※1年前に旅行した時の記事です。引き続き新型コロナウイルス予防(手洗い、「三密」回避など)にみんなで努めましょう!(2020年6月9日)

 

「寛保洪水位磨崖標」は、秩父鉄道樋口駅の北側にある「長瀞第二小学校」の裏を3m程登った山腹に位置します。そこには「磨崖標」の名のとおり露頭に「水」と刻字されています。これは「寛保二年水害」の時に荒川の水位がここまで上がったことを後の世に示すために、当時の村人が刻んだものです。その高さは、周辺の多くの建物の屋根付近に当たります。(記録によれば通常の水位より18mも上がったそうで、この水害での荒川流域における最大水位であったといわれます。現在の荒川の河床からは直線距離にして200m程離れています。本当に恐ろしい光景であったと思いますムキー

 

(石柱と案内板。緑色のフェンスの後ろ側に磨崖標があります月見

 

(上の写真の右上側に見えている石柱を拡大。欠けてる部分は梵字が刻まれてるのでしょうかUMAくん?!ちなみに磨崖標が刻まれた露頭の上手には「圓福寺」というお寺が建っています)

 

(樋口駅付近、国道140号沿いに位置する「JA長瀞ひぐち直売所」前に新しく立てられた詳しい案内板がありましたレンチ

 

(直売所では地元で採れた季節の野菜が販売されています。奥には「楓庵」という手打ちそばのお店が併設されています。そばだけでなくうどんも食べられますが、私はそば屋に行ったらそばしか食べませんっえーだからなに・・・

 

この寛保二年水害は、新暦1742年8月27日~31日の5日間にわたって畿内、中部、関東に降った大雨によってもたらされました。江戸時代以降埼玉県を襲った数々の水害の中でも、最も甚だしい災害となりました。秋台風が大阪湾周辺に上陸し中部、関東、東北と東に進んで行ったことで豪雨に見舞われたといわれます雷

 

記録的な大雨によって、関東では利根川、荒川、多摩川が次々と氾濫、決壊し多くの田畑が荒地となり溺死者が出ました。死者数は江戸だけで下町を中心に6900人、被害を受けた地域の総数で2万人に達したともいわれます。埼玉県では長瀞町から県北部の熊谷市、行田市などで大きな被害が生じました。(県北部は北側を利根川、南西側を荒川に挟まれています。大雨で利根川の堤が決壊して泥流が溢れ出し、数多の田畑や集落を水浸しにして荒川と合流したといいます。つまりこれらの地域では、信じられない程広い範囲が海のような状態になってしまったということです船

 

この甚だしい災害を前にした幕府は、御助船を派遣し貧民に食糧を配るなど応急的な救援策を講じます。しかし、被害が生じた藩では城自体が大破損するなどなす術なく、復旧はとても困難であることが容易に想像出来ました。このことから、幕府は被害を受けなかった西国の諸藩に「御手伝普請」を命じました。(毛利氏の萩藩は利根川、細川氏の熊本藩は江戸川・中川、伊東氏の飫肥藩は荒川などと幕府から担当が命じられ、堤防や橋の修築、堀や新田の浚渫などの工事に携わりました。といっても諸藩から人夫を呼び寄せる訳ではなく「御手伝金」という資金を拠出することが主な役割であり、被害を受けた地域の村人たちが労働者として雇われ具体的な復旧作業に当たりました。現在で言えば山口県が資金を拠出して埼玉県の公共工事をする感じですねドリル

 

寛保洪水位磨崖標の「水」の刻字の下には「寛保二年壬戌年八月亥刻大川水印迄上、四方田弥兵衛、滝上市右衛門」と刻まれていたそうですが、現在摩耗して読めなくなっています。「大川」というのは荒川のこと、「四方田弥兵衛、滝上市右衛門」は刻字した村人の名です。磨崖標は埼玉県史跡に指定されています。(野上下郷では、寛保二年水害で流出した家屋が10軒に達しました。弥兵衛と市右衛門は、二度と惨事を繰り返すまいとの強烈な使命感から村人を代表して磨崖標を彫ったのでしょうおじいちゃん荒川を下った川越市に位置する久下戸氷川神社にも、当時の水位を示す石灯籠が残っています)

 

(「水」の刻字)

 

弥兵衛と市右衛門が彫った磨崖標は、年月の経過とともにどんどん摩耗してしまっています。「水」の刻字すらも近年読み取りが困難な程になってしまいました。二人の使命感を継いで行こうということでしょう、長瀞第二小学校の国道140号沿いの塀には、磨崖標と同じ高さに「水」と記された看板が掛けられています。(看板は国道の直上に掛けられているので、当時の水位がどれだけ高くなったかがとてもよく分かります。樋口駅のホームからも見えます猫あたま

 

野上下郷付近では両側に山が迫り、荒川の清流がV字谷を刻んでいます。上流は秩父盆地、下流は寄居町の荒川扇状地で川幅は広く、盆地の出口である野上下郷付近だけが急激に川幅が狭くなります。寛保二年水害でこの地域が荒川最大水位に達したのは、この地形が原因だといわれています。(地形という元々の条件に加え、2km程下流、荒川扇状地との間に位置する波久礼という場所で流出した家屋や樹木などが川を閉塞させたことで水位が急上昇したのだとか。山腹で地すべりが生じて土砂が堆積し川を塞いだのではないか、とする説もあり正確な原因は分かっていないようですショボーン

 

樋口駅の300m程下流には、対岸の岩田とを結ぶ「白鳥橋」という橋が架かっています。現在の橋は1958年に建設されましたが、それ以前は15年に建設された吊橋が架かっていました。旧橋は木造トラス式の橋で自動車も通行出来たそうです。トラスは橋の構造の一つで、橋の側面に斜材を組み合わせて骨組とします。川から見ると鉄骨や木材が斜めに組み合わされ「×」の形などが沢山連なってる橋をよく見ると思いますが、あれがトラスです。(白鳥橋では、自動車の交通量が増えるとともに橋に負担が掛かって傷みやすくなり修築が繰り返されました病院これによって村の負担が増えたことから、より長持ちする橋を架けて欲しいという住民の要望を受けて現在の鋼橋が建設されました。架橋に尽力した代議士の名を採って「荒船橋」の異名でも知られます)