【♦メンタルケア編~Episode15~】の続きになりまぁす!
最近は、脱線傾向になっていましたので、そろそろ本編へと戻そうかと思います(笑)
素人とは言え、どうも読みにくい構成になってしまい皆様には、ご迷惑おかけしておりまする・・。( ;∀;)💦💦
ここからは、私の過去について、徐々に触れていきたいと思います。
私の過去と言いましても、きっと皆さん普通の人生かと、お思いの事だと、思いますが・・。(笑)
いえいえ・・普通の人が経験しないような色んなことを、この歳で私は経験してきていたりします。
それは・・、この後書いていきますので、気になる方は、ぜひご覧になっていってくださいませ~✨✨
少々長めですはありますが、覚悟はいいですかね??♪では、レッツゴー♪
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――続き。
2019/1/7 11時前頃、現在左目がチカチカしている。
これは・・なんだろう?実は以前にも、これに似たような経験をしたことがある。
あれは私が出産を控えた頃の出来事だった。
私は帝王切開をして早産としてこどもを産んだ。
これは、私の子どもが誕生する予定日の2か月以上も前の忘れられない出来事である。
――妊娠が分かり、普通に妊娠出産した人の大半の人が経験したであろう
つわりに、安定期に入るまでの間、結構苦しんだのは、
今思えば、とても懐かしいと感じてしまう私の懐かしい思い出である。
私のつわりは、驚くほど早く妊娠8w目頃から来てしまっていたため、
それからと言うもの・・炊飯ジャーの炊けるにおいに悶絶したり、
食欲減退で何も受け付けなくなってしまったりと、あからさまに、ひどいつわりだった。
一見・・ただのつわりでしょ?って思う方も、いらっしゃるかと思いますが、
私のつわりの場合、吐きづわりだったので、困ったことに、いくら空腹でも食べ物を口へ入れると、
すぐさま吐き出したくなってしまったり、胃の中へどうにか入れたとしても、
少し時間が経過したかと思うと、急に吐き気を催し出したりと、せっかく摂取した食べ物を
体内に吸収する前に、吐き出してしまうため、とにかく大変だった。
その中で、私が唯一摂取できたものは、«酢»が入った食べ物。
稲荷ずしや酢の物でした(笑)♥なので、母が私の家に、しょっちゅう持ってきてくれていました。
つわりで苦しんだ方には、ご理解いただけるかと思いますが、
これほど、ひどいつわりだと、家事やらが、なぁーーーーんもできないのです。( ;∀;)💦💦
うそでしょ?って思う方も、いらっしゃるのかもしれませんが、これまぢです!!💦💦
« 動くと体力消耗 ⇒ お腹減る ⇒ 食べる ⇒ 吐く ⇒ 倒れ込む ≫
これを、無限ループします💨💨これ聞いて、動けると思いますか?(笑)♥
経験者としては、まぢきついっす!!!( ;∀;)💦💦
家事をやりたい気持ちがあっても、身体がキツイのです。
もちろん日によっては、体調良い時もあるため、その時には、何かしらしますが、
たいてい動けないので、横たわっている日々になるかと思います。
で!!!(´◉◞౪◟◉)
話しは、先へと進みますが、そのつわりとは
妊娠8wから4、5カ月近くまで、一般的にも安定期とされる時期になるまでの間は、
さんざん苦しんだ後、ようやく落ち着いて、時を経て、予定日である、7月半ばまで、
どきどき~♪わくわく~♪しながら、ただ待つ日々でしたが・・。
その楽しみを打ち壊す時が、
徐々に近づいていることに、この時の私は知る由もなかった・・。
気付かなかった・・。いや、気付けなかった。。
――その出来事の前に、この話も出産秘話に関係している。
当時の私達夫婦は、これから誕生する我が子のためにも、私達夫婦の夢でもある、
マイホーム購入を検討していた時期でもあった。
このマイホーム購入に関しては、大変苦労した・・。
どう苦労したのかと言うと、私の父と、大揉めしたからだ。
揉めることは、想定の範囲内だった。が、しかし、予想をはるかに上回るほどの大揉めだった。
その事で、私は、とてつもないストレスを抱えてしまっていた。
もちろん、その事をストレスだと思いたくはなかったが、
いくら反対でも、時間が経過すればきっと自分達の決断を、いつかは応援してくれるのだと、
心のどこかで信じていた分、自身の両親に、そうしてもらえないことが分かると、非常にショックだった。
それは・・私だけでなく、夫も同様のようだった。
本人は大丈夫と言いつつも、気付けば、胃潰瘍を複数作ってしまうほどだった。
私の両親の反対を押し切って、最終的に購入に至ったマイホームだったが、
正反対に、夫側の両親は、私達の決断を初めは、反対しつつも、
最終的には、応援してくれていたことが、この時、私達の唯一の支えになっていた。
このマイホーム購入をしてからと言うもの・・
私の両親とは、徐々に疎遠のようになりつつあり、私のストレスは膨らむ一方、
この頃には、私の体調にも徐々に影響してきていた。
母とは連絡はとっていたが、父とは疎遠のような・・そんな感じ。
体調の変化として、時々目がチカチカと光るような感じになったかと思うと、
急に目の前が暗くなったりして、次第に気分が悪くなったりすることがあったり、
足が浮腫んできていることなどもあった。
しかし私は、ゴールデンウィークの連休を使って新居へ引っ越しすることもあり、
その疲労感が蓄積されたことで、体調に不調を来しているものだと、
思い込んでしまっていたために、それほど難しくは考えていなかったのだが・・。
気になる点は、他にもあり・・
私のお腹のこどもは、結構激しめの胎動だったのだが、
それを日々感じる回数が、徐々に感じられなくなってきていたことが、特に不安だった。
浮腫みは、ひどくなってきており、全身浮腫んでいたことも、心配事の一つだった。
そんな中、5月。新居に引っ越した後、私側の両親がなんと!!
マイホームを見に来てくれる事になった。
父は来る予定ではなかったようだが、結果的に足を運んでくれたことに関して、
私は、その喜びを隠しきれなかった。
物を言わなくとも、目を合わさずとも、ここまで来てくれたことに関して非常に感謝していた。
それと同時に、私の母から顔を合わして真っ先に言われた言葉と言うのが、
「あんた、その顔どしたん?
えらい(すごく)、浮腫んでから。」そう言われた後も、
「早く病院へ行ってきなさい。」と、繰り返し言われていたのだが、
私はそれほどまでに、自身の浮腫みがひどいものだろうか?と、
疑問にすら思ってしまいそのままにしていた。
だが、その翌日になっても、母から連絡があり
「病院に行ったのか?」と、しつこく聞かれるため、
その日のうちには、かかりつけの産婦人科へと向かうことにした。
でも・・受診したこと、それは大正解だった。
今は、私の母に本当に感謝しています。
本当に受診を勧めてくれて、ありがとうございました。
――5月6日。病院に到着後、初めは、医師から浮腫みは、
妊娠するとみんな浮腫むものだから、と、説明されていたが、次第にその医師の顔色が変わっていき、
一度診察室を後にしたにも関わらず、再び診察室へ呼ばれた時点で、
何となく嫌な予感がしてしまっていたのだが・・。
その予感は、的中してしまう・・。
先生「お母さん(私の事)、落ち着いて聞いてください。今から大きい病院宛てに紹介状を書くから、
おそらくその病院の先生の判断にもよりますが、今日の今日で入院して手術になると思います。」
私・夫「・・・えっ!!?💦」
私の頭は、完全にパニックだった・・。真っ白になった・・。
だって・・、え?予定日は、7月半ばのハズでしょ??
まだ5月6日だけど??え??え??えぇぇーーーーー・・・。なぜこんなことに・・??
病院の紹介状を渡され、すぐさま自家用車で、指定された大きな病院へ向かう道中、
私は、自分の涙で前が見えなかった・・。拭っても拭いきれないほど・・。
ただ・・ひたすら、一緒にいてくれていた夫の手を、強く握りしめていることしか出来なかった。
たしか、この時夫の顔すら、見れていなかったと思う・・。
病院の緊急窓口に到着するなり、「救急車で来るものだと思った。」と言われたりしたことも、
すぐさま病棟看護師さんが降りてきて、車椅子へ乗るよう促されたのが、
この時、頭が理解していないわけではないが、心が付いて行っていない分、
能力的には、問題なく歩けそうだったために、なぜか車椅子を断って歩こうとしていた私。
それほどまでに、混乱していたのだと思う。
病棟に上がるなり、エコー検査やら色んな検査を行って、個室の病室へ搬入され、医師に言われたことは、
「今から帝王切開をして、すぐにでも、こどもをお腹から出さなければ、お子さんは・・もちません。
取り出すには、まだ早い時期ではありますが、このままお腹に居れば・・まず亡くなってしまうでしょう。
そうするよりかは、リスクはありますが、すぐに手術した方がいいと思います。」
夫と顔を見合わせ、パニックしている私は必死に自分の頭と心を冷静にするようにして、
こどもを何とかして救いたい一心で、「先生、お願いします。」と、それしか私は言えなかった。
返答したものの・・。心が付いていかないまま手術となって・・
手術室へ搬入となってからと言うもの、あっという間に、私は全てを終えて病室で横たわっていた。
時間にすると・・
午前中の11時頃、かかりつけ産婦人科から衝撃的事実を告げられ、
紹介状を受け取り、大きい病院に到着後、すぐさま手術室へ向かい、
こどもをお腹から取り出して、病室に帰った時間は、午後3時だったと、私は記憶している。
一瞬で、目まぐるしく状態が変わってしまった私。。
頭は、その手術が終わった後も、付いていけていなかった・・。
病室へ帰ったこの頃の私は、身体に異変が起こっており、震えが一向に止まらない・・。
どのくらい震えが続いていたのかは、もはや覚えていないのだが、
おそらく一時間ほどか?もしくはそれ以上続いていたのかもしれない。
だが、気を失ったりはしていない。医師から後に聞いた話だが、
気を失っていたら、私の命も危険だったようで、
そのことが唯一ホッとした点でもあるそうだ。
――そして、私のこどもは、この世に誕生後、
保育器に搬入され、2ヶ月もの間、NICUに入院することになる。
我が子は、864gという、超低出生体重児としてこの世に誕生した。
大きさをイメージしやすく言うと、両手で水をすくうように合わせて、
WM型の(両手両足を伸ばさない自然な状態)、こどもを保持できるほどの大きさです。
でも誕生してすぐの状態としては、非常に危険な状態だった。
こどもの主治医からこの時は、恐ろしいことも言われていた。
「今のお子さんは、消化機能が機能していない状態で、呼吸も現状としては、自発呼吸が困難なため、
人工呼吸器で補助が必要です。念のためにも最善の事はしますが、覚悟してください。」
こわい・・。こわすぎる・・。
最初の状態としては・・
人工呼吸器や心電図モニターなどを、小さな体で装着し、
点滴を両腕・片足と、保持板に拘束された状態で、見るからに痛々しい・・。
目は、黒いアイマスクで保護(早く誕生したため、体内同様の環境を演出するために必要)している。
あとは、保育器に24時間入れられ、看護師さんが付きっ切りで援助をしてくれる。
私は私で、急変の可能性、帝王切開後と言うこともあり、
動けない為に、我が子を見に行くことも許されない・・。
見に行くことが出来たのは、翌日で、それもストレッチャーに寝そべったまま、
顔を見に行ったのが初めてだった。
いや、厳密にいうと、初めては出産直後に取り出してすぐ見せて下さったのだが、
私は非常に目が悪いため・・コンタクトレンズを外した状態では、何も見えていなかったというのが正しい。
そのこともあり、メガネをかけて子どもを一目見ることが出来たこの日は、
私にとって、赤ちゃん、初めましての日だったのだ。
私達夫婦の宝物、可愛い小さな天使くんの誕生秘話でした(-ω-)/✨✨
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はい!!中々の長文になってしまいましたぁ。。
みなさん退屈していませんかぁ??(笑)♥♥今回は病気になる以前の私の過去の出来事を
またしても赤裸々に綴らせていただきましたぁ~♥中々濃厚な経験でしょ??
普通の人が経験しない様な事を、この年齢にしてすでに、結構体験してしまっております。|д゚)
体験したくてしているわけではないのですが・・。
起こってしまったことには、これまでも真摯に向き合ってきております。
物語は、出産について記録していますが、念のためもう少しの解説をしますと、
~Episode1~から、読者して下さっている方はお分かりかと思いますが、
我が子は、現在元気に生きています!ですので、ご安心くださいね☆彡
以上!!では、またどこかで続きを書くでしょう~~( *´艸`)♪♪
アディオス~~(-ω-)/✨✨