※2年前に旅行した時の記事です。引き続き新型コロナウイルス感染症予防にみんなで努めましょう!(2021年5月29日)

 

東急田園都市線江田駅から国道246号線に沿って北上すること約5分、旧大山街道と交わる荏田交差点に到着します。この辺りにはかつて大山街道の宿場荏田宿がありました。荏田宿は、大山街道に沿って西から東に上宿、中宿、下宿の名前で呼ばれていました。下宿の先には北から南東に向かって早渕川が流れています。国道246号線が通るのは上宿と中宿の間です。大山街道は東京の江戸城赤坂御門を起点に神奈川北部を通り静岡の富士山麓まで続く街道で、名前のとおり街道沿いにある大山まいりの巡礼者に盛んに利用されましたルンルン(ちなみに西が「上」宿で東が「下」宿です。今ではJRは東京を起点として東京から遠ざかる電車は下り電車、近付く電車は上り電車と呼ばれますが、江戸時代は逆だったの?!結論はイエスです。天子様が住まわれる京都から遠ざかるのが下り、近付くのが上りと呼ばれました。今でも関西のことを上方と呼んだりするのは、東京から見て上り方面にあったからです。上方の美味しい酒が江戸に入荷されないことを「下らない」=「つまらない、面白くない」の語源になったといわれます)

 

荏田宿は江戸から7里(約27キロ)、足がそれほど速くない旅行者であれば朝出発してちょうどこの辺りで日が暮れる時間、1泊目の宿場となる距離にありました。そうしたことから荏田宿では旅籠など多くの商店が営まれました。1863年頃には35軒の商店があったそうです。(そのうち旅籠は4軒、その他足袋屋、提灯屋、馬商など旅行に欠かせない物資を取り扱う商店から、油商、豆腐屋、髪結など宿場に暮らす住民が日々頼りにする商店までさまざまな店が軒を連ねていましたクラッカー

 

(この案内看板には江戸末期に軒を連ねていた商店が詳しく記載されています。荏田宿保存会の方々が立てられたそうです。とてもわかりやすいですアップ

 

江戸時代の荏田宿の繁栄を偲ぶ文化財が「まねき看板」です。まねき看板というのは名前のとおり客をまねくための宣伝用の看板のことで、江戸時代に歌舞伎などの演劇に出演する役者の名前を独特な筆太の華やかな字体(勘亭流)で書いて劇場の前に掲げたのがはじまりのようです。(開設から400年の歴史を誇り歌舞伎の演芸場として有名な京都の南座では、今でも年の瀬の「吉例顔見世興行」の際に出演する役者の名前が書かれたヒノキ造りのまねき看板が玄関上にずらりと並べられます。これを「まねき上げ」といい、京都の冬の風物詩といわれます。ちなみに勘亭流は文字を内側に曲がるように書きますが、これは客を内に呼び込むという縁起担ぎなのだとかヒヨコ

 

荏田宿にまねき看板が残っているってことは歌舞伎役者が大勢泊ってた?!というわけではなくて、大山まいりや富士まいりの道中の大山講や富士講の巡礼者が、定宿としていた旅籠に滞在している間に自らの講の「専用まねき看板」を宿に掲げました。これらのまねき看板には講印と講の名前が刻まれています。字体もシンプルなものから歌舞伎顔負けのクセの強いものまでさまざまな種類があって面白いです将棋(それぞれの講があつらえ、定宿とした各宿場の旅籠で保管してもらっていたようです。歌舞伎のまねき看板とは趣旨が違うようですが、歌舞伎をまねて(?!・・・)どこかの講が掲げ始めたのが流行したんでしょうね。旅籠にとっても宣伝になったのは間違いないでしょう。1980年代に柏屋旅館の古い蔵から42枚ものまねき看板が発見されました。柏屋旅館は荏田交差点の辺りに位置していました。これらのまねき看板は今横浜歴史博物館で所蔵され、見学することができます。江戸庶民の信仰に支えられレクリエーションの一つにすらなっていた大山まいり、富士まいりの盛況ぶりと柏屋旅館の愛されぶりがわかる文化財です)

 

下宿の先、早渕川に架かる鍛冶橋近くには庚申塔を祀るきれいな祠が立っています。荏田宿の東の端に当たります。祠は新しくてきれいですが中に祀られた庚申塔は江戸時代の1793年にさかのぼり、下宿に住む女の人達が協力して建立したものです。旅行者の道標としても用いられていたようです。(今立っている祠は1996年下宿庚申講の方々が建立されたそうです。庚申信仰の風習自体は全国で完全にすたれてしまいましたが、今も庚申講が存続されているのが本当にスゴイです。荏田宿に昔から根を下ろしてきた家々の方々の伝統を守る思いの強さに感服します口紅

 

(庚申塔の祠)

 

(中に祀られた庚申様。新築のお家はいかがでしょうか目??)

 

(庚申塔の近くを流れる早渕川の支流布川。早渕川との合流地点はすぐ先です。早渕川の支流の中で暗渠になっていない数少ない川です演劇

 

上宿側をみてみましょう。国道246号線を西に向かうと上宿に入ります。その先の交差点は旧高札場でした。ここで大山街道は左折し南に方向を変えます。ここら辺で荏田宿が終わります。その先は国道246号線という大動脈が間近を走るにもかかわらず、旧道の面影をよく残した風景に会うことができます。(この辺りを小黒谷といいます。1742年に建立された小さな庚申塔が草木の中に立っていて風情を感じますチューリップピンクもう少し進むと地蔵堂があり、江戸時代中期に建立された3体のお地蔵様と道標が立っています。小黒谷は「こくろやと」と読みます。横浜北部に多いいわゆる谷戸地形です。小黒の名前は、大山街道の西にそびえる丘陵に鎌倉時代あったとされる荏田城に関係があります。荏田城の城主が源義経配下の武将で、義経から名馬「小黒」を賜ったことに由来するのだとか。荏田城にはもう少し詳しく触れたいんですが、また今度どこかで(笑))

 

荏田宿に有名人が泊まった記録があります。江戸時代鎖国下にあって開国の重要性を主張し、画家としても知られる渡辺崋山。崋山は1831年大山街道を旅し荏田宿にも1泊しました。この時の旅の様子を崋山自ら記した紀行文が「游相日記」です。この旅の目的は田原藩(愛知)家老でもあった崋山が、藩主の側室だった女性の消息を訪ねることでしたスポーツ(この女性「お銀様」は藩主三宅康友の側室でしたが、藩主の元を退き綾瀬(神奈川)の貧しい実家に戻っていました。お銀様と崋山の再会は実に25年ぶり、お互い過ぎた日々に思いを馳せ涙を拭いながら語り合いました。お銀様の墓所は今も綾瀬に残っています。その往路崋山は荏田宿の旅籠「枡屋」に泊まりました。枡屋で崋山は大山に近い山間の愛川から来た孫兵衛という人物と会います。孫兵衛は崋山に、愛川や厚木一帯を領地としていた烏山藩(栃木)の苛酷な支配について語ったようです。藩政に携わる崋山ならではの関心があったのでしょう、游相日記にはその2日後厚木宿に泊まった崋山が烏山藩の支配について地元の人物から取材したことが書かれています)

 

荏田交差点から荏田宿に一歩踏み入ると風景が一変し、車がひっきりなしに往来する大動脈から変哲のない郊外の住宅街となります。ここが昔の宿場?!とちょっと拍子抜けします(汗)交差点を右に曲がってすぐ左の民家のお庭に、高さ230センチの常夜燈と説明板が立っています。(一番下の基礎に「中宿」、竿に「常夜燈」、中台(竿と火袋に挟まれた台状の部位)に「秋葉山」と刻まれています。装飾はシンプルですが、笠がとても立派なのと竿が中細りに仕上げられているのが目を惹きますワンピース1861年に荏田宿中や他宿からの寄付により建立されました)

 

(常夜燈)

 

(中宿の文字。この辺りが荏田宿の中程に当たります黄色い花

 

常夜燈に刻まれた秋葉山という文字、これは秋葉大権現を表します。江戸時代の町は木造家屋が密集していたため火災が大変多く、火伏せに霊験あらたかといわれた秋葉大権現が大いに信仰されました。荏田宿も1821年と94年に2度の火災に見舞われています。人々の火災に対する恐怖心は全く今の比ではなかったでしょう。(94年の火災では古い街道筋の家々が焼失してしまいました。明治時代に入り既に宿場として繁栄した時代は過去のものとなっていました。住民の日々利用する商店はその後復興、存続したのでしょうが、それも今ではほとんどなくなってしまいました。今荏田宿の繁栄の面影を物語るものは庚申塔、常夜燈、まねき看板くらいでしょうか。それから道路。道幅が江戸時代のままだそうです走る人個人的にはこういう風にわずかに残る痕跡から昔を偲ぶ旅も好きです。むしろそういう方が好きだったりします(笑))

 

(フツー過ぎる・・・ここをたくさんの巡礼者が行き交っていたんですね・・・ドア

 

(左の建物は昔蔵だったんでしょうかね夜の街あと車多いです(汗))