五所神社は、来迎寺から直線距離で約100m南に鎮座する神社です。来迎寺の境内を出て左に曲がり道路を約80m進むと、「村社五所神社」の社号標と石造りの鳥居が立っています。鳥居をくぐると石畳の参道が続いています。参道は長さ約100mもあって、先が見えないほどです。(参道の両側には草木が植えられ、四季折々の風情を感じることができます。特に春の桜と梅雨時のあじさいが有名です。参道とその先にドカッと腰を下ろした裏山が、緑濃く気持ちの良い別世界をつくり出しています。五所神社へはJR鎌倉駅からバスでのアクセスも可能です。駅東口6番バス乗り場から臨海学園方面行きのバスに乗り、「五所神社前」停留所で降ります。バス通りは鳥居の立つ道路の一本西側を走っているので、停留所を降りたらバスの進行方向に向かって左の細い道路を行くと五所神社の鳥居に出会えますニコニコ

 

(社号標)

 

(鳥居)

 

(参道にたたずむ狛犬)

 

(その奥には、1916年に奉納された古い狛犬もいます。狛犬といえば顔の周りに豊かに渦をまいた毛が魅力的ですが、こちらの狛犬は前髪?!ぱっつんなのが特徴的です。↑と比べると毛量の差がものすごいことになってます(汗)。足もとの子供はボールをガジガジかじって遊んでいるみたいで超カワイイチワワ黒

 

参道を進むと、突き当りに建物が見えてきます。がっ、これは拝殿ではなく神輿庫です(汗)。参道は神輿庫の前でカクっと直角に左に曲がり、すぐそばに建つ拝殿に続いています。というわけで神輿庫が西向き、拝殿は南向きに建っています。神輿庫の奥に裏山が迫っているのでこういう配置になったのでしょうけど、面白いです。(拝殿に掛かる神額に目をやると、「国家興隆」と書かれています。ふつう神額には神社名や祭神名が書かれることが多いので、珍しいですね。国家興隆、大事なことです!ところで、拝殿の建物は1923年の関東大震災で発生した山崩れに巻き込まれて全壊したことから、31年に再建されました。向拝に刻まれた鳳凰や獅子の精巧な彫刻がステキです虹

 

(参道をズズーっと進みますギザギザ参道の両側には家が建ち並んでいます)

 

(拝殿。私が訪れたの祭日だったんですね、何の日かど忘れしましたがダーツ(汗))

 

(「国家興隆」の神額です。まさかの左上の植物?に焦点があたっちゃってますね、いつもながら下手くそでスミマセンネガティブ

 

(拝殿の彫刻)

 

(こちらは、向拝の唐破風に掛けられた彫り懸魚(動物などの彫刻がほどこされた懸魚のこと)の鳳凰ですチョコ

 

神社名からもなんとなくわかるように、五所神社は材木座町内の5つの神社を合わせて成立した神社で、材木座の氏神様に当たります。昔この地域には乱橋村と材木座村という2つの村があり、それぞれの村で神様を信仰していました。乱橋村で信仰していたのが三島社、八雲社、金毘羅社、材木座村で信仰していたのが諏訪社、視女八坂社です。(1888年に両村が合併し、乱橋材木座村が発足しました。と思ったのも束の間、翌89年には日本全国で町村制が施行された結果できたばかりの乱橋材木座村は東鎌倉村に編入され、大字「乱橋材木座」となります。ちなみに、町村制を施行する前も後も同じ「村」なのに何が違うの?という疑問が湧きますが、町村制以降の町村では、町村長を責任者として教育、徴税、土木といった事業を管轄することになったことに特徴があります。つまり日本が近代国家としての体をなすための基礎となる事業を町や村が担うことになったのです。こういった事業を行うには、江戸時代から続く村落共同体では財政規模や人材の面から全く足りません。そのため国から「町村がちゃんと機能するにはこのくらいの人口が必要だからよろしくネっ」という「適正町村規模」が示され、規模を大きくするために全国で村落共同体の合併が進みました。乱橋材木座村も単独では小さ過ぎたので、周りの村々と合併して東鎌倉村ができたのです。そして1908年旧乱橋村と旧材木座村の5つの神社が合祀され、五所神社が発足しました。場所は乱橋村の氏神様である三島社が鎮座していたところとし、社殿は材木座村の氏神様である諏訪社の社殿がお引越ししました。両村が合併してから20年後のことです。ある意味「よそ者」同士だった乱橋村と材木座村が合併によって結びつきを強め、「じゃあ、そろそろですかねえ」ということで村の伝統の象徴である神社を合祀するまで20年かかったということなんでしょうかね誕生日帽子

 

で拝殿からちょっと戻って神輿庫です。なかには3基の神輿が収められていて、ガラス越しに拝観することができます。一号神輿が元諏訪社所有、二号神輿と三号神輿が元視女八坂社所有で、いずれも作者は大工吉川勘右ヱ門、仏師後藤斎宮です。二号神輿と三号神輿は1847年に奉納され、一号神輿も同時期の作品といわれます。(いずれの神輿も太平洋戦争後に改修されています。一号神輿は鎌倉市有形民俗文化財に指定されています。これら3基の神輿は、6月第2日曜日を中心に3日間にわたって執り行われる例祭に繰り出すためにここ神輿庫で英気を養っておられます。例祭1日目は宵宮祭です。2日目は朝本殿で祭儀が催された後、お昼に3基の神輿が神社を出発、夕方にかけて神輿渡御が行われ材木座の町内を練り歩きます。まず山車がそろそろと進み、3基の神輿と子供神輿が続きます。山車は「湘南型山車」といわれ、唐破風の屋根、木製で径の小さな4輪の車輪などに特徴があるゴテゴテしてなくて好感の持てる素朴な山車です。一号神輿と二号神輿は「ドッコイドッコイ」の掛け声とともに威勢良く進みますが、三号神輿だけは白装束に身を包んだ担ぎ手が、昔から伝わる「天王唄」に合わせて厳かに進みます。このスタイルは八雲神社の「大町祭り」と一緒ですね。五所神社例祭は鎌倉有数のお祭りでもあることから、地元鎌倉以外に横浜、横須賀など近隣からも多くの人が神輿を担ぎにやって来るんだとか晴れちなみに直近の2022年はコロナ禍の影響で縮小開催されたそうです。皆が心からお祭りを喜べる日が早く戻って欲しいですね!!)

 

(神輿庫)

 

神輿渡御の一行は、材木座町内の古刹九品寺と光明寺の門前に立寄ります。九品寺は真言宗寺院で、1296年作の石造薬師如来坐像が神奈川県重要文化財に指定されています。光明寺は浄土宗大本山で、鎌倉幕府第4代執権北条経時公を開基、浄土宗三祖然阿良忠を開山として40年に創建されました。(光明寺でご住職による法要が執り行われた後、一行は材木座海岸に向かいます。いよいよ神輿渡御、そして例祭一番のみどころともいわれる海上渡御のはじまりです!!大勢の観客が見守るなか、神輿3基が材木座海岸の砂浜にそろそろと登場します。ちなみに海岸に出るには海岸沿いを走る国道のガード下をくぐらなければならず、神輿の屋根の装飾を傷付けないように肩から下ろして静かに運ぶんだそうです。ここが地味に一番緊張するかも。神様の乗り物に傷付けられませんしね(汗)。そして四方に竹を立て注連縄で囲われた聖所に神輿が鎮座し、祭儀が行われます。3基の内一号神輿と二号神輿が海に入り、時計回りにグルグル回る勇壮な練り回しで祭神に感謝するとともに、海上安全と町の繁栄を祈願しますうずまき海水浴やサーフィンなどウォータースポーツのメッカである材木座ならではのお祭りともいえます。ちなみに私は小学生以来海で泳いだことありません。泳ぐなら人工のプールのほうが好きですね。海を眺めるのは大好きですが(汗)。そして海上渡御が終わると3基そろって五所神社に還幸します。例祭最終日(3日目)の朝には、「三ツ目神楽」が催されます。宮司様が鎌倉神楽を舞い天王唄を唄って、神輿に宿った祭神に本殿にお戻りいただきます。かつて例祭は1週間にわたって続けられたといいます。その1週間町の人々は日頃の生活の辛さ苦しさを忘れてお祭りに没頭し、かつての2つの村がガッチリと手を取り合って結束を強めたのでしょう)

 

五所神社には、もう一つ特徴があります。それは「石」が好き(?!)ということです。境内には、石にまつわるさまざまなものが所狭しと集められています。まずは「不動種子板碑」です。拝殿、神輿庫から参道を戻ると神輿庫の裏手に西向きに小さな覆屋があり、そのなかに板碑が置かれています。(覆屋の扉には、「板碑 国指定重要美術品 弘長2年(1262年)銘あり」と書かれた紙が貼られています。とまあそういうことです(汗)。こちらの板碑、明治時代初め廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた頃に廃寺となった感應寺というお寺にあった板碑を移してきたのだとか。感應寺は九品寺の近くにあった修験真言宗寺院で、京都三宝院の末寺でした。一般的に板碑は13世紀から16世紀までの400年間に作られ、多くはパイ状に薄~く剝がれやすい秩父板岩を材料とし、碑の真んなかに仏をあらわす梵字を刻んでいます。五所神社の板碑は、秩父板岩ではなく雲母片岩であることが独特です。秩父板岩は緑泥片岩のことで、秩父板岩も雲母片岩もどちらも変成岩(断層やプレートなど大地が運動する際に生じる圧力によってできた岩石)で、はっきりとした層状に剥離する性質も一緒です。緑泥片岩は片岩のなかに緑がかった緑泥石、緑れん石、緑閃石を多く含んでいる岩石、雲母片岩は片岩のなかに雲母類鉱物を多く含んでいる岩石です。雲母片岩のほうが黒味が強いです。こちらの板碑に刻まれた梵字は「カーン」で、不動明王の種子をあらわします。種子というのはそれぞれの仏自体を象徴する単語のことで、大日如来=バン、帝釈天=イーとか決まっています。愛称は呼びやすいように本名よりずっと短く名づけられますが、同じような感覚なんでしょうか?!ある単語が複数の仏をあらわしたりある仏が複数の単語で呼ばれたり、とかいろいろ複雑みたいですが煽り(汗)。その単語を梵字であらわすことで、絵姿の代わりにしたわけです。五所神社に伝わる不動種子板碑はほぼ完全な姿で残っており、これだけ保存状態の良い板碑も珍しいそうです。大事に守りつづけてくださっている五所神社に感謝です!)

 

(不動種子板碑)

 

不動種子板碑の向かって右側には、境内社「石上稲荷」が鎮座します。木で造られた鳥居をくぐるとしっかりした石祠があり、なかには大石がドカッと祀られています。こちらの大石は昔は材木座海岸にそそぐ豆腐川の河口近くにありましたが、漁師や海水浴客、子供たちにいたずら?!をするとかで海中から引き揚げられ、五所神社に神様としてお祀りされることになりました。(この大石、「ボクはなんでここにいるの?!」と思ってるのか、それとも「いたずらしてたはずなのに何で神さまにされちゃったの?!」と思ってるのか・・・。それから石上稲荷の鳥居のすぐ外側、ブロック塀で囲われた一画にはたくさんの石造物が並べられています。そのなかに、木製の十字架を背にした小さな小さな石像が。そばには、「お春像」という立札が立っています。お春という名前からもわかるように女性の像で、表情は風化しつつあります。像には「天和四年(1684年)」と彫られています。これは徳川第5代将軍綱吉の時代に当たります。正座をして顔を天に向け後手に縛られているようです。しかも服は左前の死装束・・・。後ろのブロック塀に貼られた説明書きには、「隠れキリシタン殉教の姿と伝えられる」と書かれています。ただ「何のために作」られたのかはわからないと。少年天草四郎を首領とするキリシタン農民たちが「島原・天草の一揆」が起こしたのは37~38年のことで、第3代将軍家光はキリスト教禁令を発します。禁令以降隠れキリシタンが一斉検挙される事件は少なからず発生したものの、綱吉の時代までにはだいぶ落ち着きを見せていました。キリシタンは当て字で「吉利支丹」などと表記されていましたが、綱吉の時代になるとその名前とかぶるため「切支丹」と表記されるようになったんだとか。キリスト教を信仰していることを心のなかに秘めておくしかない隠れキリシタンが、幕府の眼をかいくぐるためにキリスト教だとはっきりわかるしるしのないお春像を作り、信仰の象徴として大事に守ってきたのでしょうか・・・雪の結晶

 

(石上稲荷)

 

(狛狐。後ろにも2匹顔をのぞかせています気づき

 

(石造りの御幣の後ろに大石が祀られていますびっくりマーク

 

(お春像)

 

(不動種子板碑の収められた覆屋の横、ちょっと見落としてしまいそうなところにも丸みを帯びた大石が・・・。「疱瘡老婆の石」だそうです。もともと視女八坂社にあった石で、名前のとおり近代まで世界各地で猛威を振るい人々を苦しませた疱瘡(天然痘)を「疱瘡老婆」という神様(疱瘡神)に擬したということでしょう。石自体に疱瘡老婆が宿っているのか疱瘡老婆が持っていた石なのか「設定」はわかりませんが、かつては村人がこの石をさすったり拝んだりして疱瘡封じを祈ったといいますまじかるクラウン

 

お春像の周りには、たくさんの石塔が並んでいます。この内庚申塔は14基もあります。最古のものは「寛文十二年(1672年)」の銘を持つ帝釈天を主尊とした庚申塔で、鎌倉市有形民俗文化財に指定されています。これらは、町内の道端や辻にあったものを明治時代に集めたのだそうです。(文字で「庚申塔」と刻まれ下部に「見ざる聞かざる言わざる」の三猿が彫られたもの、青面金剛が彫られたもの、阿弥陀如来が彫られたもの、そして形も作られた時代もさまざま・・・まるで庚申塔の博物館のようです。これら石塔の間には、摩利支天の石像もたたずんでいます。奉納されたのは1913年ですから新しい像です。摩利支天はもともとヒンズー教の神マーリーチーで、仏教に取り入れられて軍神として武運をつかさどるとされたことから、日本でも武士を中心に信仰されました。五所神社の摩利支天は走る猪に乗った三面六臂の像で、3つの頭に椎の実型の兜をスポッとかぶり、6つの腕にさまざまな武器をたずさえたまさに軍神を感じさせる石像です。この姿であらわされた摩利支天の像は、日本に12体しかないということですクリスマスベルこうやって見てくると、五所神社って本当に石が好きなんだなあと思いますが、その石たちの来歴は本当にさまざまです。しかも板碑は仏教、お春像は(隠れキリシタンだとすれば)キリスト教、摩利支天はヒンズー教から仏教に取り入れられた神様ですし、石上稲荷は自然物に神様が宿るアニミズムから発する神道の伝統的な信仰をあらわしているなど、神社という枠をやすやすと超えてしまっています。これらが仲良く共存している五所神社。氏神様のあたたかい包容力と地域・人々への愛を感じファンになってしまいました!)

 

(庚申塔)

 

(摩利支天)

 

(境内のさまざまな場所に、丁寧な手作り感あふれる説明書きが貼られていてとてもわかりやすいです。めちゃくちゃ助かりますネザーランド・ドワーフ