反抗論あるいは自由と情熱
   ――『LOVEppears/浜崎あゆみ』論/万里小路 譲
 
 
 揺らぐようなブロンドの長い髪が小高いふたつの乳房をかろうじて覆い、臍の下をはだけるようにジーパンに両手をかけた、浜崎あゆみのセカンドアルバム『LOVEppears』(一九九九年十一月)の、上半身を裸にして屹立しているジャケットは、セクシーなポーズを少し超えている。唇をかすかに開け、黒く染められた睫毛のなかに佇むブラウンの瞳は、見るものを見つめ返しているようでもあり、白い肌が投げ返しているのは、エロスの世界を深層に予感させながら、一個の存在が放ちうる挑戦であるように思われる。ガラス窓の向こうの高層ビルはおぼろげな灰色で、その下方に走る車の群れをバックに直立している身体は、したがって、ある種の決意を秘めている。
 挑発的なカバーと対照的に、彩りある表情を覗かせている少女が、ブックレットの中に収められている。そこに垣間見られるのは、微笑と哀切、夢想と渇望、期待と不安、戯れと安らぎ。そして、ある予感――たとえば、響き渡る音の世界に伴って、繰り広げられ、したためられる思念と想念。――最後の頁に何気なく記された自筆の文字にも感じ取れるのは、自由と反抗と、そして情熱のありようである。
 人生には、変わらない日常にさえ、いずれ何かはやってくる。戦闘に似た営為が日常だったと気づくのに、一生はいらない。ほんの失意と落胆があればいい。生き継いでいかねばならぬ営みがここにある。己れの意識の二律背反に気づくことから、生きる熱情はやってくる。強さに触れうるのは、克服すべき弱さがあったからであり、失うものがないと自覚しうるのは、守るべき何ものかを捕らえたからだ。己れの因って立つ磁場は、己れが意識的に志向しうる世界にしかありえない。
 プレーヤーにCDをセットすると、機関銃の連射のような音があって、それが「Introduction」である。無数の閃光のように音が放射されゆく。そして、人の声が大地の底から響き渡ってくるように思われる。それは、生きることが戦闘に似た営為であることを、告げている。そして、〈守るべきもの〉を手にした者の自信と自負は、第一曲の「Fly high」の乾いて軽快なメロディーによって示されている。
 コンピューターによるプログラミングとミキシングの新しいサウンドと対照的に、変わらない人間の心の懐かしさがここにはある。デリケートな柔らかさがリズムマシーンの武装で守られており、ヒューメインな哀切さが駆動するサウンドに乗せられている。浜崎あゆみの音楽に見るものは、流行と不易の領域が相俟って表出されている新たな世界である。そのイノベーションとは何であるのか。
 たとえばグスタフ・マーラーの『リュッケルトの詩による歌曲』をワルトラウト・マイヤーのメゾ・ソプラノで聴いたあと、浜崎あゆみの音楽に耳を澄ますと、歌が内包している相違と相似の神秘に触れてしまう。クラシック音楽と現代日本歌謡に垣根がある一方、空気は双方向に流れ、深層では地下水が交流しているように思えるのである。
 世界苦――それはマーラーの感性を規定していくが、第三者に演奏されることで癒される磁場がここにはある。研ぎ澄まされると同時に、そこでは感性が昇華されてゆく。そこには思惟の空間が展開されると同時に、陶酔の時間がそそぎこまれる。人間の苦悩が、それがあたかも第三者のものでしかないように、内省の沈着した声の響きによって伝えられてくる。煩悶でさえ朗々と歌われるのはそのせいだ。悲痛の叫びは、沈黙の闇のなかでこそ、美しく響き渡るにちがいない。何よりも澄んだ響きがそれをよく伝えている。
 一方、浜崎あゆみの声は、16ビートのデジタル音響のなかで立ち上がってくる。声が十全に響きわたるよう求められるクラシック音楽の歌い手とはちがい、シンガー・ソングライターたちの声音が個性的であるのは、呟きから叫びにいたるまで肉声が電気によって増幅や変容が可能になったからだ。
 マイヤーが悲愴を超越したある種の高みに立っているように思われる一方、浜崎あゆみは現代という混迷のどん底にいて声を振り絞っているように思われる。悲痛はまちがえようなく己れのものであり、歌い手は蒼ざめながら不断にそれをふりほどいていくほかにない。
 二律背反の感性なら、いたるところにある。強さは弱さの裏側にあり、喜びは悲しさの裏側にあるだけではない。それらは、入れ代わる瞬時のうちに、まるで同居するように混在している。そして、生きるとは、伝達しうる相手にメッセージを伝えることだ。
 マーラーの音楽が後期ロマン派の熟成したワインの香り高い世界で鳴っているとすれば、浜崎あゆみの音楽は現代という金属質の冷たいテクノサウンドの世界で鳴っている。身体自体が楽器のように鳴りわたるマイヤーの喉仏とは違って、押し殺されたように響いてくる声音の狭められた喉の細い空間はそんな世界のせいだ。絞り出されるように通ってくる声は、自由と反抗と情熱の攻撃布陣を敷いてやってくる。
 相違にもまして驚くべきは、相似である。それは、歌が内包しているメッセージであり、メッセージを伝達しようとする意志である。その内実を言葉で説明することは難しい。音楽それ自体がすでに、この世に生を受けた者の孤独と悲哀を伝えているからだ。
 存在苦――反抗が沸き起こるのは、抗しうるものがあるからであり、マイヤーと浜崎という二人の歌姫たちが作りえているものは、この世における祝祭の可能性である。祭事――それがあるのは、この世界という舞台には、苦難が満ちあふれているからだ。
  一歩退いた位置から、ものの表裏が見えてくる。千の眼を持つと言われるシェイクスピアの世界観は、栄華と没落を青年期のうちに経験したことと無縁ではない。見せかけ(appearance)と現実(reality) 、光と影、表と裏―― 二律背反を嗅ぎ取る天才は己れが習得したものだ。そして天才は、ただ人間の生き様を舞台に提示してみせたにすぎない。大学などに行けなかった生い立ちもまた幸いした。固定観念にとらわれずにすんだからだ。つまり、教えられずにすんだからだ。浜崎あゆみもまた、類似の眼を持っている。そして、己れの眼だけが世界を洞察することができる。
 手をつないでいる恋人たちを見る眼は、複眼思考に支えられている。チョムスキーなら《見せかけ》は表層構造から、《真実》は深層構造から見えてくると述べるにちがいない。とはいえ、浜崎あゆみがシェイクスピアの視座から離反してゆくのは、次のようにフレーズが続いていくからだ。
 客観から主観、認識から告白へと傾斜しながら、内省を繰り広げている一個の存在がここにいる。つまり、かぎりなく己れの世界へと沈潜しながら、シェイクスピアなら役者に語らせたであろう独白を、彼女は自分自らが行っている。
 マイヤーが苦悩を歌い上げてある種のカタルシスの高みに立ちえていたのと同様に、シェイクスピアはこの世の悲惨と苦難を舞台に表出させる。一方、浜崎あゆみは、我が身に浴びながら突き進むしかない苦悩と悲惨を前にしている。したがって、見る人とは観察する人のことではない。それは煩悶する人間であり、苦悩と悲惨は他人事ではなく、いつでも我が身に降りかかってくる。世界は舞台であるにせよ、病んでいる人間を己れが演じているのではない。己れ自身が病んでいるのだ。
 信頼に値するものは、人から与えられる教訓ではない。煩悶しながらも、自らがそれを求めなければならない。たとえ見えすぎたとしても、己れの眼だけが己れの心を洞察することができるからだ。次の「immature」には、見えすぎることの混乱と、その克服の戦いの結実が見て取れる。
 英単語はほとんどが多義語であるゆえに、曲名から広がりゆく世界がある。〈未熟な。幼年期の〉を表す「immature」は、もうひとつの語義〈未完成な〉を併せ持つ。生きることが途上である時期にあるからこそ、見えてくるものがある。ただ、見るに耐えられるほど成長してはいないのだ。悲痛が美へと昇華してゆく磁場に取り込まれる。近代化とは、廃墟への道程を進むことであると同時に、廃墟を消去する道程を歩むことである。リズムマシーンが鳴り響く灰色の街を、サイボーグが歩みゆく。束縛から自由へ、衰退から熱情へ、孤独から反抗への企てが、存在する理由のいっさいである。
 最終曲「Who・・・」のけだるいサウンドには、戦いぬいたあとの安堵とやすらぎが感じ取れる。……しかし、戦いはまだ終わってはいない。最終曲のあとのしばらくの沈黙を経て、ギターの十六分音符の下降音で飛び込んでくるシークレットトラックの不意打ちは、もともとはなかった時空間へと現出せしめた音楽という独創を表象している。
 カナリヤが泣かなくなった理由に人々は関心がないように、心の崩壊のことにも、廃墟と化した街のことにも、理由を探しても、もう元には戻らない。都市空間の荒廃と引き換えに得たのは、歌であった。メロディーは、Fmキーの四度の音であるサブドミナントのB♭に辿りついて宙に浮いたまま、解決しないでバックコーラスとリズムセクションに曲を委ねゆく。ちょうど、この世の生がそうであるように、反抗も自由も死ぬまで終わりはない。
 アルバムタイトル『LOVEppears』もまた、複合的な意味合いを持っていることを超えて、合成語であることを思い起こさなければいけない。それは、〈LOVE〉と〈appears〉を合わせた語であるが、現実と真実、表層と深層、それに二律背反の世界を暗示しているだけではない。それは、企てなければなかったもの、自己を創造の世界へと企投しなければ得られなかったもの、すなわち、押し殺した声をもういちど押し殺して現出せしめた反抗を表出している。多数によるコラボレーションの結実である音楽という奇跡が、こうして起こった。
  万里小路譲著『うたびとたちの苦悩と祝祭――中島みゆきから尾崎豊、浜崎あゆみまで』(2003年/新風舎)より