※2年前に旅行した時の記事です。引き続き新型コロナウイルス感染症予防(手洗い、「三密」回避など)にみんなで努めましょう!(2021年2月1日)

 

北本市南西部、荒川に沿った石戸宿にある時宗寺院の東光寺はサクラの名所としてとても有名です。境内の一画(というか完全にメインポジションに鎮座してるんですが・・・)には、「石戸蒲ザクラ」と呼ばれる名木が立派に枝と根を張りめぐらせています。石戸蒲ザクラは樹齢800年、樹高12.1m、東西の枝張り20.5mを誇り、国天然記念物に指定されています。他にもソメイヨシノ6本が植えられ、例年4月になると普段静かな境内は花と人でにぎわいますぶちゅー

 

石戸蒲ザクラはヤマザクラとエドヒガンの自然雑種です。この2種の自然雑種は全国、というか世界を探してもこのサクラでとても貴重なのだとか演劇植物学上でも「カバザクラ」という独自の種名が与えられています。花弁は5枚、白く小さな花を咲かせます。市内の学校などには石戸蒲ザクラをクローン栽培した木が植えられています。(エドヒガンは全国に自生するサクラのうちで最も長寿で、樹齢が1000年を超えることも多いといわれます。石戸蒲ザクラもエドヒガンのご長寿遺伝子を受け継いでいるようです)

 

そんな長寿のエドヒガンの遺伝子を受け継いでいるとはいえ石戸蒲ザクラももう800歳のご老体、第2次大戦後は樹勢が大きく衰え花を咲かせることも少なくなりました。もともとは4本の大きな幹から成っていましたが、台風で折れたり枯れてしまったりで1973年には1本だけに。この頃から北本市を中心に最新の技術を採り入れた地道な保護事業が始まりました。(サクラにとって負担となっていたと思われる石垣や板石塔婆(後述)の撤去、防腐剤の塗布、殺菌処理などといった外科的な処置とあわせて、栄養の素になる土壌自体も改良しまさに至れり尽くせりで面倒を見てきました。老木も関係者の熱意を感じてか、現在では毎年花を咲かせてくれるようになりましたひまわりただ面倒を見過ぎるとサクラがそれに「頼って」しまうらしく、時間を空けながら頃合いを見て処置しているんだとか。ちなみに70年代半ばには根ぎわから新たな幹が生まれ2本になりました)

 

(左が新たな幹です。枝葉の広がりがとてもカッコイイですくまアイス

 

(支えが何本も立てられています。こういう支えも含めて絵になりますねふたご座

 

石戸蒲ザクラの名は、源頼朝の弟で遠江の蒲という地で育ったことから「蒲冠者」の異名で呼ばれた範頼に由来します。範頼は頼朝が挙兵すると義経とともに平氏討伐に功を挙げましたが、1193年曽我兄弟の仇討ちが起こった時に謀叛の意志を持っているとして伊豆修善寺に幽閉されます。頼朝討ち死にという誤った報せを受けた時の範頼の言動が問題になったとされます。(頼朝の妻北条政子が頼朝が死んだと思って悲しんでいると、範頼が「私がいる限り安心してください」と声を掛けました。それが「範頼は幕府を乗っ取ろうとしている、けしからん!」と実は生きていた頼朝が激怒したんだそうで・・・王冠2頼朝って小さい男だなと思ってしまいますが、過去に頼朝から義経を討つよう持ち掛けられた範頼は「兄さんを殺すなんてそんなこと自分にはできません」といって断っていました。範頼はそのような優しさを持つ反面、私闘を好む荒々しい性格もあったようで御家人とよく衝突していたようです。武士として初の幕府を開くような冷徹な頼朝のことですから、範頼は幕府成立前の進軍力が必要な時期には欠かせない存在だったが、幕府ができてしまった後の権力固めと円滑な統治が必要な時期には「目障り」になるとでも判断したのでしょうか。幽閉された翌年の94年梶原景時の軍勢に館を囲まれ自刃したとされます。頼朝による誅殺だったといわれます)

 

(昭和天皇の弟宮高松宮宣仁親王もお妃とご一緒にお越しになられたようです星

 

鎌倉幕府の正史「吾妻鏡」には範頼が伊豆修善寺に幽閉されたことは書かれていますが、その後自刃したことは書かれていません。ということで実は自刃してなくて・・・という「生存説」が生まれてきます。その舞台がこの石戸の地だということで。石戸で伝えられてきた伝承にはいくつかのパターンがあるようですが、いずれにせよ伊豆から逃げ延びた範頼が石戸の地に隠れ住んだという話が中心になります家(館を構えたのが東光寺近辺でこれが後述する「堀之内館」だと。ホウホウの体で石戸に到着した範頼が突いていた杖が大きく育ったのが石戸蒲ザクラなんだと。一緒に連れてきた娘の亀御前が病気になって亡くなったので供養するために建てたのが東光寺なんだと。現在も石戸蒲ザクラの根本には石を積み重ねた小さな墓がありますが、これが範頼墓なんだと・・・。「荒唐無稽」といってしまえばそれまでですが、「火のない所に煙は立たぬ」ということわざもあるくらいですから当時「何かが」あったのかも知れません。以前紹介した箕田氷川八幡神社のある鴻巣市箕田は箕田源氏発祥の地とされ、頼朝たち清和源氏の祖に当たる経基の館跡も石戸から荒川をもう少し上流に遡った鴻巣市大間にあるとされます。この地の人にとって源氏が相当親しみのある存在であったことは間違いないのでしょう)

 

(範頼墓といわれる小さな墓)

 

北本市内ではサクラが咲く頃にあわせ「北本サクラまつり」という一大イベントが開催されます。北本サクラまつりは「サクラ公園」と「北本水辺プラザ公園」をメイン会場とし、東光寺などの市内各地のサクラの名所でも出店が並びます。東光寺では境内近辺の駐車場に出店が出て、「日本一の北本トマトカレー」など北本ご当地グルメが楽しめますチョキ(サクラ公園は市内高尾にあり、広々とした園内に多くの種のサクラが植えられています。北本水辺プラザ公園は水辺という名のとおり荒川に沿って整備された公園で、ほぼ全ての敷地が芝生広場から成っています。木はほとんど植えられていないのでイベント用の会場ですかね。東光寺は境内がとても狭いので石戸蒲ザクラを愛でトマトカレーをパクパク食べながらお花見、ということはできません。残念ですが・・・。お食事はメイン会場に一旦移動してからがいいようです)

 

東光寺の境内とその近辺には鎌倉の頃に「堀之内館」があったとされます。石戸神社裏手には、堀之内館の堀跡といわれる窪地が残っています。石戸神社は東光寺と同じ石戸宿3丁目に鎮座し、古くは白山神社と呼ばれていましたが1943年現在の社名に変わりました。堀之内館の敷地は、堀跡を1つの辺とするおにぎりの形をしていたようですおにぎり(堀之内館の城主は範頼だったのでは?という伝承もあるわけですが、石戸左衛門尉という人だったのではないかという説もあります。石戸左衛門尉は鎌倉幕府に仕え、「吾妻鑑」巻36に1245年鎌倉の鶴岡八幡宮で開催された神事に参加したことがみえます。馬に乗って弓矢を引く儀式だったようで、吾妻鏡にはその順番として1番が「大隅太郎左衛門尉」、2番が「豊後十郎左衛門尉」、そして3番が石戸左衛門尉、4番が「足立太郎左衛門尉」と列記されています。「新編武蔵風土記稿」では「1番が大隅、2番が豊後で九州でペアになってるな。4番の足立は武蔵の地名だから、ペアになってる3番の石戸も武蔵の人なんだろな。石戸氏ってどこの人か知らないけど」と推理しています。ずいぶんアバウトな推理ですが・・・。ただ現在のところ堀之内館と石戸氏を明確に結び付ける証拠は遺跡にせよ古文書にせよ見つかっていません)

 

東光寺の創建は鎌倉初期の1200年頃とされます。上述したように、頼朝の魔手を逃れた範頼がこの近辺に住んでいた時に娘の亀御前が亡くなったので、その供養のために創建したという伝承があります。あるいは堀之内館の城主石戸氏が娘の供養のために創建したという説も。普通に考えるとどちらかといえば後者の方が信憑性が高いんでしょうねイヒ

 

(本堂。とても小ぢんまりしてます。東光寺は川越にある東明寺の末寺で現在は無住です鉛筆

 

もともと石戸蒲ザクラの根本にはサクラを取り囲むように多くの板石塔婆が並んでいたといわれ、石戸蒲ザクラが人々の信仰の象徴であったことがわかります。1973年サクラの保護事業の一環として、サクラにとって負担となっていた10本の板石塔婆が境内に建てられた収蔵庫に移されました。見学したい場合は北本市文化財保護課から了承を得る必要がありますポスト(「北本サクラまつり」の時には収蔵庫の扉が開けられ、自由に見学することができます。すばらしい!)

 

板石塔婆のうち1本は「貞永二年(1233年)」の銘があり、全国で発見された板石塔婆の中でも4番目に古いというとても貴重なもので埼玉県文化財に指定されています。他の板石塔婆も北本市文化財に指定されています。貞永二年板石塔婆は高さ160cmで、パイ生地のように薄く剥がれる特徴を持つ緑泥片岩らしく厚さは18cmしかありません。(表面に梵字で阿弥陀三尊が刻まれています。普通板石塔婆はてっぺんが三角形にとがっている例が多いですが、この板石塔婆は直線(つまり全体の形は長方形)であることが特徴です。石戸氏が祖先の供養のために建てたものなんでしょうかやぎ座

 

(参道の石段近辺に祀られていた六地蔵。帽子がそれぞれ個性があってカワイイですグッ

 

(六地蔵の隣に立つ千手観音。11のお顔と11の手もちゃんと刻まれていますにやり

 

(参道に沿って地蔵菩薩、青面金剛などの石仏たちが並んでいます真顔