坂西横穴墓群は、中央線日野駅から徒歩8分程南下した地点にあります。駅から坂下地蔵の前を通過し、さらに中央線沿いに南下した地点にある架線橋を渡ればすぐです。線路脇の道路に沿ってこんもりと繁みが広がっています。ちなみに1890年に開業した甲武鉄道日野駅は現在の駅舎より南のこの近くにあったんだとか。(甲武鉄道は民営鉄道として御茶ノ水・八王子間を運行する一方、八王子以西は国が線路の敷設を進めました。1906年軍事輸送を目的とする鉄道の統一的整備を意図する軍部の要請に基づいて成立した「鉄道国有法」を踏まえ、甲武鉄道も国有化されました。鉄道国有法では17社の私鉄が次々と国有化されましたが、買収される私鉄側に相当有利な条件でした。当時は不況で私鉄各社の経営が苦しくなっていたという事情もあったようです。いわば景気対策ですね。遺跡から随分話が逸れてしまいました。スミマセンカエル

 

(架線橋から望む。金網が視界の邪魔ではあります。とはいえ線路に落ちるよりはマシなので仕方ありません滝汗

 

坂西横穴墓群は1978年東京都史跡に指定されました。発見されたのは74年。道路の設置工事中に1号墓入口を塞ぐ石が発見されました。その後75年にかけて本格的な調査が進められ全部で7基の横穴墓が見付かりました花火これらは保存のため埋め戻されました。現在保存されているのは1号墓、3号墓、4号墓の3基です。


坂西横穴墓群の7基の横穴墓のうち、構造上比較的古いとされるのが1号墓と4号墓です。その構造は「胴張り複室構造」と呼ばれ、南武蔵・多摩川上流域で特徴的な構造とのこと。「胴張り」は遺体を葬る玄室の両側面が張り出した形状のこと、「複室」は玄室と入口の間に前室があるような複数の区画を持つ形状のことです。(「胴張り複室構造」は、地域の首長級の人物が埋葬された円墳で採用された構造を真似たものといわれますギザギザ

 

また、1号墓と4号墓では墓前域に石積施設が見られるのも特徴的です。これは多摩川中流域でよく見られ、共通の伝統や血筋を持つ集団の勢力圏があったことが窺えます。1号墓は、前室がアーチ状、玄室がドーム状となっている天井や側面などに白色粘土が塗布されています。規模などの面でも墓群の中で最も重要な墓といえますにやり

 

坂西横穴墓群が構築された年代は7世紀後半と推定されています。7基の横穴墓の中で比較的古いとされる1号墓と4号墓の「胴張り複室構造」が見られるのは一般的に7世紀半ばから後半にかけての短い期間といわれていることから、ある程度推定が可能ということなのでしょうか真顔その後8世紀にかけて墓が使用されたようです。

 

1号墓と4号墓は盗掘を受けており、副葬品も埋葬された人物の人骨も出土していません。副葬品を見れば埋葬された人物の身分の高さや構築年代、文化的交流の範囲など色々分かることがありますが、副葬品がないため不明な点が多く残っています。他の墓からは男女複数の人骨が出土しています。(盗掘を示す「証拠」として墓内部の側面に「永仁」の文字が線刻されています。永仁は鎌倉時代の1293~98年に使用された年号です。当時の盗掘者が「〇〇参上!」みたいな軽い気持ちで刻んじゃったんでしょうかね。落書きも盗掘もダメです!$

 

横穴墓は埋め戻されてしまっているので、現地で見ることが出来るのは繁みに覆われた斜面と案内板・説明図だけです。説明図は少し古いですが、どの地点に何号墓が眠っていてそれがどのような形状なのか図解してくれています。さらに1号墓内部側面に線刻された壁画、4号墓の断面については、別に図が付されています。(1号墓の壁画は、白色粘土に斜め格子状の模様や馬や羽ばたいている鳥のような動物が線刻されたものです。いつの時代に刻まれたのか不明ですが、永仁の盗掘者の仕業という可能性も??

 

(案内板。英語訳が「Sakanishi Yokoana Bo Gun」なんですね。そういうもんなのか・・・ハロウィン?)

 

(説明図。線路上を走っている中央線の絵が201系ですね。国鉄時代の1979年に開発された車両で、中央線では2010年の完全撤退まで元気に走っていましたブーケ2また遺跡から話が逸れた・・・)

 

(この斜面に横穴墓が眠っています。想像する以外にありません・・・ロボット

 

1号墓と4号墓以降に構築されたそれ以外の横穴墓の構造はどのようなものでしょうか。時代を下るに従い、1号墓と4号墓では胴張りであった玄室の形状が長方形、正方形、奥壁が長い台形と変遷していったようです。いずれにせよ東日本では7世紀を過ぎると横穴墓が構築されなくなります。大和王権の政策の影響とする見方もあります。(ちなみに坂西横穴墓群は道路の設置工事中に発見されましたが、1号墓だけは道路の基礎とする予定の部分と被っており道路設置により墓が破壊されてしまうことから、保存のため墓を跨ぐように橋が架けられました。その名も「横穴橋」といいます。河川を跨ぐ橋、線路を跨ぐ橋、建物と建物を繋ぐ橋など目的により橋も色々ありますが、遺跡を保存する目的で造った橋というのも珍しいですねスニーカー

 

坂西横穴墓群が構築された地点は、日野台地に入り込んだ谷の東向きの斜面に当たります。この台地と谷の標高差が旧甲州街道の日野大坂を形成しました。谷には八王子方面を水源とする矢ノ川と呼ばれる小河川が流れ湧水豊富な湿地帯でしたが、甲武鉄道の線路敷設に伴い埋立てられてしまいました。(横穴墓が歴史上に姿を現わすのは6世紀後半とされます。それまで各地で構築されていた古墳は、ある地方を統べる首長のような人物が多くの労働力や物資をつぎ込んで造らせた「力と富の象徴」という側面を強く持っていましたハチそれに対して横穴墓は斜面という自然地形を掘り込んで造ったものであり、古墳に比べるとそのコストは格段に下がります。また、横穴墓は複数の穴が群集していることが多く、一つの横穴墓に世代を超えて埋葬されることも一般的でした。このことから横穴墓はもっと小さな集団(ムラなどの世帯共同体や一族など)の長や関係する人々が埋葬された墓といわれます。現代の家族墓に近付きつつある過程の墓と言えるのかも知れません)