ドラマや映画、マンガに小説・・・。作り物の話でも、世間の人間はよく泣く(泣ける)らしい。
俺は、「かわいそうなゾウのはなし」を読んだ5歳の時以来、物語を読んで泣いたことがない。
泣ける話だと言う世の評判に釣られて読んでみるのだが、いまだかつて泣いたことはない。
「血も涙もない人間」だとは、よく言われるが、「男が一々泣いてられるか!」という反発心もない訳ではない。
一応、物書きもやってる俺である。起きてる間はもとより、寝てる間もネタ探しをしている。自分の実生活すらネタにするのがクリエーターの性である。
例えば、何をするにも常にメモをとっているので、たまに整理しなければならない。時々、乱雑に積み上がったメモを整理していると、不意に涙がこぼれることがある。
ウチの娘がまだ幼かった頃のやり取りや老いた伯父の往年を書き殴ったメモは、字面からはみ出した感情を励起されて、思わず涙腺が弛むのである。その感情は、誰もが感じるであろう日常風景であろう。
売れる話ってのは、こういう身近なネタで、それが受けるってのは解っているのだが、俺の作家性は俺自身の実体験をネタにすることを拒否して、創作への転用を封印する。では、他人様のお涙頂戴話なら、ネタにできるのか?
否、である。
俺が書いてきた物語世界とは、リアルな自分の経験をフィクションに置き換えてのルポタージュ技法である。
まるで見てきたような嘘八百話ってのが本領なのである。
これが事実だ、真実だ!と大声を上げたら、矮小な一個人の日記に堕してしまう。
(そんなものは、チラ裏にでも書いておけ)
ちっぽけな一個人の経験から、普遍的な大衆の経験談を喚起してこそ、物語は物語足り得るのである。
さて、売れない作家の作劇論はこのくらいにして、雑多なメモの中からシリアスなテーマをひとつ提起しよう。
物語の主人公は、学校時代は目立たない無口で引っ込み思案な中流家庭の二十歳の女性。
地方に住んで、高校卒業後、地元の零細企業に就職して、クルマの免許を取ってマイカー通勤していた。
ある日、いつものように仕事を終えて帰宅するために住宅地の狭い道をクルマを走らせる。ふいに民家の脇道から飛び出してきた老婆。咄嗟に急ブレーキを踏んだが間に合わず・・・
事故とはいえ、人を殺したという罪。不幸な交通事故では済まされなかった本人や家族の負い目。被害者遺族の居た堪れなさ。
事故の加害者となった女性は、わずか二十歳にして人生が終わった。
交通刑務所で刑期を務め、保険で民事の慰謝料は払ったとはいえ、人を死なせた(殺した)という事実は消えない。法の手続きに従って罪は償ったとはいえ、本人は一生、人殺しの負い目を背負って生きていかねばならないのだ。言葉とは裏腹に世間の目は冷たい。
本人も辛いが、家族にしてみれば自分がしでかした事故でもないのに世間から陰口を言われ、もっと辛い思いをするのだ。かくして一家は離散。かつて、ささやかな幸せを生んできた家も売り払われ、跡形もなし。
親も姉妹も親戚も、彼女の事には口を閉ざし、無視しながら、過去を隠して逃げ落ちた先でリセットした自分の生活にしがみつく。主人公は、安月給の派遣社員として工場から工場へと渡り歩く。彼女の身上を知らない同僚の男性との恋愛からも逃げ続ける。一生を、孤独に、罪を背負って生き続けるのが彼女の人生なのか?
この物語がハッピー・エンドに終わる訳がない。彼女の人生は、常にハンデを背負っているのだ。彼女に寄り添うのが例えジーザス・クライストであろうと、彼女が真に解放される訳ではない。
交通事故を境に人生が一変してしまった人生を描くというチャレンジは作家にとっては有意義ではあろうが、同時に例えようのない罪悪感にも苛まれる。
安っぽいヒューマニズムなんか糞くらえ! 同情でもなく、優越感のナルシズムでもない許容と親愛を得て、彼女の人生が最後に笑って迎えられるとしたら、俺は真に泣いてもいい。
本当に泣ける話ってのは、そういうものだと俺は考えてる。しかし・・・書いては潰し、潰しては書き直す。着想から数年を経ても、執筆が一向に捗らない。
はてさて、この物語は完成すのであろうか?










