※2年前に旅行した時の記事です。引き続き新型コロナウイルス感染症予防にみんなで努めましょう!(2021年6月5日)

 

真福寺は真言宗豊山派のお寺で、正式名を養老山真福寺といいます。江田駅西口から国道246を北上し県道13との交差点を右折します。真福寺下交差点の次の曲がり角を右に曲がると山門が見えて来ます。真福寺下交差点で曲がってしまわないよう気を付けてくださいメガネ!駅から徒歩14分くらいで到着です。(早渕川の支流布川を挟んで荏田宿が北側、真福寺が南側に位置します。荏田宿のみどころである常夜燈、庚申塔などからは、布川の橋を渡って徒歩5分くらいで到着します

 

(寺号標)

 

(山門)

 

真福寺の山門に通じる石段下の公道脇には、地蔵堂と庚申塔があります。地蔵堂は木造の素朴な小屋で地蔵3体が祀られています。最も古い地蔵は1762年に造られました。庚申塔は青面金剛像が刻まれたタイプではなく「庚申」の文字が刻まれた文字庚申塔です。こちらは1828年に造られましたカメラ

 

(地蔵堂と庚申塔。庚申塔は荏田上宿に設置されていたものが移されてきました。荏田宿で紹介した下宿の庚申塔と同じく宿の女性たちが建てたのだそうです宝石赤

 

真福寺の本尊は千手観音立像で、本堂に安置されています。木造の仏で頭躯をヒノキの一木から掘り出しており、造られた平安時代末期の特徴を全体に表している仏像です。1966年に神奈川県重文に指定されました。もともとは1面6臂(手が6本)でしたが後に2本付け加えられて8臂になりました美容院千手観音は通常42臂で表されることが多く(といっても「千手」には程遠いですが・・・)、8臂というのはかなり珍しい部類に入ります。(この仏がいらっしゃることから、真福寺は旧小机領33所観音霊場の20番札所となっています。西方寺を紹介した時に旧小机領33所観音霊場のことは紹介しましたが、この霊場巡りは1732年に開創されたのだそうです。旧小机領ってイヤに渋いくくりだなあと思ってましたが、開創が江戸時代なので当時の地名がそのまま残ってるということですね。実際に霊場となっているお寺は横浜、川崎、東京町田と市や都県をまたがって存在しているので、「旧小机領としかいいようがないんだからわかってよっ」っていうことなんでしょうね)

 

本堂向かって左に建つ収蔵庫内には、鎌倉時代にさかのぼるといわれる清涼寺式釈迦如来立像が安置されています。この釈迦如来は木造で、1933年に国宝(現国重文)に指定されました。清涼寺式の名は、京都嵯峨野の清凉寺本尊である釈迦如来を模して造られたことから呼ばれたものです。(清凉寺は源氏物語の主人公光源氏のモデルといわれる源融の山荘を奝年が987年寺としたのが始まりで、高さ18mもの仁王門が有名です。清凉寺の釈迦如来は、天竺の優填王が生前の釈迦の姿を形にした像を造らせたことを淵源とします。その像が中国に伝わり、奈良の唐招提寺を建てた鑑真が像を見て僧になることを志したという程に大きな信仰を集めました。そして中国に留学した奝年がその像を模した像を日本に持ち帰り、清凉寺に安置しました。さらに清凉寺の像を模して造られたのが清涼寺式釈迦如来像で全国に100体近くが存在するといわれ、神奈川には真福寺の像を含め3体が知られていますラブラブ

 

(収蔵庫)

 

(本堂の軒下に釈迦如来と千手観音の説明書きが・・・地面に置かれてるのはデフォルトトイプードル?!)

 

真福寺の清涼寺式釈迦如来立像の姿はどのようなものでしょうか。頭髪の渦巻形と切れ長の眼、引き締まった口元が特徴的です。仏が着ている衣文の線も流麗で、胸をはだけず首元まで衣で覆われています。名は伝わりませんが実力のある仏師がノミを振るった作品で、清涼寺式仏像の中でも清凉寺本尊にかなり忠実に造られたものとされます本(実はこの釈迦如来はもともと真福寺に安置する予定ではなかったのだそうです。鎌倉で造られ北関東のあるお寺に運ぶ途中、この地で仏師が亡くなってしまったことから急遽真福寺に釈迦堂が建てられてそこに安置することになったのだとか。当時の荏田は鎌倉道が通る交通の要衝でもありました。江戸時代初期には大山街道が加わり、荏田には長津田とともに早々と宿駅が設けられます。それにしてももともと像を発注?したお寺は怒らなかったのだろうか・・・)

 

釈迦如来と千手観音は秘仏で、一般公開される時期が決まっています。釈迦如来は、釈迦の誕生日とされる4月8日に行われる「花まつり」とお盆期間中の8月17日に拝顔することができます。千手観音は旧小机領33所観音霊場が子年観音霊場と呼ばれるとおり、12年に一度子年に限った公開となります。(釈迦如来の一般公開にあわせて行われるのが双盤念仏です。これはこの地の念仏講の人たちが昔から継承してきたもので、木枠に掛けられた鉦2個から成る「双盤」という楽器と太鼓を打ち鳴らしながら独特の節回しに合わせて念仏を称えます。双盤や太鼓はかなりの演奏技術の習熟が必要とされます。真福寺の双盤念仏は浄土真宗のお寺である心行寺から継承されたのだそうです指輪

 

真福寺には釈迦如来、千手観音の他に薬師如来、阿弥陀如来の像も安置されています。実はこれらの像はそれぞれ由来が異なります。それは真福寺のたどってきた歴史と関わりがあります。真福寺の現住所には1789年から観音堂が建っていました。観音堂の本尊が千手観音だったのです。(真福寺はもともと300メートルくらい北上した地にありました。旧真福寺がいつ建てられたかはよく分かりませんが、新編武蔵風土記稿には真福寺として記載されているので記事が書かれた1816年には存在していたことになります。真福寺の本尊は薬師如来で、清凉寺式の釈迦如来は境内の釈迦堂に安置されていました。真福寺が鎌倉時代までさかのぼらないとすれば、釈迦如来は別のどこかに安置されていたものが移されてきたことになります。時は下って1921年、真福寺の建物が古くなったことから寺自体が観音堂に移ってきて観音堂が真福寺となりました。建物を建て替えるまでの仮住まいかと思いきや、その後100年(2021年でちょうど100年ですね)現住所に居続けているということになりますゲホゲホちなみに現本堂はかつての観音堂そのもので、観音堂が設けられた当初から存在している歴史ある建物です。最後に阿弥陀如来。こちらは国道246を挟んだ小黒谷にあった無量寺というお寺が廃寺となったことから、その本尊を受け入れたのだそうです。やっぱり一番気になるのは釈迦如来の来歴ですね・・・)

 

(本堂)

 

(本堂に掛かる扁額。空海書だそうです。空海は字の上手な「三筆」の1人ですが、空海の自筆から拝借したんでしょうかねロケット

 

(本堂の建物後ろ側に小さな大黒天の祠がくっついていました。なにこれかわいい王冠1

 

かつて真福寺があった地は荏田上宿の現宿自治会館辺りといわれます。荏田交差点を少し西に行った曲がり角(かつての高札場(現セブンイレブン横浜荏田町店)と荏田交差点の間)を北上した辺りですコンビニそれから釈迦堂はさらに西、高札場から西北に向かう道沿いにありました。(この道は現在では国道246からあざみ野方面に通じる道として重宝されていますが、かつては通称「釈迦道」と呼ばれ難路だったことで知られます。私も歩いてみましたがあざみ野に向かって結構な傾斜のある登り坂でした。釈迦堂のあった辺りは釈迦堂谷という大字で呼ばれていました。釈迦堂公園という街区公園にその名が残っています)

 

観音堂が旧小机領33所観音霊場の札所となったことで、荏田宿の住民だけでなく近在の人たちも多く参拝に訪れるようになりました。真福寺には当時の奉納絵馬が残されています。その数179点に及び、年号が分かる最古の絵馬は1800年にさかのぼります。これらの絵馬は大絵馬と小絵馬に分けられます。(大小の違いはサイズの違いです。現在も私たちは神社やお寺で絵馬に祈願する内容を書きます。家族の健康や受験の成功を祈るものから「宝くじ1億円当たりますように」とか欲望丸出しのものまでさまざまですが虹(笑)当時の人も切実な願いを込めて絵馬を奉納しました。小絵馬は115点が残され、人が仏さまに向かって拝礼する様子が絵で表された拝み絵馬など現在の絵馬と同じくさまざまな絵が描かれています。真福寺の本堂には大絵馬をメインとして74点が掲げられ、残りは横浜歴史博物館で保管・展示されています)

 

先述した地蔵堂と庚申塔以外にも、真福寺では魅力的な石碑や石像に出会うことができます。石段を登った山門脇に佇む2体の仁王像。1682年造。舟形の石に浮き彫りされています。仁王像といえばこれまで自立する像しかみたことがなかったので、新鮮で感動しました。(それから時代がかなり下る1910年に造られた角柱神名碑。本堂向かって左にあり、小さな角柱に神の名が彫られています。その名は「咳大明神」。「おしゃもじさま」の別名でも知られます。長野、関東、東海を中心に広く信仰を集め風邪や百日咳など咳病に苦しむ人がお参りし、よくなったお礼にしゃもじを奉納しました。咳としゃもじって何の関係?!と思ってしまいますが、この神さまは漢字で石居神、社宮社、赤口神などと書かれ「じゃごじ、しゃぐうしゃ、しゃっくしん」のような感じで発音されました。で発音が似てるんで「しゃもじ」おにぎりコロナ感染症が流行している現在はいつにもまして大事な神さまですね)

 

(仁王像。吽形です。お顔の彫りが素晴らしいウインク

 

(角柱神名碑。右前の缶カラにしゃもじを立てるようですイヒ

 

(こちらは石柱の上に大日如来が鎮座している像。1802年造。旧小机領33所観音霊場であることを表すものだそうです地球

 

(山門の後ろにまっすぐに聳えるカヤの大木。樹齢410年に達し横浜市名木古木に指定されています晴れ