※1年前に旅行した時の記事です。引き続き新型コロナウイルス予防(手洗い、「三密」回避など)にみんなで努めましょう!(2020年12月20日)

 

勝願寺は浄土宗の寺院で、正式名称は天照山良忠院勝願寺といいます。JR鴻巣駅から旧中山道を南東(東京方向)に10分ほど歩いたところにあります。ちなみに鴻巣市内には同じ名前の「勝願寺」がもう一つありますのでご注意を!こちらは鴻巣駅から北西2kmほどの登戸地区にある真言宗豊山派の寺院です。(登戸の勝願寺が造立された経緯はもう一つの勝願寺と深い関係がありますので後述します。なんとなく同じ名前が付いてるわけぢゃないんです??登戸の勝願寺には「康安二年六地蔵板碑」があり、市文化財に指定されています。康安2年は1362年で、こちらの板碑は六地蔵が刻まれている珍しい例です。それぞれのお地蔵さまは左手に珠、右手に錫杖を持たれています。現代の私たちが想像するお地蔵さまと同じ姿をこの頃の人々も思い描いていたことになります)

 

旧中山道から少し路地を入るとまず見えて来るのが惣門です。惣門には「栴檀林」と書かれた大きな額が掛かっています。栴檀林あるいは檀林というのは僧侶の学問所のことです。勝願寺は江戸の頃には檀林として大きな影響力を持ち、浄土宗僧侶が教えを学ぶ大学のような存在であった「関東十八檀林」の一つに数えられました。(隣に広がる鴻巣公園のある辺りには勝願寺に学びに来た若い僧侶たちが住む学寮がありました。江戸中期には16もの学寮が並んでいたのだとかトラ

 

(惣門の手前にある寺号標)

 

(惣門。江戸の頃には、門前に下馬を促す立札が立てられていました。やって来た加賀藩前田家の一行が立札を見落として乗馬したまま境内に入り、追い返されたというエピソードがあるとかドア

 

惣門を抜けて参道沿いに歩くと、次に現れるのが仁王門です。愛嬌ある顔立ちの仁王像が出迎えてくれます。そして正面には立派な本堂が。本尊阿弥陀如来が安置されています。かつては114畳敷きの「金の間」と96畳敷きの「銀の間」が本堂に続いていました。これらは徳川家康の2男結城秀康から賜ったものですお父さん(秀康は羽柴秀吉、結城晴朝の養子となりました。晴朝は後北条、上杉両家の圧力を受けながらも先祖から受け継いだ名家結城家を守りました。1601年秀康は加増により結城家の本拠地結城(茨城県)から北の庄(福井県)に移ります。その際に「結城御殿」と呼ばれた豪壮な建物を勝願寺に寄贈しました。金の間は徳川将軍がやって来た時の専用の部屋として用いられました。明治になると勝願寺を不幸が襲います。1870年の風害と82年の火事です。これにより惣門を残して境内の建物は全壊してしまいます。本堂は91年、仁王門は1920年に再建されます。仁王像はもともと三峯神社の仁王門で睨みをきかせていましたが、勝願寺に寄贈されました。金の間と銀の間はさすがに再建できず、残念ながらかつて描かれた絵図などを頼りに想像することしかでません)

 

(惣門から続く参道)

 

(上の写真の正面に見えるお堂がこちら。龍寿殿です。江戸初期の浄土宗の僧侶呑龍を祀るために建てられました。呑龍は現在の群馬県を中心に活動し、貧民の子らを弟子として引き取ったことから「子育て呑龍」として敬われましたやしの木

 

(龍寿殿という名前だけあって龍の蟇股が彫られていますロボット

 

(仁王門)

 

(仁王像。かつての仁王門には運慶が彫ったという仁王像が安置されていたそうですが、仁王門が全壊した後誰かが勝手に売り払ってしまったのだとか。その人きっと罰が当たったはず・・・イラッ

 

(本堂)

 

(本堂の正面上には漆喰に彫られた彫刻が。鏝絵ですね。ブレまくってます、スイマセンいて座

 

勝願寺では境内に桜が植樹されており、春になると満開の花を咲かせます。立派な惣門、仁王門、鐘楼を背景に桜が咲き乱れる様は寺院ならではの美しい光景です。特に仁王門と桜のカットは鴻巣を紹介する冊子には常連として登場する程おなじみです。隣の鴻巣公園とあわせて勝願寺は鴻巣市民のお花見スポットになっています。(勝願寺では昭和初期に境内とその周辺に桜が植樹されました。それにあわせて鴻巣公園が整備された歴史を持っています。まさに桜と切っても切り離せない関係にある公園です。公園内には200本ものソメイヨシノやシダレザクラが植えられており、毎年4月上旬には「さくらまつり」の会場として賑わいますねこクッキー

 

勝願寺が造立された時代は諸説があってはっきりとはわかりませんが、おおよそ鎌倉中期の13世紀といわれています。鎌倉幕府第4代執権北条経時が松ヶ岡(鴻巣市登戸)の土地を法然、聖光に次ぐ浄土宗三祖良忠に寄進したことを縁として、寺院が建てられました。勝願寺の名前は良忠の師勝願院良遍から名付けられました。(その後室町から戦国の戦乱期に勝願寺は衰退し、宗派も真言宗に変わります。天正年間(1573~92)に浄土宗の高僧惣誉清厳が登戸から現在の本町に勝願寺を移し、浄土宗寺院として再興を図ります。本町は良忠に縁のある土地とされます。それから登戸は現在もう一つの勝願寺がある土地です。勝願寺が登戸から本町に移った跡地に残されたお堂には、宗派関係なく僧侶が住み着いていたようです。その由緒を知った江戸幕府第2代将軍徳川秀忠が1616年朱印状を与え、もう一つの勝願寺が登戸に誕生しますドリルこの頃にお堂に住んでいた円慶が住職となりますが、円慶は真言宗の僧侶であったことからこちらの勝願寺は真言宗の寺院となり現在に至ります。何ともややこしいですがおもしろいですね)

 

勝願寺が本町に移って間もなくの1593年徳川家康が鴻巣に鷹狩りにやって来ます。その際に家康は勝願寺にも立ち寄ります。時の住職は惣誉清厳の弟子円誉不残。円誉不残と会見した家康は不残に感銘を受け、勝願寺が三つ葉葵を寺紋として用いることを許し寺領として30石を認める朱印状を与えました。(鴻巣に来た家康のための別荘として93年に造立されたのが「鴻巣御殿」です。鴻巣御殿と勝願寺は現在の地名では同じ本町にありご近所同士でした。家康は民情視察を兼ねて鷹狩りを盛んに行いましたが、鴻巣にも何度かやって来ました。その都度円誉不残の元に向かい話に花を咲かせたといいます。1657年に発生した江戸大火で江戸城が炎上したため、鴻巣御殿は城を再建するための部材とするため一部が江戸に持って行かれました。その後は御殿として用いられることもなくなり、跡地には東照大権現の小さな祠が建てられました。現在も住宅地の一角に屋根もない状態で祠が残っており、「日本一小さい東照宮」とも呼ばれますヒヨコ

 

(本堂の屋根に三つ葉葵が燦然と。仁王門とか龍寿殿とか境内のいろんな建物に三つ葉葵がこれでもかっ、と輝いておりますもぐもぐ

 

(歴代住職の墓)

 

本堂の向かって左には墓が4つ並んでいます。右からそれぞれ小松姫、真田信重、信重妻、仙谷秀久の墓です。小松姫は徳川家康の四天王の一人本多忠勝の娘で、家康の養女となりました。1589年家康は小松姫を沼田城主(群馬県)真田信之の妻とします。信之の父真田昌幸を小松姫が沼田城から締め出したエピソードが有名です。(1600年天下分け目の「関ヶ原の戦い」が起こると、信之が徳川方の一員となったのに対し昌幸は敵方に与しました。つまり真田家は東西に分裂してしまったわけです。そんな中昌幸が居城の上田城(長野県)に戻る途中「かわいい孫の顔でも見て行こうかのぉ」と沼田城に立ち寄ったところ、信之の留守を預かっていた小松姫は不審に感じ「お義父さま、もはやあなたは敵。城にお入れするわけには参りませぬむかっ」と昌幸が城に入るのを頑なに拒みました。昌幸は「おぬし、さすが武将の妻じゃ・・・」と城に入るのを諦め、頭をポリポリ掻きながら近くの正覚寺という寺院で休んでいました。すると昌幸の元に孫を連れた小松姫が!しっかり護衛を付けながら「お義父さま、さっきはごめんなさい」と。このエピソードは創作の可能性が高いといわれますが、親族とはいえ生き馬の目を抜く時代。城を乗っ取られる危険もある中で、城に入れないという判断は正解でしょうし臣下に断固とした姿を見せる効果もあったでしょう。そして後でこっそり昌幸に孫の顔も見せてやるという・・・まさに駆け引きの手本ではないでしょうか。カッコいい女性です)

 

(小松姫の墓)

 

小松姫にスペースを費してしまったので他の3つの墓を駆け足で・・・あまりにインパクト強いからしょうがないですよね小松女史はビックリマークでは真田信重。1599年信之と小松姫の3男として誕生します。ちょっと興味深いのは小松姫も信重も鴻巣で亡くなっていることです。鴻巣に住んでたわけではなくて道中たまたま・・・。なに怖い。(信重が亡くなったのは1648年2月のこと(ちなみに小松姫は20年2月に亡くなりました)。妻は信重が亡くなった翌年の49年12月に後を追うように亡くなりました。妻は鴻巣で亡くなったわけではないようですが、夫の隣に葬られました。当時の武将というと側室を何人も持ってハーレム状態を思い浮かべますが、信重は奥さん一筋だったのだとか。愛し愛された理想のカップルだったんですかね!?最後に仙石秀久(1552~1614)です。羽柴秀吉の部下として九州で島津家と戦いますが大敗、ホウホウの体で本国讃岐に逃げ帰り秀吉から10万石の所領没収の罰を受けます。徳川の時代になると小諸(長野県)藩主として大名に返り咲き、早くから領内での蕎麦作りなど産業振興に力を注ぎました。京都の伏見城で石川五右衛門を捕えたのはこの秀久だったといわれます。彼も江戸から小諸に向かう道中で病気のため鴻巣で亡くなりました)

 

(真田信重と妻の墓。左の奥さんの方が立派・・・おもしろいです金魚

 

(仙石秀久の墓)

 

江戸初期に行われた天才的な治水工事で有名な伊奈忠次、忠治父子の墓もあります。勝願寺第6代住職の源底が忠次の子であった縁で勝願寺に墓があるようです。忠次は家康の家臣として重んじられ、関東郡代を任せられました。関東郡代は関東の広大な土地における様々な職務を管掌し、伊奈家が代々この職を受け継ぎました。(忠次が始め忠治が進めた重要な治水工事として、利根川改修が挙げられます。この治水工事は1594年に起こされ、江戸湾に注いでいた利根川を太平洋に面した銚子(千葉県)を河口とするように流路を変えるというビックリするような大事業でした。完成は1654年、実に60年の歳月を要しました。もともと関東の河川は江戸湾に注ぐ「利根川水系」、同じく江戸湾に注ぎ利根川の東側を流れる「渡良瀬川水系」、銚子から太平洋に注ぐ「鬼怒川水系」の3つから成っていました。暴れ川の利根川がしょっちゅう水害を起こし流路が乱れたため、安定して農業を営むことができませんでした。利根川改修によって3つの水系が合流するとともに、利根川水系の一部であった荒川がそこから切り離されました。これにより江戸を襲う水害が少なくなり、農業を営むことができる土地が劇的に増大しました。また、東北地方の産物を江戸に廻送するのに、これまでは房総半島の東の沖を南下して伊豆半島の下田で風待ちをしてから江戸湾に入らなければなりませんでした。利根川改修が完成したことで銚子から利根川を遡って内陸経由で江戸川(チーバくんの鼻の辺り(こんな表現でいいんだろうか・・・)で利根川から分かれる)から江戸に入る水運が生まれ、海上の風波の影響を受けることが少なくなりました。江戸が当時の世界でも有数の大人口を維持するには絶対に欠かせない工事だったといえますイエローハート

 

(牧野家の墓。惣門から仁王門に向かう参道の右にあります。牧野家は徳川家の譜代大名で、こちらには第2代康成以降歴代の層塔などが並んでいます月見

 

(無縁仏供養塔)

 

(境内には様々な姿の古い石仏たちが・・・カメラ

 

(人形塚。勝願寺では毎年11月に「人形供養祭」が行われます。飾られなくなったひな人形や五月人形が集められ、子供たちの成長を見守ってくれたことに感謝しながらお焚き上げします。人形って壊れたからといって簡単にゴミに出すのはさすがに気が引けるので、きちんと供養してあげるのがいいんでしょうねえメモ