※2年前に旅行した時の記事です。引き続き新型コロナウイルス感染症予防にみんなで努めましょう!(2021年8月8日)

 

泉谷寺は松亀山本覚院泉谷寺と称する浄土宗の寺院です。泉谷寺という名前は、この寺院が開創された室町時代の一帯の地名に因むようです。山号は松亀山ではなく小机山と称することもあります。アクセスはJR横浜線小机駅で下車して徒歩15分です。小机駅南口を東西に走る県道12号線を西に向かい、泉谷寺交差点を左折します。(泉谷寺交差点から泉谷寺の入口となる冠木門までは住宅地のなかを進み、少し分かりづらいです。スマホか紙の地図を確認しながら歩くといいかも知れません鳥ちなみに泉谷寺交差点から南西方向に延びる緩やかな上りの坂道は泉谷寺坂と称し、小机町の南の菅田町に続いています)

 

境内の北東にはシックな真っ黒い冠木門が立っています。冠木門っていつ見てもカッコイイですね。冠木門の外側は普通の住宅地ですが、そこから境内に入ると背の高い杉並木に囲まれた参道が数十メートル先の山門まで続きます。冠木門は森閑とした別世界への入口のようですヒミツ山門のすぐ手前は石段となっています。(実は冠木門の約100メートル手前の住宅地のなかを通る道路に石柱が立っており、ここからが参道の始まりとなります。江戸期にこの石柱から冠木門にかけての参道の左右が美しい桜並木として整備され、「桜の大門」として親しまれました)

 

(右に松亀山、左に泉谷寺と刻まれた石柱)

 

(冠木門。スマートで現代的ですキャップ

 

(参道)

 

(山門)

 

(参道の右側には泉谷寺が経営する小机幼稚園があります。自然が豊かでお子さんにとってもいい環境ですねビックリマーク

 

山門をくぐって正面には鉄筋コンクリート造の本堂があり、本堂向かって左側には観音堂が建っています。観音堂の広さは3間半(約6.4メートル)四方で、1781年に再建されました。境内の伽藍は多くが1970年代以降に建て替えられたので、歴史を伝える貴重な存在です。観音堂には正観音菩薩が安置されています。(正観音菩薩というのは聖観音菩薩の別名です。観音菩薩はさまざまな姿に変化されますが、これら諸観音の根元となる存在が正観音菩薩ということでこの名前で称されるそうですチョコがけハート

 

(本堂)

 

(観音堂)

 

(六地蔵)

 

観音菩薩がいらっしゃるということは、そうです!泉谷寺はこのブログでもたびたび取り上げた旧小机領三十三所子歳観音霊場の一つです!しかも記念すべき巡礼番号初番!興奮して(?)やたらビックリマークが多くなりましたが・・・。観音霊場の開創に当たって泉谷寺は大きな役割を果たしました。(1732年泉谷寺住職転譽が江戸幕府に観音霊場の開創を願い出ました。転譽は都筑郡本郷村にあった法昌寺の僧侶宗運らから観音霊場を開きたいという相談を受け、宗運らとともに小机領内の寺院を訪れ33カ所を選定しました。こうして泉谷寺が初番、法昌寺がトリの33番となりました。願い出が幕府から許可され最初の開帳が行われたのが54年。開創を願い出た32年、開帳が行われた54年といずれも子年であったことからその後子年のたびに開帳されるようになり、民衆の人気を博しました結婚指輪泉谷寺の御詠歌は「ふだらくや ひゃくはちごうのつみとがを いづみがたにであらひきよめて」。人々が幸せを祈って泉谷寺から観音霊場巡りに旅立って行く光景が目に浮かんできます)

 

観音堂の並び、本堂に近い側には鬱蒼とした木々を分ける長い階段が続いています。階段は立入禁止になっていますが、その上には鐘楼が建っています。鐘楼のある辺りを最高地点として、丘向こうには城郷中学校という中学校があります。同じく観音堂の並びの本堂から遠い側には、丘を越える坂道があります。こちらは立入禁止ではありません。(坂道を伝って行くと城郷中学校の西側に出ます。城郷中学校は1947年の開校で、泉谷寺がそのために1万6000平方メートルの敷地を寄付しました。当時泉谷寺の敷地は現在よりも東側にかなり広がっていたということですねひらめき電球

 

(鐘楼に続く階段)

 

泉谷寺は伽藍の南、東、西の三方を丘に囲まれ自然に抱かれた寺院ですが、冠木門から山門にかけての参道と、山門から本堂にかけての庭園ではさまざまな花や木が楽しめます。一番知られているのは梅雨時に咲く紫陽花です。冠木門から続く参道の両脇に紫、青、薄青のカラフルな美しい花が見られます。(秋の紅葉もしっとりとした美しさを競います。山門の周りに数本のモミジとイチョウの巨木があり、見渡す限りの紅葉とまではいきませんが赤や黄のアクセントが秋を彩ります。個人的にはこういう控えめな紅葉が大好きです。人も少ないので穴場かも知れません。これでもかと紅葉が見られる名所もいいなと思いますが、だいたい人でごった返してるのがちょっと・・・NG

 

(庭園に佇む灯籠。竿のひねりがいい・・・ねずみ

 

(こっちの灯籠も笠が張ってていいなあ。なんかおかっぱ頭みたいですが・・・上下矢印

 

泉谷寺の歴史は1321年に遡ります。この年睿定観によって本覚院が開創されました。1523年北条氏綱の家臣二宮織部正が本覚院を現在の敷地に移し、自らを開基とし見誉悦公を開山に招いて泉谷寺を開創しました。泉谷寺の記録では北条氏綱自身を開基としているようです。(二宮織部正についてはどういう人物だったのか詳しく分かりませんが、父の菩提を弔うために泉谷寺を開創したといいます。氏綱、氏政と北条氏歴代より寺領を安堵され保護を受けましたしし座

 

江戸期になると泉谷寺はさらなる発展の時代を迎えます。1642年徳川氏より御朱印地15石を得て、武蔵国を統括する触頭(江戸幕府との連絡調整を担った寺院のこと)の役を任じられます。葵の御紋の使用も許されました。その後火災に遭って一旦衰微しますが、恵頓(1725~85)が20代住職であった81年伽藍が再建されます。(観音堂はこの時再建されたものです。恵頓は増上寺宝松院9代住職忍海に教えを受けた著名な学僧で、詩文集「泉谷瓦礫集」を記したことでも知られます。1809年に江戸の文人大田南畝がそうめん作りを見学するために小机を訪れた際に泉谷寺に立ち寄り、泉谷瓦礫集を借りて書写したという記録が残っているそうですメガネ

 

泉谷寺の本堂には、東海道五十三次で著名な浮世絵師安藤廣重の筆になる山桜図が残されています。これは1834年ころに廣重が泉谷寺に滞在した際に描いたものとされます。山桜図は本堂の高さ1.9メートルの杉戸8枚いっぱいに描かれた板絵著色画です。神奈川県重文に指定されています。(廣重がなぜ泉谷寺に滞在したかというと、廣重が26代住職了信の義兄(実兄ともいわれる)であったからといわれます。了信は34~40年にかけて住職を務めました。廣重が東海道五十三次を保永堂から出版し人気者となったのが33年、36歳の時のこと。泉谷寺に滞在したのがその翌年だとすれば売れっ子になってノリにノッていた時期といえます晴れ広重はその後も「五十三次物」として東海道を描いたシリーズを世に送り出しますが、保永堂版はそのスタートに当たり画の隅々にまで綿密な注意が割かれていて五十三次物の最高傑作とされます。廣重が近くに用事があってついでに立ち寄ったのか、それとも息抜きに親族の顔でも見てみようと思ったのか分かりませんが・・・スゴイです)

 

(山門の手前に山桜図の説明パネルがあります金魚

 

実はこの山桜図、長らく世に知られていませんでした。描かれてから90年以上を経た1928年になって詩人野口米次郎が山桜図を「発見」しました。彼の実兄が増上寺塔頭の住職で、泉谷寺が増上寺末寺であった関係でたまたま泉谷寺の住職から「うちに廣重の画があるよ~」といった話を聞いたそうです。(それで米次郎が専門家と一緒に泉谷寺を訪れたら「なにこれ、本物じゃないかっDASH!」と大騒ぎになり、東京朝日新聞に大々的に報じられることとなりました。山桜図は公開されておらず現在は見ることができませんが、末永く保存するためには仕方ないですね。ちなみに野口米次郎と聞いてもあまりピンときませんが、彼は英文学者でもあり第2次世界大戦前に海外の文芸思潮を日本に紹介するとともに英語で日本文学を世界に発信しました。当時の日本においては極めて貴重な存在だったといえます。そしてアメリカの世界的彫刻家イサム・ノグチの父でもあります。20代の米次郎がアメリカに滞在していた時に、アメリカ人女流作家との間に出来た息子がイサムでした。米次郎は第2次世界大戦中戦争に協力的な態度を示したことから戦後長らくその存在を「封印」され、戦後彼を知る人が少なくなってしまったといわれます)