※2年前に旅行した時の記事です。引き続き新型コロナウイルス感染症予防(手洗い、「三密」回避など)にみんなで努めましょう!(2021年4月12日)

 

東光院は正式名称を「岡上山東光院宝積寺」といいます。もともとは真言宗に属していましたが、現在はどこの宗派にも属さない単立のお寺となっています。小田急線鶴川駅から線路の南側を流れる鶴見川に架かる宝殿橋を渡り、神奈川県道139号真光寺長津田線に合流してすぐの交差点を左折します。鶴川駅から徒歩約10分です。(東光院という名称の由来は本堂や山門が東側を向いているからです。これは武士が鎌倉に早駆けするための道である「鎌倉道」に面して配置したからといわれ、珍しい例だそうです。本堂が東側を正面とするということは、信者は西に向かって参拝することになります。西方の浄土にいらっしゃる阿弥陀如来を祀る阿弥陀堂は東向きに配置されることがあるようです。東光院がもともと属していた真言宗では、遥か西方の遠い遠いところにある浄土ではなく大日如来の「密厳浄土」、そしてその一部とされる弥勒菩薩の「弥勒浄土」への往生を説きます。この密厳浄土は、東西南北いずれかの方向に行けばあるというわけではなくて信者ひとりひとりの心の中に現れるものだとか。なのでお堂の向きは関係ないよ、っていうことなんでしょうねもみじ

 

(寺号標)

 

東光院の境内は木々であふれ、身体の中にマイナスイオンをいっぱい充填することができます。境内東側の公道との境には青々とした生垣が設けられ、本堂向かって右(北側)は整った庭になっています。庭にはきれいに剪定されたツツジなどの植木が小道の両側に所狭しと並び、季節になると花々が可憐な姿を見せてくれますニコニコ

 

境内に育つ木々のなかでは、イトヒバ、イチョウ、カキノキが川崎市「まちの樹50選」に指定されています。イトヒバはヒヨクヒバとも呼ばれ枝先が下に垂れるのが特徴です。10数メートルの高さまで育つことがあり、東光院のイトヒバも他に抜きん出て幹を伸ばした立ち姿が印象的ですリボン(このイトヒバ、源義経が頼朝の追討を受けていた時に植えられたのだとか。義経がともに逃げて来た弁慶やお付の武士たちと別れて身を隠そうということになり、目印として植えたのだそうです。新たに植えたんですね、すでにある高木を目印にすればいいのに!?とも思いますが・・・伝説にケチを付けちゃあいけませんね、スイマセン(汗))

 

参拝客がお寺を訪問する時は山門から入らせていただくのが通例ですが、東光院では山門に通ずる参道の入り口に木の柵が置かれています。脇からすり抜ければいいじゃん!?という方、それも無理です!幅が参道の端から端まである長い柵で完全にシャットアウトされてるんです・・・。(じゃあ入っちゃいけないの?というとそういうわけではないようで、道路を少し北上すると横から境内に入れる所があります。東光院は現在お寺としての正式な活動は停止していて、境内の見学だけが可能なようです。理由はわかりませんが住職さまがご高齢で活動が難しいということなんでしょうかメモ??)

 

(柵が・・・ハロウィン

 

(こっちからお邪魔させていただきます・・・クローバー

 

山門は江戸時代の18世紀に建てられ2階建て構造となっています。正面左右には朱の仁王像がすごい形相で睨みをきかせています。本堂に面した背面には左右3体ずつ六地蔵が安置されています。仁王像の厳めしいお顔を見て緊張した後で六地蔵の慈悲あふれるお顔を見て心癒される・・・ちょっと面白い趣向ですねお母さん(現在は山門正面から入れないので、逆に六地蔵を見てから仁王像にお会いする順番になっちゃってますが・・・。2階は非公開ですが阿弥陀三尊や閻魔大王が安置されています。山門の奥にはこちらも18世紀に建てられた本堂が建ちます。かなり大きな本堂で川崎市内で最大規模を誇るのだとか)

 

(六地蔵。敬虔な気持ちになりますダイヤ

 

(の直後の仁王像キター!!

 

(山門)

 

(本堂)

 

東光院本堂には秘仏とされる木造兜跋毘沙門天立像が安置されています。平安時代後半の作とされ、鎧に身を固め左手に宝塔、右手に戟(槍に似ている武器で悪を倒すために持つ)を持つ荒々しい姿をしています。毘沙門天は大地を統べる神様である地天女の上にしっかと載っています。(地天女は毘沙門天を地中から召喚したとされる神様ですベル兜跋毘沙門天は国家守護の役割を担っていて、日本では平安時代に多く造られたといいます。地天女に支えられて外敵や災害など国家に降りかかる苦難から守ってくれるということなんですね。一方で地天女は大地を震わせる地震の象徴という見方もあるようです。もし東光院の兜跋毘沙門天立像が造られた当初からこの地域にあったものだとしたら、平安時代の武蔵は度々大地震に苦しめられたことと考え合わせると地震封じの願いも込められていたのかも??)

 

東光院の創建の歴史はよくわかっていませんが、ある伝説が伝えられています。それは45代聖武天皇の時代のこと、東国を訪れた行基が武蔵を巡行していました。鶴見川の川岸を歩いていた行基はふと地面が光っているのを見付けました。不思議に思って従者にそこを掘り返させると地中から毘沙門天の像が出て来ました。(行基はこの像を祀るために草庵を建てました。これが東光院のはじまりだといいます。毘沙門天は上述のように地天女が地中から召喚したといわれます。地中から出て来るのは毘沙門天の登場シーンとしてはピッタリですねドンッ行基は空海と並んで伝説業界(?)では「お馴染みさん」ですので、この伝説の信憑性はひとまず置いておかなくてはなりません。江戸時代に編纂された「新編武蔵風土記稿」には、天正年間(1573~92年)の時点で東光院が住職11代の歴史を持っていたと記されています。これが本当だとすれば住職1代20年と計算すれば200年強、30年と計算すれば300年強です。鎌倉時代から室町時代にかけての創建と見るのが妥当なんでしょうか)

 

境内西側のこんもりと木々が茂った丘の頂上に、「蚕影山跡」と刻まれた石柱が立っています。これはかつてここに「蚕影山祠堂」という祠が建っていたことを表すものです。「かいこのかげやま」??じゃなく「こかげさんしどう」と読みます。この祠、現在は川崎市立日本民家園に移設されています。(蚕影山祠堂には養蚕の神様「蚕影山大権現」が祀られています。蚕影山大権現は、金色姫を中心に富士山と筑波山の両神を脇として表されます。金色姫(英語だとゴールデン・プリンセス??)は天竺の王女様でした。日本では21代雄略天皇の時代に当たるといいます。金色姫は大王の後妻となった妃に憎まれ何度も殺されかけましたが、その都度命拾いしていました。その数4度に及びました。「このまま一緒に住んでも不幸せなだけだ」と姫の行く末を憐れんだ大王は桑で作ったうつぼ舟に乗せて姫を海に流しました。半月漂流した舟は遠く見知らぬ土地の浜に着きました。ここが日本の常州(茨城県)であったといいます。そこで姫は漁師の権太夫に拾われ育てられました。金色姫はすぐ亡くなってしまいますが、その口から蚕の虫がぞろぞろ出てきました。ある夜権太夫の夢枕に立った姫は、権太夫に蚕を育てて糸を吐かせる養蚕の知識を教えてあげました本命チョコこれが日本の養蚕のはじまりなんだとか。ちなみにうつぼ舟の材料となった桑は蚕の餌、金色姫が殺されかけた回数である4という数字は蚕が脱皮する前に餌をとらずに動かなくなる休眠現象の回数を表しています。ていうことは、嫌な言い方をすれば日本に養蚕が伝わったのはあの悪い後妻のおかげってこと?!)

 

(蚕影山跡の石柱)

 

蚕影山祠堂は本殿である宮殿とそれを覆う覆殿から構成されます。宮殿は高さ2.2メートルで、棟札によると1863年に建てられました。向拝(正面に設けられ身舎から前に突き出した部分)には、曲線が美しい軒唐破風が付いています。覆殿は65年頃に建てられ、小さくも屋根の茅葺が立派な建物です。(宮殿の両側面には、金色姫が天竺で大王の後妻から4度苦難を味わった物語の場面が彫刻されています。川崎市立日本民家園は、全国各地でそれぞれの風土に合わせて造られた古民家などの貴重な建物約20軒を移設した野外博物館です。最寄り駅は小田急線向ヶ丘遊園駅で東光院から少し離れていますが、一緒に訪れれば理解が深まるはずですチューリップオレンジ蚕影山祠堂は古民家ではありませんが、戦前までほとんどの家が養蚕にたずさわり桑畑が広がっていたという岡上地域の歴史を偲ばせるに十分な建物といえます。私はスケジュールの都合で民家園には行けませんでした、ほんとに残念・・・)

 

東光院に面して走っていた鎌倉道は「早ノ道」と呼ばれていました。早ノ道は鎌倉に向かう近道で、幹線道路であった上ノ道と中ノ道を結ぶ連絡道として使われました。1333年鎌倉幕府打倒に邁進する新田義貞の軍勢の一部が早ノ道を使い、鎌倉に一番乗りしたことから名付けられたといいます。(鎌倉幕府の関所が置かれた関戸(現在の東京都多摩市)で義貞軍と幕府軍が衝突した「関戸の戦い」に大勝利した義貞の軍勢は20万もの大軍をもって鎌倉に押し寄せ、幕府にとどめを刺しました。その時に使われたのが鎌倉道であって、幕府を助けるために御家人が使うための鎌倉道が敵の活躍を助長してしまったというなんとも皮肉な結果に・・・。早ノ道の正確なコースはわかっていませんが、上ノ道の拠点の1つである府中市から多摩市に南下し町田市、神奈川県に入って岡上のある川崎市麻生区を通過し横浜市緑区青砥町(横浜線中山駅の近く)で中ノ道と合流したようです。大まかに言えば、西から東に上ノ道、中ノ道、下ノ道が鎌倉に向かって南下していました。その間を縫って走っていた早ノ道。その名称からして、他の鎌倉道と比較しても早駆けが容易な直線道路が多かったのではともいわれますくつ

 

(瘡守稲荷。稲荷の祭日である初午(節分後迎える最初の午の日)には、かつては村人が集って夜通し火を焚いて祭礼を行い賑わったそうですダルマ