※2年前に旅行した時の記事です。引き続き新型コロナウイルス感染症予防(手洗い、「三密」回避など)にみんなで努めましょう!(2021年2月11日)

 

石戸城跡は荒川左岸に沿って北に延びる舌状台地上に位置します。城跡の西、荒川との間には天神下公園があり、広い駐車場も設けられているので車で訪問すると便利です。城跡は埼玉県選定重要遺跡となっていますが、「桜堤通り」と呼ばれる割合交通量のある道が城跡の西寄りを南北に貫通しており、城跡が分断されてしまっています。(桜堤通りは「城ヶ谷堤」と呼ばれる堤を利用した道です。城ヶ谷堤は江戸時代に荒川の水害を防ぐために設けられたもので、石戸城が活躍した戦国時代より後世の構築物です。太平洋戦争中の1943年に全面改修、戦後に地元の方が桜を植えたことから桜堤と呼ばれるようになり季節になると桜のトンネルが人々の眼を楽しませてくれます馬

 

(桜堤通り。堤の上なので道の外側との高低差がかなりありますトラック

 

(桜堤通りには菜の花も植えられていて、桜と同じ季節に鮮やかに黄色い花を咲き誇る姿が見られますヒヨコ

 

(桜堤通りに立っていた「どうぶつちゅうい」の看板。ウサギも暮らしてるんですね照れ

 

(タヌキも!月見

 

石戸城跡の広さは東西百五十メートル、南北二百メートルありますが、今では民家の敷地や雑木林になっている部分も多く曲輪などの遺構がわかりづらくなっています。全部で五つの曲輪があったようです。一の曲輪は東西二十メートル、南北三十メートルの広さで荒川に近い北西に設けられました。一の曲輪の南東隅には櫓台がありました。(一の曲輪の東が二の曲輪、一の曲輪と二の曲輪の南が三の曲輪、三の曲輪の南西に四の曲輪、五の曲輪がありました。一の曲輪、二の曲輪、三の曲輪を隔てる堀(地元で「オオタニ」と呼ばれる)と三の曲輪の南、つまり外部とを隔てる堀はかなり大規模なものだったようですうさぎクッキー

 

(城跡の南西から望む。こんもりした雑木林はたぶん三の曲輪だと思いますカメラ

 

石戸城は、今から560年ほど前の長禄年間(1457~60)に扇谷上杉氏が築城したとされます。1525年には扇谷上杉氏に従っていた岩付城(さいたま市岩槻区)主太田資頼が家臣渋江三郎に城を乗っ取られ、行き場を失った資頼が支城の石戸城に逃れる出来事がありました。これは城を攻めていた北条氏綱が渋江を内応させたからだといわれます。(資頼は道灌の孫で扇谷上杉氏の重臣として足立郡から騎西郡南部を支配下に置いていました。虎視眈々と岩付城奪還を狙っていた資頼は31年岩付城を攻め再び城主に返り咲きます。まあ渋江に岩付城が乗っ取られたといっても実際にはその前年24年にもともと渋江が守っていた岩付城を奪取したのは資頼なのですが・・・。しかも北条氏に内応して・・・。こういう裏切りの連鎖って「戦国時代あるある」ですねモグラ

 

石戸城跡で有名、かつ今も残る遺構に「一夜堤」があります。西の城跡と東の台地を隔てる沼地に築かれた堤、というか土橋です。1562年北条氏邦は氏政の命を受け上杉謙信の支配下にあった石戸城を攻めます。ただ石戸城は北、東が舌状台地と低地の境目、西が荒川、南が大規模な堀に囲まれており、城主の毛利丹後守の堅守とあわせて攻める氏邦勢をはばんでいました。(そこで氏邦は一夜にして沼地を東西に横切る堤を築き、たちまちにして城内に入り勝利を果たしたといわれますナゾの人これが一夜堤という名の由来です。一夜堤は二の曲輪の東に築かれ長さ四十五メートル、幅五メートルありました。氏邦は謙信自身が救援に近付いていることを知り「ヤバいヤバい」とにかく急いで攻めたかったようです。沼地の浅そうなところを選んで人海戦術で土を運んで投げ入れたんでしょうけど、たった一夜でできるものなんでしょうか??一夜でできないと城主にばれちゃいますしね。理に適っていながら力ずくのすごい戦術だなと思いますが・・・。氏邦は後に荒川の水害を防ぐための熊谷堤を築くなど土木工事に功績もあるんで、得意だったんでしょうねレンチ真偽はわかりませんがとても面白いエピソードです)

 

(沼地。向かいに見えるのが氏邦が陣を張った台地ですかね紅葉

 

(まっすぐ進む道が一夜堤です。説明板も立っています本

 

(一夜堤の上から沼地を望む。堤を築いた兵士たち、泥まみれで大変だったでしょうね、しかも真夜中・・・びっくり

 

1563年北条氏康は上杉氏の支配下にあった松山城(吉見町)を攻めます。城を守っていた上杉憲勝は籠城して戦い抜く覚悟を見せますが、甲相駿三国同盟によって武田信玄軍が北条氏康に加勢すると、さすがに「ムリムリ、たまらん」となって憲勝は開城してしまいます。この時上杉謙信は越後から救援に向かう途中でした。(ちょうど石戸城に入った時だったといわれます。石戸城から見れば松山城は目と鼻の先みたいなものです。「憲勝、お前もうちょっと耐えろよこの野郎」と憲勝の不甲斐なさに激怒した謙信は腹いせに憲勝の子を斬殺し、越後に帰る道すがら小田助三郎家時の守る騎西城(加須市)、小田頼興の守る鐘撞山城(加須市)を攻め落城させます。これらの城は上杉氏から離反した忍城(行田市)主成田長泰に従っていました。謙信としては有り余る怒りの矛先を向ける格好の相手だったんでしょうね。小田サンってば可哀想すぎる・・・傘鐘撞山城と呼ばれるのも、急に謙信に攻められたため焦った城兵が鐘を打ち鳴らして近くの騎西城に救援を求めたためなんだとか。謙信以外は全ての人が「急」だと思ったでしょうね・・・。騎西城も謙信勢に攻められている最中だったため助けるどころではなく、あえなく共倒れになってしまいました。ちなみに憲勝は扇谷上杉氏の末流に当たり東北地方で流浪生活を送っていたようですが、「河越城の戦い」で扇谷上杉氏の嫡流朝定が戦死したため跡継ぎに据えられました)

 

石戸城の重要性はどこにあったのでしょうか?それはその位置です。石戸城の東には岩付城、荒川を渡ると西には松山城、南西には河越城といった拠点となる城がありました。石戸城はこれらの城の中間地点に位置し連絡用の城として役割を果たしましたラブレター扇谷上杉氏、北条氏、上杉氏と従う主君を変えつつ、岩付城を拠点として一帯に地盤を持っていた太田氏にとっては特に重要な城でした。(石戸城からこれらの城には道が通り、さらに荒川左岸を南北に進むかつての鎌倉街道も石戸城付近を通っていました。東西南北を結ぶ交通の要衝であったわけです。これらの城が攻防の最前線となったのは、北条氏が江戸城を手に入れて北に向かって支配を広げ始めた1520年代から、松山城が北条氏に降り反北条氏の急先鋒で武将としての名声高い太田資正が親北条氏の嫡男氏資によって岩付城を追われる60年代までです。大まかにいうと北条氏の地盤の北への拡大とそれを懸命にはばむ太田氏、という構図です。この期間これらの城の支配者はコロコロ変わりました。いずれにせよ関東平野の中央部を仕切った太田氏の存在によって北条氏の北上が遅れたのは間違いないといえます)

 

石戸城を持ち城として確保した北条氏は、その後関東地方における地盤を着々と固めていきますボクシングただ、数十年という長い間攻防の最前線にあった石戸城には平穏が訪れるとともに一気に重要性を失います。そして江戸時代初めに廃城となりました。江戸時代には鴻巣市から上尾市の西部を藩領とする石戸藩が設けられ、牧野信成を初代として牧野氏が支配しました。城ヶ谷堤が設けられたのもこの時代です。ただ、牧野氏の本陣はここではなく桶川市川田谷に置かれました。

 

石戸城跡の一部は今自然観察公園の敷地となっています。城跡の多くが民家の敷地となっていて入ることができませんので、自然観察公園の中に設けられた自然遊歩道を散策しながら当時の城の情景を思い浮かべることになります。自然遊歩道の一部は二の曲輪の外側(東の沼地との境目)を縫うように走っており、二の曲輪の高台(舌状台地)との高低差を感じることができます。(自然観察公園は三十三ヘクタール(東京ドーム七個分)の広さを持ち、野生生物が多く暮らしています。特にヘイケボタルは夏の夜乱舞する姿が見られ、スタッフの方の説明を聞きながらホタルを楽しむイベントもあるようです。自然遊歩道は一周二キロほど、ゆっくり散策しながら一時間ほどで回れます。私は二年前の真夏に訪れましたが自然が豊か=虫がやたらと多いので(私含め)虫嫌いの方は十分ご注意ください・・・ゲロー

 

(自然遊歩道の入口。私は自然観察公園の一番西にある桜堤通り沿いの入口から入りましたが、入口は他にもいくつかありますグラサン

 

(こちらの入口は「一夜堤口」というそうです虹

 

(自然遊歩道には木道も設けられているので歩きやすいです地球

 

(左側が二の曲輪です。なんかスズメバチが多いみたいで「スズメバチくん現れないでねぇ」と祈りながら急ぎ足で歩きました・・・。散策どころじゃなかった記憶がとかげゆっくり散策するなら春か秋の終わりがいいのかなと)