※1年前に旅行した時の記事です。引き続き新型コロナウイルス予防(手洗い、「三密」回避など)にみんなで努めましょう!(2020年8月23日)

 

真性寺は真言宗智山派を宗派とする寺で、本堂の前には立派な修行大師像が立っています。山号は東谷山、御本尊は不動明王です。最寄り駅は秩父鉄道秩父本線野上駅で徒歩10分程です。真性寺は本野上の住宅地にあり、境内は小ぢんまりとしています。本堂には参拝者が御本尊に挨拶するために設けられた仏堂特有の向拝がなく、民家のような佇まいです。(真性寺に車でアクセスする場合は注意が必要です。本堂手前に2、3台駐車出来る場所はありますが、そこに至るまでの道路は幅がとても狭いですスライム野上駅周辺に駐車して徒歩でアクセスするのがベターかも知れません)

 

(寺号標。後ろのお宅は真性寺ではありません叫び

 

(本堂。鰐口と賽銭箱が見えます。隠れちゃってますが扁額も掛かってます。ていうかこれって民家の縁側そのものぢゃ・・・なんか好きですふんわり風船ハート

 

真性寺は秋の七草寺の1つ「女郎花の寺」です。女郎花の花期は7月中旬~9月下旬で、秋の七草の中で一番早く開花することで知られます。本来の花期は晩夏なので7月に咲く花は早生種だと思われます。参道の脇や本堂東の畑などかなりの数の女郎花が植えられているので、花期を迎えると菜の花のように一面が鮮やかな黄色に覆われて綺麗な風景が見られます。(女郎花はツブツブとした可愛らしい小さな花が個体の頂部に密集して咲くので、群生した女郎花が一斉に花を咲かせると黄色い絨毯が敷き詰められたようですお母さん

 

(「女郎花の寺」と書かれた立札。参道入口に立っています上下矢印

 

(本堂東にある畑。花期になれば女郎花の絨毯が見られるよ、っと。想像するしかありませんが・・・天使左奥に連なる樹木は「北桜通り」(後述)の桜並木です)

 

女郎花は丈が60cm~160cm、日本を含む東アジアを原産とする植物です。日本では古来から庭に植えたり切花にしたりと、人々は女郎花を愛でて来ました。万葉集に秋の七草が詠まれて以来日本人の女郎花ファン歴は1300年近くであり、かな~り年季が入ってます!ちなみに万葉集には秋の七草を詠んだ山上憶良の歌を含め、女郎花を詠んだ歌が14首も掲載されています。(女郎花と漢字で書くと「ん?遊郭の女郎の花?」とちょっとドキッとしますが(!?)、女郎を遊女の呼称としたのは江戸時代になってからのことで本来は広く若い女性を意味する言葉です。女郎花という名前の語源には諸説あります。1つは「おみな圧し」から転じたという説。圧しは「へし、えし」と読み、花の美しさが若い女性の美しさも圧倒するという意味だそうです。もう1つは「おみなめし」に由来するという説で、一部の地方で粟飯のことをおみなめしと呼んでおり粟粒のような小さな花が密集して咲く様子がおみなめしのようだ、ということで「おみなめし→おみなえし」と呼ばれるようになったという説ですお弁当どっちも信憑性が高い感じですが、「おみな圧し」の説は美しさというより若い女性が持つ素朴な可愛らしささえ超えると解釈した方がしっくりする気がします)

 

境内には「男郎花」も植えられています。こちらは女郎花と同じ科に属する植物で、花の色が白であることを除いて形態は女郎花ととても似ています。根茎を乾燥させたものは「敗醤」と呼ばれる生薬として利用され、解熱、排尿などに効果があるといわれます。敗醤という名前は味噌が腐敗したような特有の臭いがするからだとか。(女郎花も男郎花もともに敗醤の原料となったようです。つまり女郎花も同じように臭いということです注意根茎はかなり臭いようですが花自体は鼻をつままなければいけない程異臭がするという訳ではないので、安心して(?)花を楽しんでくださいね(笑)↑で女郎花の語源の1つとして粟飯(おみなめし)の説を紹介しましたが、この説に沿うと男郎花の白いツブツブの花は白米を表す「おとこめし」に由来するそうです。男郎花の名前の由来とセットになっているので、こっちの説の方が語源としてしっくりするかもです。臭いのに「女性を圧倒する美しさ」っていわれても何だかなあっていう感じだし・・・)

 

真性寺は普段は無住の寺です。女郎花の花期に合わせ多くの参拝者が訪れる時期になると本堂が開放されます。この時期には本堂の軒先が売店になり土産物などが売られます。本堂の中には参拝者が休憩出来る場所も設けられ、お茶を飲みながら七草寺巡りに歩き疲れた身体をしばし休めることが出来ますにひひ

 

真性寺の創建は、過去帖によると皇極天皇の御代646年と伝えられますメール開山は聖仙僧都です。遥か遠い時代から長瀞の地の移り変わりを見守って来た寺ということですね。皇極天皇は推古天皇に次ぐ日本の歴史上2人目の女性天皇として知られます。孝徳天皇に譲位した後、斉明天皇の名前で再び即位(重祚)しました。譲位も重祚も女性天皇として初めての例になります。(皇極天皇の御代(42~45年)には蘇我蝦夷、蘇我入鹿を筆頭とする蘇我氏父子が絶大な権力を握っていました。これに対し中大兄皇子(皇極天皇の実子)と中臣鎌足が「乙巳の変」と呼ばれるクーデタを起こして蘇我氏を滅ぼし、「大化の改新」を開始します。斉明天皇として再び在位した55~61年には中大兄と鎌足が天皇を補佐しました。一方国際関係も急変の度合いを高め、60年には唐と新羅により日本と深い関係にあった朝鮮半島の王国百済が滅びます。日本は百済の再興を助け新羅を征するため軍勢を派遣することを決め、斉明天皇自ら遠征に赴きます。陣頭指揮を執るため筑紫(現在の福岡県)に遷都までしますが61年亡くなります。享年68歳。日本史の教科書に出て来るような生き馬の目を抜くような出来事がバンバン起こった激動の時代を生き抜いたモノ凄い女性ということです。ちなみに真性寺が46年創建だとすると、皇極天皇の御代ではなくその後継者の孝徳天皇の御代ではないかというちょっとした疑問がありますが・・・。まああまりに遠い昔のことなのでどっちでもいいですかね!?)

 

真性寺の境内には「青石塔婆」が立っています。高さ3m程の板碑で、「秩父青石石材採掘遺跡」のページで紹介した「野上下郷青石塔婆」に次ぎ長瀞町内第2の大きさを誇る板碑です。板碑上部には「三弁宝珠」と阿弥陀如来を表す梵字が刻まれています。三弁宝珠は下に2つ、上に1つの円形の宝珠が積み重なったもので、仏の持物の1つとされます。(この青石塔婆は元々本野上の地区内に放置されていましたが真性寺が引き取り、その文化的重要性から町有形文化財に指定されました。とても素晴らしいことだと思いますギター

 

(青石塔婆。この板碑は真性寺の方に「助けてくれてありがとー」と言ってる気がします浮き輪

 

本堂の中には「猿石」が安置され、本堂が開放されている時期には間近で参拝することが出来ます。これは遠い昔から真性寺に伝えられて来た自然石で、猿が膝に肘を立てて考え事をしているように見えるところから猿石と呼ばれるようになったそうです。撫でると身体の痛みが「サル」のだとか。3億年程前に秩父古生層の一部として形成された石だそうです。(この猿石にまつわる話をご紹介します。明治時代初期に近所に住むある男が酒手を工面するために猿石を盗み出して売ってしまいました。するとその男の家で悪い出来事が相次ぎ、怖くなった男は売った猿石を買い戻して寺に返したのだとか。よっぽど飲みたかったんですね、猿石より酒が怖い・・・ロックグラス

 

真性寺のすぐ東には、南北に北桜通りが走っていますてんびん座北桜通りは長瀞駅から荒川と並行して野上駅近くの高砂橋に至る道路です。道路の両側に400本程のソメイヨシノが植えられており、花期となる4月上旬~中旬には「桜のトンネル」が出来ピンク一色に染まった風景が造り出されます。この時期には夜に通りがライトアップされ多くの観光客を集めます。

 

(東谷山稲荷大明神)