迫撃 第7章「空蝉(うつせみ)」 | yamaのブログ

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1990年 10月
(1)
 夏の猛暑が9月までを覆い、やがて秋台風をもたらした。晴れては曇り、土砂降りの雨となって流れ落ちる。この繰り返し。
 マスコミのニュースは、サダム・フセイン率いるイラク軍が占拠したクウェート侵攻にともなう湾岸危機の続報が定常化している。リクルート事件に絡む政治汚職もうわの空で、株式市場は空前の好景気を記録した。しかし、村上の気分は、どん底にあった。この夏の滝川と岸田、小林との一件以来、美咲は姿を消していた。
 村上は、以前と変わらず、小さな印刷会社の写植工に戻っていた。
 定時出社、定時帰宅の気楽なサラリーマン稼業の憂さを晴らすかのように、スポーツ・ジムで秋の夜長を費やす。ナンパ目当ての男女を尻目に、黙々とプールで泳ぎ、苛酷なまでにマシン・トレーニングで汗を絞る。以前のような盛んな性欲も失せて、人を避けるように敢えてストイックに過ごす生活を選んでいた。
 郊外の野菜畑に囲まれた村上の自宅は、冷えた満月の光りに照らされていた。
 照明も点けず、村上は組んだ両の手を枕に、ベッドに横たわっていた。開け放ったままの窓から差し込む月の光が仄かに室内を照らし出す。枕元の目覚まし時計が時を刻む音以外に聞こえるのは冷蔵庫の唸りくらいだった。
 村上は、目は閉じていたが、眠ってはいない。じっと身体を横たえ、疲れた肉体に休息を与えるだけの浅い眠り。裏稼業の人間ならば、否応もなく身に付ける習性だ。しかし、
「俺は、裏稼業じゃない」
 ふと呟いてみる。感情に流されている、と思う。何度となく、生死の境を彷徨い、生きるか死ぬかの選択を迫られ、反吐を吐き、自ら漏らした汚物にも塗れた。人が、その一生のうちに遭遇するか、しないかの艱難辛苦のすべてを味わい、尋常でない事件の荒波に揉まれた。その結果は、どうだ?
 本末転倒、お粗末な顛末。これが挫折というものなのか?
 幾多の波瀾に際して、結局、自分は傍観者でしかなかった。命の限りを激しく熱く燃やして戦いに生きた人間のすぐ傍らで、成す術もなく立ち尽くしていただけだ。
 自分は、麻紀の復讐を願ってきた。その仇だった小林が死んだ今、復讐も果たせずに終わり、今後の行く末すら見い出せないでいる自分は、この一年余りを何の為に過ごして来たのだろう?
 俺は、この先をどう生きていけば良い?
 答えは、何ひとつ無かった・・・

(2)
 西村は、再び、泥酔の海を漂っていた。
 前途を見失う度、酒に溺れるのが西村の悪癖である。岸田が死に、裏稼業との接点を失っては成す術がなかった。
 地回りのチンピラに目を付けて後を追い、暴力団の組事務所へ殴り込んで酒代の工面をする日々が続いていた。ヤクザだろうが、チンピラだろうが、極道だろうが、意気がる馬鹿どもの前で二、三人の脳天を吹っ飛ばして見せれば、死の血を見慣れない奴らは糞尿を漏らして逃げ惑った。小便どころか、精液まで垂れ流す奴までいる始末だ。そのお陰で、西村は目が醒めれば酒と女を充てがわれる日々を送っていた・・・

1990年 12月 
 冬の新潟は、吹きすさぶ風雪に覆われていた。西村は、新潟県の直江津港にいた。
 港湾に停泊する韓国、北朝鮮、ソ連船籍の乗務員たちが立ち寄るスナックやキャバレーに通い、遊ぶ金欲しさに密輸品を抱えてきた船乗りたちから銃や弾薬を仕入れる仕事で糊口を鎬いでいた。造りの粗い中国や北朝鮮、東欧からオホーツク海を経由してくる中古ピストルでも、暴力団を通じて捌けばかなりの金額になる。裏稼業を続ける為には商才にも長けていなければならない。
 地元のヤクザと縁が出来て、経済的にも余裕があった西村は、歓楽街にも足を運んだ。 東京などの大都市ほどではないが、規模は小さくても北陸美人の多い風俗店には二十歳前後の上玉が揃っているし、人妻ヘルスなるものもあった。その中から西村が選んだのは、恐らく三十代半ばの女だった。
 マンションの個室に通された西村の前で、遠慮がちに服を脱いだ女の下腹には妊娠線が浮かんでいたが、成熟した女のふくよかさを湛えるボディ・ラインは見事だった。
 女は、地回りのヤクザからの紹介ということもあってか、型通りではあるが丁重に迎えた。西村は、脂の乗り切った女の肉体を味わった。
 情事を終えたベッドの上で、西村は女の髪を指で梳き、もう一方の手で女の下腹の妊娠線に指を走らせる。そして、尋ねた。
「子供、いるんだろう?」
「四歳・・・、今年五歳になる息子がいるわ。それに・・・」
「それに?」
「私、流産したの。去年、亭主と別れた後、すぐに」
「悪い質問をしたな。御免」
 女は体を起こし、西村を見つめると、言った。
「ねえ、アナタ、ヤクザには見えないけど、堅気でもないよね。裏稼業、って知ってる?」
「・・・否、知らない」
 西村は、惚けた。
 女はベッドの縁に腰掛けて、話し出した。
「私の亭主は裏稼業の殺し屋だっだのよ。でも、そんなことも知らずに、愛して、子供まで産んだのに、裏切られた」
「その亭主は、どうしたんだ?」
「死んだわ。新聞には載らなかったけど、警察から連絡があったの。その頃には、私は子供を連れて家を出てたんだけどね。女ひとりで子供抱えて、お腹ん中にも子供がいて。なのに後先も考えないで、無一文で家出したのよ。馬鹿よね。でも、お腹の子は流産するし、息子も施設に預けたままだし・・・」
 自分の身の上を語りつつ、涙を浮かべる女に、西村は冷たく言った。
「寝た男には、いつも、そうやって同情を買ってるのかい?」
「違うわ。こんなの初めて。何でかしら。多分、似てるからよ」
「死んだ亭主にか? 素直には喜べないね」
「いいわよ、別に。どうでもいい事なんだから」
 女は、胸の内に残る未練を冷め切った態度で覆い隠す。
「ま、誰にでも、事情があるものさ」
 西村は、無難に話を切り上げる。
「シャワー、浴びてくるわ」
 女は、脱ぎ捨てた下着とバス・タオルを抱えるとバス・ルームに消えた。女がシャワーを使う水音を聞きながら、西村は苦々しく顔をしかめた。
(女が言ってた裏稼業ってのは、小林のことだ。奴の女房だった女と寝たのか、俺は)
 今夜の事は予定外の行動なのに、まるで呪われたかのように因果が憑いて回る。見えない糸で操られているかのようだ。岸田が死んで以来、自堕落な我が身に甘えていた不甲斐なさに腹が立つ。
「テメエのけじめは、テメエでつけろ」
 岸田は、そう言った。
 裏稼業のけじめは、戦い続けることだ。
(俺に必要なのは、生か死かの戦いに己のすべてを叩き付け、生き残った時に感じる充実感だ)
 西村の内奥で、何かが目覚める。どんよりと曇っていた瞳が、妖しい光りを帯びる。
 多額のチップを女のハンド・バッグに突っ込み、シャワーから戻った女を先に帰らせる。
 サイド・テーブルから、飲みかけのウイスキーのグラスを手に取る。残った琥珀色の液体を口へ放り込んで、呟く。
「ラスト・ショット」

1991年 1月
(1)
 ペルシャ湾に、本格的な火の手が上がった。クウェートに侵攻したイラク軍に対して、米国を中心とする多国籍軍が地上戦に突入した。
 地上戦に突入しても、リアル・タイムでの映像は流れない。繰り返し流される、秩序と平和を取り戻すという大義名分。ハイテクを駆使したピン・ポイント爆撃の映像は、戦争をTVゲームのように錯覚させていた。徹底的に管理・規制された資料映像だけが公開される。かつて、米国がベトナム戦争で学んだ世論操作のテクニックである。
 無益な血が流れぬ戦争など存在する訳がない。TVには映らない、崩れた瓦礫の下で息絶えた犠牲者たちの、悲痛の叫びは決して届くことはない。
 昼食時、食堂のTVから流れるニュースを眺めながら食事をしていた村上の手が止まる。 画面が切り替わり、現地の実況を伝えるレポーターの背後に、不鮮明だが美咲を見たような気がした。一瞬、写ったその姿を確かめる前に、再び映像が切り替わった。
(滝川だ。奴は、生きている!)
 去年の夏、山小屋で滝川が言っていた。
 俺は故郷に帰る、戦友の元へ赴く、と。
 岸田との戦いの後、滝川の死体は発見されなかった。滝川が生きているのなら、その死体が見つかるはずがないではないか。美咲が姿を消したのも、滝川を追いかけて行ったからだ。
(そうさ、すべて計算づくの芝居だったんだ!)
 それからの村上は、精力的に裏稼業の痕跡探しに没頭した。裏稼業の仕業と解るニュースは、当然、存在しなかった。しかし、絶対に痕跡を残さない完璧な仕事などある訳がない。いつの時代でも歴史はその真相を歪曲され、隠蔽されるものだ。
 巷間に精通した情報網を持たない村上にとって、裏稼業の存在を突き止めることは不可能だった。だが、小事に忙殺され、大局を見失うというミステイクさえ排除すれば存外な事とも思われなかった。すべては行動あるのみ。
 村上は、松本の街をつぶさに歩き、見て回った。かつて、美咲に連れられていた時には気付かなかったものを漏らさず、感じとるかのように。しかし、依然として手懸かりは何も掴めなかった。
 裏の世界ではまったくの無名である村上が積極的に裏稼業に関わろうとするならば、尋常の手段では駄目だと思い、派手に動くことにした。
 夜の街のショバを仕切るヤクザに目を付けた。それを尾行し、組事務所の様子を探る。そして、殴り込みをかける機会を待った。
 思えば、信じられない事だった。かつて、喧嘩すらしたことのない気弱で大人しかった人間が、暴力を武器に社会の暗部へと踏み込もうとしているのだった。

(2)
 日曜日、午前5時。
 村上は、吐く息を白く凍り付かせながら、この辺では名の知れた暴力団の事務所を向いのビル工事現場のバリケードの陰から見つめていた。
 この日最後の週末の売り上げを集金してきた地回りたちが帰宅するのを見送って、村上は行動を開始した。寒さで強ばる体を解し、着膨れていたダウン・パーカーを脱いだ。手袋をはめた手で腰のホルスターから銃を抜き、グリップを確かめる。銃を戻すと空のデイ・パックを担ぎ、暴力団の組事務所へと忍び寄る。
 鉄筋コンクリート二階建ての建物。一階には倉庫とガレージ、二階の事務所に通じる階段は狭い玄関を潜った先にある。
 攻めるに難く、守るに易い構造はヤクザの知恵だ。建物内に残っているのは不寝番のチンピラと売上金の勘定に励む数人のみ。すっかり鳴りを潜めた暴力団抗争から遠のいた現在では、警戒心もお座なりになっている。その証拠に、一階の表玄関は施錠もされず、見張りもいない。だが、階段を上がった先の事務所のドアは施錠されている。壁にあるインターホンを鳴らす。インターホンの問いかけには答えず、村上は呼び出しボタンを執拗に押し続ける。
「うるせえな。こんな朝っぱらに、何だってんだ・・・」
 ドアに近寄る気配と苛立った声が聞こえる。鍵が外され、ドアが開きかけた時、それを村上は強引に引き開ける。チェーン・ロックが千切れ、ドアの取っ手を掴んでいたチンピラが引きずり出される。つんのめった若いチンピラの首を叩き折り、村上は室内に滑り込む。銃を抜きつつ、廊下を進む。事務所の間取りは調べてあった。
 右側の待合室で不寝番をしていたチンピラたちは、闖入してきた村上を見て腰を浮かせたが、罵声を挙げる暇もなく銃弾を撃ち込まれ息絶えた。待合室に詰めていた三人を二秒で片付け、まだ銃声が消え去らぬ内に廊下の突き当たりにあるドアを蹴破って、事務室に突入した。
 向い合わせに並べられた事務机で縄張りからの売り上げを帳簿に書き込んでいた者、現金を勘定していた者たちへも熱い銃弾を見舞う。四発の銃声が長い一発に聞こえるほどの速射であった。建物の堅牢な構造と気密性ゆえに屋外に漏れる銃声は小さい。
 半分程に減ったベレッタの15連弾倉を交換して、奥の部屋へと移動する。これ見よがしに黒塗りの大きな金庫が置かれた組長室は無人だった。
厳めしい外観の金庫の前に立った村上は、特製のカスタム・ナイフを抜く。金庫の前面から扉の厚み分奥まった側面にナイフの切っ先を全力で突き立てた。金庫に使われる金属は硬さより靭性を重視し、粘り強い金属板を何層にも重ね、耐熱性やドリルでの穿孔に抵抗する硬鉱石粘土などをサンドウィッチした構造だ。しかし、村上の鍛えた筋力とダイヤモンドに匹敵するHRC65の硬度を持つ超硬合金製の刃は、金庫の特殊鋼に易々と食い込んでいった。缶詰でも開けるかのように、床面を除く三方の側板を断ち切る。さすがの特製ナイフも切れ味が鈍った。上側の切断溝にナイフを突き差し、梃子にしてこじ開ける。扉部分が倒れ、金庫の内部が剥き出しになった。
 村上は、ナイフをシースに収め、ようやく一息入れる。腕時計で時間を確かめる。人を殺すより、金庫を壊す方が手強かった。
 気を取り直した村上は、デイ・パックに金庫に収まっていた現金と裏帳簿の類いを放り込む。次に、事務室の机の上から数えかけの紙幣も同様にリュックに詰めた。
 正確な金額は数えてみなければ分からないが、二千万円以上はあろう。もっとも、暴力団組員八人を殺して、この程度の稼ぎでは割に合わない。
 村上の真の狙いは現金ではない。これをきっかけに動き出す何かがあるはずだ・・・

(3)
 暴力団事務所襲撃から二日経った。村上は、事件が新聞にも載らないことに焦った。事件の隠蔽工作はしていない。むしろ派手に騒がれるものと考えていた。襲われた暴力団の残存者が動いている気配もない。暴力団の組織規模は知れないが、恐らく数十人の関係者が口を噤み、或いは消息を断っていると思われる。村上の知らぬところで圧力をかけた者がいるに違いない。
 印刷工という表の勤務を終えて帰宅した村上は、ドアの隙間に差し込まれたチラシに気づいた。村上の自宅の周辺は、他に一軒も住宅が見当たらない辺鄙な場所である。新聞配達すら断られたほどだ。チラシは、駅前にあるビルの空きテナントを紹介する不動産屋のものである。
「ここに来いってことか」
 村上は、呟いた。インサイド・ホルスターに32口径のリボルバーを突っ込んで出掛ける。
 松本戦争から三年、急速に整備されつつある駅前の風景は、きらびやかに乱舞するネオンサインと真新しい高層ビルの林を出現させていた。テラコッタ・パネルで装飾された歩道や翌桧の街路樹。城下町の旧い趣きを残しつつ、現代的な建築が同居する町並みへと変貌しつつある。
 村上は、カーテン・ウォール六階建てのビルの玄関を潜る。エレベーターの脇に各階のテナントの案内掲示板がある。地階は喫茶店とレストラン、一階はホール、二階から上はアパレル・ショップにファンシー、エステ・サロンに美容室、居酒屋チェーンにキャバクラ、プール・バーに英会話教室やビジネス・スクールが雑居している。
 村上はエレベーターを使い、五階で降りる。静まり返ったフロアを横切り、非常階段を上る。上り切った先は半分が屋上で、残りの敷地にこのビルのオーナーのペント・ハウスが建っている。建坪にして三十坪程の、ペント・ハウスの玄関の前に立つ。玄関には、ビル管理会社の看板が掲げられている。住人を示す表札は、無い。
 村上は、覚悟を決めると呼び鈴を押す。安っぽいチャイムの音が室内に響く。
 玄関の内側に人の気配がした。ドアが開き、ペント・ハウスの主人が顔を出す。まだ若い長身の男だ。年齢は、村上とさほど違わなく見える。男は、村上を招き入れた。

 玄関を潜り、廊下を挟んで右手側は洗面所とトイレ、給湯室。左手の十畳程がビル管理会社の事務所になっているようだ。その殺風景な部屋に通される。
「楽にしてくれ。今、お茶でも用意しよう」
 男は、キッチンの方へと向かいかけ、それを村上が引き留める。
「呼び出した理由を聞きたい」
「蛇の道は蛇。最近、派手な仕事をしたようだな」
「何の事かな?」
「トボけなくていい。僕は、敵じゃない。もっとも、味方でもないがね」
 村上は銃を抜く。男の反応の方が素早かった。村上の手を銃ごと掴み、手首を返して体落としをかける。俯せに倒れた村上の肩甲骨の下端を膝で押さえ付け、銃を奪い取った。
「そう死に急ぐな。僕の名前は、矢崎猛弥。矢崎圭介の弟さ」
 男は、口の端で不敵に微笑み、村上から離れた。

(4)
 矢崎猛弥と名乗った男は、村上がアラスカで出会った矢崎の弟だというが、その体格や面貌に似通ったところはない。
「孤児院にいた頃の義理の兄弟でね。似てないのは当然さ」
「お前も裏稼業なのか?」
「先輩に向かって、お前呼ばわりはないだろう?」
 悪戯っぽく猛弥は言った。実力が全ての裏稼業に年功序列など意味がない。だが、力量の差は先程、証明された。村上は、素直に負けを認める。
 猛弥は、キッチンからコーヒー・ポットを持って戻った。
「村上君、君を呼び出したのは他でもない」
 猛弥は、ふたつのカップにコーヒーを注いで、ひとつを村上に渡す。
「滝川がやろうとしていた事。その後を継いでもらいたい」
「意味が解らん」
「裏稼業を潰しにかかっている組織がある。それは知っているね?」
 カップを口へ運びながらも、猛弥は村上から目を離さない。氷のように冷たい瞳だった。
「生憎、俺は、いつも蚊帳の外に置かれていた」
 村上は、コーヒーに口をつける。毒入りではなさそうだ。
「ふむ。私利私欲、個人の利益には加担しないのが裏稼業の掟だ。この前、君が独りでこなした仕事は、裏稼業のそれではない」
「俺は、裏稼業なんかになった覚えはないぜ。それに掟だか仕来りだか知らんが、殺しの仕事に綺麗も汚いもありゃしない。殺された奴には悪いが、こっちも命懸けだ」
 村上は、手にしたカップを荒っぽく置いた。
「君の彼女が死んだ時も、そう割り切っていたら、良かったのにな」
「・・・・!」
「滝川たちは、君の仇討ちに協力しようとしていた。だが、君は身勝手な振る舞いをし、ただの犯罪者に堕落してしまった」
 村上の頭に上っていた血が一挙に下がった。返す言葉もなく、村上は青ざめた。
「それは・・・」
 村上は、必死に反論を探す。
「君が殺したのは、彼女の仇だったのかい?」
 猛弥は、穏やかに止めの一撃を放った。
「裏稼業は、個人の私利私欲には加担しない。裏稼業は、君の復讐の代行はしない。その代わり、仇討ちのお膳立てはしてあげよう。それが不慮の死に至った麻紀さんへの罪滅ぼしになるならと・・・」
「ふざけるな」
「ふむん。済まない。滝川や黒崎は、そんな感傷的な人間じゃない。罪滅ぼし云々は、僕の勝手な想像だ」
 猛弥は、村上の心理を掻き乱しながら話を続けた。
「彼女の事件は、警察内部でも有耶無耶の内に終止符が打たれた。法を捩じ曲げ、警察に圧力をかけることが出来る権力の持ち主が裏稼業の消滅を謀っている。状況は違うが、君が起こした、この前の事件もそうだ。君の名前は、明るみには一切出ない。だが、確実に、知る者は知っている」
 猛弥はコーヒーのお代わりを勧め、村上が断ると自分のカップだけに注いで、ポットを置いた。
「俺に、どうしろと?」
 村上は、無駄な抵抗を諦めた。理由がどうであれ、村上は殺人を犯していた。言い訳も弁解の余地もない。猛弥は、カップ越しに村上を見据え、言った。
「君に仕事を請け負ってもらいたい。無論、報酬もバック・アップも保証する。ま、無理にとは言わない。敵に回ると言うのなら、迷わず殺すまでさ」
 ぞっとするほど冷ややかな瞳で、猛弥は微笑んだ。
「・・・結局、金、なんだな?アンタたちの頭ん中にあるのは、金の事ばかりか。アンタが、こんなでかいビルのオーナーに収まれたのも、金があればこそだ。一体、何人殺して手に入れた?」
 村上は、精一杯の嘲りを込めて、睨み返した。
「まあ、いいさ。アンタは、俺を囮にして敵の出方を探ろうって腹だろう?そのプランには、俺も賛成だ。言われなくても、やるさ」
「君が呑み込みの良い人間で良かった。さすが、僕の兄貴のシゴキに耐えられただけのことはある」
 猛弥は、嬉しそうに笑う。村上は、すかしては引き、貶しては煽てる陰険なまでに賢しい物腰とは裏腹に屈託のない笑顔を見せる猛弥の本性をどう推し量ったらいいのか戸惑っていた。
 この世には、人間の皮を被った怪物が棲んでいる。こんな奴らが表だってその能力を発揮したなら、歴史に名だたる名君になるか、恐るべき暴君になるのか?
 村上は、心底、恐怖を覚えた・・・


(第7章「空蝉」END)