これは“いつも”の持論なんだけど、『座頭市』の魅力は、主人公の市がハンディキャップをものともせずに活躍することよりも、彼がただただ完全無欠に強い点に尽きる。極論すれば、市が何のハンディキャップを持っていなくても構わないくらいだ。尤も、彼にそのような戦闘能力がなかったら、単なる「いじめ」映画になってしまうから、「ハンディキャップ=完全無欠」はこの手のジャンルの必然なのかもしれない。

 

 だから、何のてらいもなく「完全無欠」のキャラで描くことが許される『座頭市』シリーズが好きなんだけど、中でも勝新太郎が最後に市を演じ「みろくの里」でロケされた(というかこのロケのためにみろくの里にセットを組んだ)作品と、ビートたけしが市を演じた北野武監督版が、共に市の描かれ方がクールな「殺戮マシーン」のようで気に入っている。映画である以上、モラルも糞もない。所詮虚構の世界。しかも市に滅ぼされるのは皆名うての悪党ばかりだ。それ故、何の葛藤もなく、劇中に設定された正義に向かってひたすら殺戮を繰り広げる市に喝采を贈ってしまうのである(;^_^A

 

 この“正義の殺戮”を“己の正義観”のために繰り広げる展開の女性版が、タランティーノ監督作品の『キル・ビル Vol.1』に登場するザ・ブライト(ウマ・サーマン)であり、それも青葉屋でのクライマックスがそれに相当すると私は思っている。かの「クレージー88」の面々(今思うと田中要次、高橋一生、北村一輝と錚々たる面々が構成メンバーだった……)を向こうに回しての一大殺戮ショーは、ザ・ブライトの神懸かりなパワーが炸裂する。まさに一点の迷いもなく(“定期的”に登場する“少年”には情けをかけるが……)クールで完全無欠のヒロインぶりである。

 

 

 そこで、少々うがった見方をすると、ザ・ブライトが完全無欠で許されるのは、彼女が“女性”であるからといえるのではないか。その前提に、瞬発力や戦闘能力において、「女性はどうしても男性より非力である」との考えがある。それ故逆説的に完全無欠という虚構性が成立するのかも知れない。この発想は前述の「ハンディキャップ=完全無欠」にも繋がる考え方かもしれないが、ここで言いたいのは、「完全無欠」は、実は女性の方が描きやすいということ。だから『LUCY』『ワンダーウーマン』『キャプテン・マーベル』のような映画が成立するのだろう。

 

 後は、ヒロインが精神的にも「完全無欠」となってもっとクールなキャラクターで描かれたら(例えるなら『LUCY』の後半のような展開)、きっと観ていてスカッとする素敵なアクションムービーが撮れるのではないか。情け無用問答無用で悪党を叩きのめす、そんなヒロイン活劇が映画でもテレビドラマでも、そしてVシネマでも量産される時代が来ることを心密かに願っている(;^_^A