上行寺は前回取り上げた別願寺の真ん前に位置します。県道311号線を挟んで本当に真ん前です。といいつつ、県道は結構車が通っていて危ないので、ちゃんと横断歩道を渡りましょう!上行寺は一見すると私たちが一般的にイメージするお寺のたたずまいです。が!山門から見渡してみると建物の壁やら柱やらそこかしこにいろいろな貼り紙が・・・ハッ(手書きの独特なフォントで、お寺で得られるご利益とかがごちゃごちゃと書いてあります。私の出来の悪い脳では処理しきれませんでした。というわけで参拝する前から私のなかで不穏なセンサーが作動中(汗)。ご利益についてはのちほど詳しく・・・。これまでいろいろなお寺や神社に参拝させていただきましたが、そのなかでも不思議ちゃん度高いです、上行寺。それだけ人々の願いが凝縮されているお寺ということかも知れません。ちなみに上行寺は商業的な面と一線を画するという思いから、鎌倉のお寺や神社が加盟する鎌倉市観光協会に唯一加盟していないお寺なのだそうです。といっても境内を参拝させていただくことは自由で、私が訪ねた時も参拝客が後を絶たず山門をくぐっていました)

 

上行寺の創建は1313年、開山は日範聖人、開基は不明です。日範は先日取り上げた妙本寺貫首を務めた日蓮聖人直弟子の日朗聖人門下で、日像、日輪とともに日朗の「九老僧」の一人に数えられ、俊英として名を馳せました。九老僧の中心となったのは日像で、晩年の日蓮からも直接学んだ経験を持ち拠点である関東を出て京都に布教範囲を広げた功績を持ちます。(日範も上洛して日像を助けたといいます。日範は大前阿闍梨の名でも知られます。上行寺の正式名称は法久山大前院上行寺と称しますが、院名の大前は日範に由来します。日範は20年に大往生を遂げました。一説によると当時としては珍しく長寿を保ったといいます赤薔薇なんと123歳!だとすると単純に差し引くと1197年頃の生まれになります。師の日朗どころか日蓮よりもずっと年上っていう驚くべき事実(汗))

 

県道に面して山門が建っています。山門向かって左には「日蓮大聖人弘教霊地 上行寺」と書かれた看板が掛かっています。山門の虹梁には、龍の彫刻が本堂側(境内側)に向かって口をシャッと開けています。彫刻の真下にある表示板によると、こちらは「除災の龍」と呼ばれ左甚五郎作なんだそうです。(災いを取り除いてくれるありがた~い龍ということです。小ぶりではありますが精巧に作られた竜です。左甚五郎かどうかはおいといて・・・。左甚五郎は江戸時代初期に活躍したとされる伝説の名工で、日光東照宮の眠り猫や「見ざる聞かざる言わざる」で有名ですが、実在の人物だったかどうかは謎です。人情に弱く酒におぼれて失敗ばかりだが、いざ仕事となると顔つきが変わって類まれな名品を作り出す・・・というヒーローイメージが講談や浪曲、落語を通じて人々の間に広まったのです。眠り猫や「見ざる聞かざる言わざる」を作った超絶技巧を持つ名匠がいて、その存在が脚色されて誰もが知るレジェンドとなり、それを背景としてあれも甚五郎、これも甚五郎と名品と見れば甚五郎作と伝えられるようになったというのが真相のようです。世に甚五郎作と謳われる名品には、戦国時代から江戸時代末期のものまであるんだとか・・・何百歳まで甚五郎サンを生かせば気が済むのニヤ?っていうカンジですね。上行寺の「除災の龍」が「本物の」甚五郎作かどうかはともかく、味わい深い作品だからこそ甚五郎と結び付けられたということなのでしょう)

 

(山門の看板)

 

(除災の龍)

 

山門をくぐると数メートル先に本堂が建っています。ほんと

「近っ」っていうカンジです。こちらの本堂は1886年に南東400メートル先にある名越松葉ヶ谷妙法寺の法華堂を移築したものです。以前の本堂が火事で焼失したことから、移築とあいなったそうです。本堂には日蓮像、開山日範像、水天像などが安置されています。本堂入口に置かれた賽銭箱の後ろ、お堂のなかに入る扉の手前には箱に入った小さな七福神が並べられています。(表情豊かでバラエティーに富んだ色彩の小さな七福神の像、幸せな気分になります。七福神の向かって右側には「祈祷」「眼病封じ」「良縁」、左側には「福徳円満」「成人病認知症除」と書かれた看板が。右側の眼病封じを左側に移して、左側の福徳円満を右側に移すと内容がスッキリ整理されるような気もしないでもないですが・・・そういう整理術とかノウハウとかステレオタイプで見ちゃいけないお寺でした、上行寺は(汗)。あと「」は私が勝手につけたので、実際の看板はひたすら文字が切れ目なく羅列されていて、縦書きと横書きが思うがまま混ざり合っているので、やっぱり脳の処理が追い付かないけど「いろいろなご利益があるんだなー、スゴイバレエ」ということはわかりました(汗))

 

(本堂。いい建物ですドア

 

(七福神と看板。「徳満成人病」??「福円認知症」??薬

 

それからお堂の扉を見ると、「↑有名な龍(江戸時代後期)」という貼り紙が。↑と言われて↓を向くほどアマノジャクではないので指示されたように↑を見ると、向拝の向かって右側面に立派な龍の木彫りが。ほかにも獅子や鶴などの彫刻が華麗に散りばめられています。ちなみに龍の木彫りは拝むと志望校に合格するんだとか新幹線前(つぎからつぎへと出血大サービスでご利益が登場する上行寺でございます・・・。といいつついろんな貼り紙にしろ看板にしろ全くあざとさが感じられないので、本当に純粋にみんなに幸せになって欲しいという思いからなんだろうなと・・・。そもそも観光協会入ってませんしね。堂内の格天井には美しい花鳥の絵が描かれ、欄間には十二支の彫刻が彫られています。本堂の建物自体は肥後の大名細川氏から寄進されたものなのだとか)

 

(「↑有名な龍(江戸時代後期)」と書いてあるので↑を見てみると・・・もぐもぐ

 

(有名な龍ご登場イエローハーツ


本堂向かって右には、南東に向いてもう一つのお堂が建っています。こちらが薬師堂です。例の看板によると、薬師堂は「鬼子母神堂」、「瘡守稲荷堂」、「千手観音堂」といろんな役割を兼務(?!)しているようです。本堂のほうは扉が閉められていることが多いようですが、薬師堂は「お経中でもご自由にお入りください」と貼り紙がしてあってオープンなカンジです。(なかに入ると正面奥に瘡守稲荷が祀られ、手前には沢山の色とりどりの千羽鶴が天井から吊り下げられています。こちらの瘡守稲荷には、北条政子が夫の源頼朝のおできを治すために熱心に祈願したのだとか。瘡守稲荷と呼ばれる神社は全国にあって、近世まで猛威を振るった天然痘を封じる神さまとして大いに信仰されました雷頼朝が患ったというおできも感染症から来る腫れ物みたいな病気だったんでしょうか。ちなみに上行寺の創建は1313年ですから、頼朝・政子の時代より遥かに後です。このお寺に足を踏み入れた時点でもはや何でもありなのは慣れてるのですが、こちらに限っては(?!)江戸時代に編纂された「新編相模風土記稿」にも正暦年間(990~95)の勧請と伝えられると書いてあり、上行寺が創建されるずっと以前からこの地で信仰されていたようです。瘡守稲荷の向かって左の鬼子母神像は「身がわり鬼子母神」の名でも親しまれ、千人の女性が寄進した黒髪とともに祀られています)

 

(薬師堂)

 

(身がわり鬼子母神ですね。母の字は微妙に直したような跡が・・・節分

 

(こちらは県道に面した外壁です馬

 

瘡守稲荷は癌封じに効があるとされ、家族や友など大切な人のために全国から祈願に訪れる人が絶えないといいます。癌封じを謳うお寺としては、鎌倉でも随一の存在といってもいいのではないでしょうか。まあ↑でも書いたように瘡守稲荷は本来天然痘封じの神さまなので、癌封じは拡大解釈(?!)と言えなくはないんですが、もはやそこは許してあげてショック(ちなみに癌だけでなくあらゆる病気除にもご利益が期待できるのだとか。「そんなにいろいろ期待されてもちょっと困っちゃうなあ」という瘡守稲荷の神さまの声が聞こえなくもないですが・・・。薬師堂でいただける緑色の「悪病封じ」のお守りが人気があるそうです。堂内で住職さまから祈祷を受けることもできます。これから手術を受ける方は病室に持って行くタオルも一緒に祈祷してくださるんだとか。癌は必ず死ぬ病ではなくなったとはいえ、日本人の2人に1人は一生のうちに罹るといわれる病であり死因ナンバーワンでもあります。有名人が癌になったというニュースもしょっちゅう耳にします。自分自身であれ大切な人であれ、もし癌になったら不安にならない人はほとんどいないのではないかと思います。上行寺が癌封じのお寺として信仰を集めているのは、そんな不安を自然に解きほぐしてくれるような優しさが漂っているからかも知れません。もちろん早期発見と治療が最優先ですが、気持ちの持ちようもとても大切なんでしょうね)

 

(薬師堂入口。とりあえず情報量が多いわけです七夕

 

(本堂向かって右隣には、水子地蔵のお堂が建っています星空

 

瘡守稲荷が祀られている祭壇の前には、直径10センチメートルくらいの黒い石が置かれています。これは「薬王経石」と呼ばれ、祈祷の時にこの石で患部をさすってもらうことで痛みがやわらぎ患者に安心がもたらされるといいます。聖なる力を持った石ということですね。全国のお寺に「なで地蔵」とか香炉から患部に煙を浴びせる信仰が残っていますが、それと同じですね。(ちなみに石の名にもある薬王というのは、法華経を守護し人に良薬をもたらしてくださる薬王菩薩のことでしょう。法華経のなかの「薬王菩薩本事品」では、薬王菩薩は前世でみずからの腕を燃やして世界を照らす焼身供養を行ったと書かれています。そして、その灯が尽きた時に薬王菩薩(前世のですが)の命も尽きてしまいます消防車お釈迦さまは薬王菩薩が行った焼身供養はすばらしいものだが、法華経を「一偈でも受持する」(一節でも自分のものとする)ことには到底及ばないとして、法華経の尊さを説きます。法華経のなかに石がどうしたこうしたという話は当然出てこないのですが、日本人が古代からはぐくんできた物に聖なる力が宿ると考える信仰と結び付いたということなんでしょうね。かつては薬王経石の小さな一かけらを自由に持ち帰ることができ、お守りと一緒に大切な人に渡すこともできたそうです)

 

本堂向かって左には墓地が広がっています。こちらはいたって普通の墓地です。看板とか貼り紙はございません(汗)。墓地の入口には大きな墓碑が立っています。こちらは広木松之介を顕彰するために建立された墓碑です。広木は、1860年3月3日に起こった「桜田門外の変」で独裁的な権力をほしいままにしていた大老井伊直弼を襲撃したメンバーの一人です。(襲撃にいたった要因となったのは、将軍の後継争いを巡る派閥対立と58年6月19日の日米修好通商条約調印です。条約調印は孝明天皇の勅許が得られなかったため、幕府の専断で強行されました。これに将軍の後継争いを巡って直弼(南紀派)と対立する尊攘派(一橋派)の大名が激しく怒り、23日に一橋慶喜、24日に慶喜の実父で前水戸藩主の徳川斉昭や尾張藩主の徳川慶勝らが江戸城に押し掛け、勅許を得ない条約調印を非難しました。これに対し直弼は、24日の江戸城登城は定められた日以外の不時登城であったことを理由に斉昭らを処分します。幕府が条約調印を強行したことには孝明天皇も反発し、8月8日幕政改革を促す「戊午の密勅」を水戸藩主徳川慶篤(斉昭の子)に下します。幕府の頭の上を跳び越えて天皇が一藩主に勅を下したこと、そして勅の内容を水戸藩が諸藩に伝えるよう命じられていたことから、幕府は政権転覆の危機を感じ「こいつら、一網打尽にせねばなるまい」と腹をくくります。9月には直弼の意を受けた老中間部詮勝が京都に入り、京都所司代や京都町奉行所を陣頭指揮して一橋派の公卿や諸藩の家臣、蘭学者らの大量逮捕を開始します。ここに世に悪名高い「安政の大獄」がはじまります。水戸藩の関係者では家老安島帯刀をはじめ、公卿の間に出入りして尊攘派になびかせるロビー工作を行っていた京都留守居役の鵜飼吉左衛門、幸吉親子ら20数名が逮捕されます。安政の大獄で大量逮捕した者たちへの第1回判決が下されたのは59年8月。安島帯刀切腹、鵜飼吉左衛門死罪、幸吉獄門。さらに行政処分として前藩主斉昭が永蟄居、藩主慶篤が御差控(江戸城登城禁止)。藩主から家臣にいたるまで諸藩のうちでも最も厳しい処分が下されました。これだけでなく、幕府は水戸藩主慶篤が下された戊午の密勅を朝廷に返納するよう命じたのです。藩内は斉昭・慶篤ら首脳が身動きが取れない状態にあるなかで、「今は幕府に反対できる実力がないんだから密勅を返納して穏便に済ませようよ~おじいちゃん」という鎮派と「いやいや、我が藩が命運を懸けて主張してきたことを妥協するなんてもってのほか!」と返納に反対する激派に分裂します。これが桜田門外の変の直接の引き金になっていくのです)

 

(広木松之介墓碑。「贈正五位 廣木松之助之墓 男爵上村彦之丞謹書」と刻まれています。妙本寺には上村の墓がありますニコ

 

鎮派と激派に分裂するなかで、水戸藩では結局密勅返納という鎮派の方針に沿った決定がなされました。これに抗議した激派は、高橋多一郎や金子孫二郎らが脱藩、浪士となります。このなかに広木松之介の姿もありました。ようやく広木サン登場です。前置きが長くてスミマセン(汗)。激派は薩摩藩をはじめ各地の尊攘派との連携を模索します。(高橋、金子を中心とする激派は薩摩藩の有村雄助、有村次左衛門兄弟らと盟約を結び、水戸藩が「赤鬼」井伊直弼襲撃を断行し、それを見届けて薩摩藩が呼応し3千人が朝廷を守るために挙兵して上京することで合意します。井伊の襲撃計画が決定されたのは1860年3月1日。実行部隊は広木ら水戸浪士17人と薩摩浪士1人(有村次左衛門)でした。2日夜には江戸品川宿の妓楼「土蔵相模」で決起会を開き、翌3日午前9時、大粒の綿雪が激しく降るなか、彦根藩邸から登城するため桜田門に向かう井伊直弼以下の行列に銃声を合図に斬り掛かりました。井伊方は、駕籠に乗った直弼と供の徒士や足軽約60人。実行部隊と防戦する井伊方で斬り合いになり、雪の積もった内堀端は惨憺たる状況を呈します。形勢は実行部隊に有利となり、薩摩浪士有村が乱れた駕籠から井伊を引きずり出し首を獲ります。井伊を討ち取ったことで桜田門外の変はひとまず「成功」に終わります。しかし、成功と引き換えに実行部隊の多くは自らの命を失うこととなります。井伊方との斬り合いで闘死した者、負った傷深く自決した者、捕らえられ、また自訴して処刑された者、現場から遠く逃亡した者・・・。一方、薩摩藩では藩論は挙兵慎重論に傾いて方針転換、挙兵は取り止めとなります。というか藩主島津久光はもともと挙兵して幕府と事を構える気などなかったといわれます。薩摩との連携を信じて行動した水戸激派からすれば「ウソだろーっ、これじゃみんな無駄死にじゃん」と涙目だったに違いありません。広木は生き延び逃亡した一人で、薩摩兵がやって来るはずの京都に向かうも幕府の強固な警備のため途中で断念し能登・越後・越中と転々逃亡生活を送ります。そして鎌倉に辿り着き魚仲買人の家に匿われたのち、上行寺に引き取られ寄食することとなります。しかし、広木がここで知ったのは、ともに井伊を討ち取った仲間たちのほとんどが既にこの世にいなかったことでした。桜田門外の変からちょうど3年目の62年3月3日、広木松之介有良は上行寺の墓地で自決します。まだ25歳の若さでした。自決した当時は死んだことも公にできなかったのでしょうが、わずか5年後には大政奉還が実現し世の中が大きく変わります。1902年には維新の達成に功があったことが認められて正五位を追贈され、16年42世日隆聖人によって墓碑が建立されました。広木が自決した本当の理由はわかりません。桜田門外の変は彼らの計画の片割れでした。残り半分の薩摩藩挙兵が果たされなければ計画は本当に成功とはいえないのです。それは果たされませんでしたが、広木からすればともに井伊を討ち取った仲間が生きてさえいれば、いつか合流してさらなる前進を図ることができると考えていたのでしょうしし座しかしそれも叶わなくなってしまったことを知り、広木にとってこの世は生きる価値のないものになったのかも知れません)