在の実相寺です。実相寺自体は日昭ゆかりの地に建てられた重要な霊跡とはいえ、伊豆法華寺が時の権門勢家からビックリするほどの外護を受けたことと比べれば差があるカンジは否めませんが、1621年という節目の年が共通するということは両者なんらかのつながりがある出来事だとみて良いのでしょうか?!)

 

(なんとか塚クマムシくん???)

 

最後に伊豆法華寺についてもう少し紹介してみましょう。1621年に完成した伽藍は、18間(32.4メートル)四方の大本堂、大中鐘楼、五重の塔などが雄大壮麗に建ち並び、周囲には二十四もの塔中がひしめいていました。建物の数なんと二百四十棟に及んだんだとか!!しかし、残念なことに1791年に起こった失火により灰燼に帰してしまいます。(焼失した建物は、1817年41世として法華寺に晋山した日桓上人によって再建されました。日桓は俳僧一瓢の名で知られ、小林一茶が(「一茶に」、じゃなくて「一茶が」、なんですね。スゴイ)師事したといいます。現在眼にする建物の多くは日桓の代に建てられたものです。数百棟の建物を誇った最盛期の状態に戻ることはさすがに無理とはいえ、百間塀と呼ばれる石垣が周囲にはりめぐらされ本堂、祖師堂、大書院などが建ち並んでいます。手入れをされた広い庭園もみどころの一つで、春の桜、秋の紅葉が特に美しいことで有名です。この法華寺をはじめとして、江戸時代以前には幕府などから厚遇され今とはケタ違いの規模を誇ったお寺が多かったわけですが、立派な建物が整然と建ち並ぶお寺は、当時の一般の人々からすればまさしく現実離れした仏の理想郷だったのでしょう。そんな圧倒的な規模のお寺が今も各地に残ってたら良かったなあと思う反面、お寺に土地が占領されて私たちが住める場所が狭くなっちゃうわけですね猫あたま(汗))

 

(本堂の傍らに開花していたオレンジの花。名前不明ですがロボット(汗))