西宮・山口_地域情報
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竹細工ワークショップ

~天平装束着付け体験もあります~


山口五郎左衛門時角 異聞録

 山口五郎左衛門時角は、戦国時代末期、丸山城を拠点に、山口町とその近在を治めた3500石の在地領主として伝えられています。が、羽柴秀吉の三木城攻めの際に滅ぼされたといった諸説はあるものの、確かに実在したという記録が無いため、山口村誌、山口町誌でも、その存在や生涯を断言できていませんでした。

 ところが、令和8年、NHK大河ドラマ「豊臣兄弟」で三木城攻めが描かれる中、山口町郷土資料館に「山口五郎左衛門の子孫」を名乗る方が来館されました。代々、そのことが受け継がれてはきたものの、詳しいことはわからないので調べるうち、郷土資料館のホームページをご覧になって来られたそうです。

 そこで、本稿では、「山口五郎左衛門は実在した」ことを前提に、時系列を追って整理してみたいと思います。ただし、あくまで想像の域を出ない展開になりますので、「歴史小説」的に解読して頂ければ幸いです。

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山口五郎左衛門時角 異聞録

 昭和26年に西宮市と合併した山口町は、太古から、船坂集落と有馬川流域集落(中野、金仙寺、上山口、下山口、名来)からなり、古湯有馬温泉や丹波・播磨へ通じる交通の要衝として栄えました。船坂の「舟」は「湯舟」を指し、山口は「湯山=有馬温泉への入り口」がその名の起源と言われています。有馬に通じる湯山街道は、「生瀬から太田川を右に左へと渡りながら船坂まで遡上し、いったん金仙寺に下ってから有馬に上る」というルートでした。この金仙寺集落を眼下に見下ろす丸山に、山口五郎左衛門時角の居城がありました。 金仙寺の反対側には、後に整備された「丹波街道」も見下ろすことができ、まさに、交通の要衝といえる立地といえます。近年の調査でもこの丸山は城塞としての機能を備えていることが確認されています。

 現在は、宝塚から名塩を経て山口、三田へ至る国道176号線がありますが、これに並行した「丹波街道」は、名塩から平尻、平田(神戸市北区道場町)へと山尾根づたいに抜け、三木(播磨)へもつながる道でした。秀吉が三木城攻めの際、山口と名塩の村人に丹波街道の拡張工事を命じていますが、これは湯山街道では大量の兵站物資を輸送するには険しすぎるからだと思われます。逆に、後に織田方に反旗を翻した荒木村重は、この裏道となったルートを利用して三木城と通じていたと言われ、今でも、有馬から三木へ通じる道を地元では「湯山街道」とよんでいます。船坂から金仙寺に下らず、有馬(温泉)へ直接抜けるルートもあるにはありましたが、難ルートであるため迂回されていたのですが、おそらく村重はこの難ルートを利用したと思われ、その道案内役として山口五郎左衛門が重宝されたであろうことは想像に難くない。

 播磨国をはじめ、その周辺地域は、応仁の乱でも南朝・北朝に分かれて争いの続いたところですが、戦国時代に入り赤松氏が守護代となっても、一族の中で内紛が続き、紛争が絶えませんでした。そんな中、加東郡別所在住の一族が「別所氏」を名乗って三木城に本拠を置き、東播磨を領する国衆として勢力を拡大、やがて赤松本家を凌ぐ勢力となっていきます。湯山街道沿いにある淡河城主はこの別所家の縁戚にあたります。

 一方、三田・神戸市北区・山口・有馬一帯(旧・有馬郡)を領したのも赤松一族の庶流で、「有馬氏」を名乗りますが、有馬重則は、永禄元年(1558年)、同族の淡河に攻め込んで戦死、その子(有馬則頼)が跡目を継いで、以後は三木の別所長治に追従しています。この頃、山口五郎左衛門時角はまだ幼少でしたが、山口氏が山口町とその近郊を治める名主であり、三木方の勢力圏内にあったと考えられます。また、道場町を治めた松原氏も同じことが言えます。

 それから16年後の天正2年(1574年)、織田方についていた荒木村重が、摂津一円に侵攻し、同5年(1577年)3月までに、有馬郡までを手中に収めます。この時、有馬則頼は追放され、跡目を継いでいた山口五郎左衛門時角は、荒木村重に降参します。降参の意味は滅亡ではなく、荒木方の配下となったということです。

 天正5年10月、信長の命を受けた秀吉が総司令官として播磨攻めを開始、毛利と対峙しますが、その最中、天正6年(1578年)3月、三木の別所長治が反旗を翻し、天正8年(1580年)5月までの長きに渡って続く三木城合戦へと突入します。

 この動きに呼応して、天正6年10月、荒木村重も謀反を企てますが、湯山街道を利用して三木方と通じていたと言われています。この時の山口五郎左衛門の記録は全く残されていませんが、三木方と内通していたと思われる道場の松原氏は、翌天正7年3月、自害に追い込まれていることからして、この時、五郎左衛門は山口には留守居役を残して、村重の有岡城にいたのではないかと推測されます。事実、天正6年末から7年にかけて、織田方の武将塩川永満が三田方面から有馬郡に侵攻した際、松原氏や三田城主荒木重賢を自刃に追い込んでいるが、山口城に関する記述は残されていない。これは、城主不在の無血開城とみるべきではないだろうか。五郎左衛門の妻子が安堵されたのもうなづける。幼子が二人残されたという記録から、有岡城で最後をとげた五郎左衛門は、享年30才前後であったと推測される。

 天正7年(1579年)9月、荒木村重逃亡、天正8年1月、別所長治切腹をもって、三木城合戦は終わりを迎えたのでした。

 その後、遺された二人の男子は、一人は江戸へ出て出世し、山口町の公智神社に手水鉢を寄進している。

 もう一人の男子というのが、冒頭紹介した方の始祖にあたり、大阪方面で出世したと伝えられています。


山口・地域探訪(1)

山口地域の秘密を紹介していきます。
このサイトをご覧になりながら、山口を探索されると、たっくさんの秘密を発見していただけると思います。

普段は誰もいない閉ざされた御旅所に、一年に一度だけ、タイムスリップ。


天平装束

平城京天平行列(5月3日)

ここで使われている装束をお借りして、2013年に「孝徳帝行幸再現行列」を実施したことがきっかけで、郷土資料館でこの装束を購入することとなりました。その後、西宮山口アルキナーレとの同時開催、郷土資料館春秋の企画展でこの装束を活用してきましたが、さらなる企画として、この天平装束をまとった天女の舞として「厳島五常楽」に注目、その舞人の育成に力を入れております。今年(2026年)は、本家の平城京朱雀門にて「厳島五常楽」を舞わせて頂きました。
※「天平装束着用体験」…要・予約
…郷土資料館では、「天平装束着用体験」もできます。


孝徳天皇

 孝徳天皇の大化三年(647)の条には「(大化)三年冬十月甲寅朔(きのえとらついたち)甲子(このえねのひ)、天皇幸二有間温湯一、左右(ひだりみぎ)大臣(おおおみ)・群卿大夫従焉(まえつきみたちおはみともなりしたがえり)。十二月(しはす)、晦(つごもりに) 天皇還(かえりまして)ㇾ自二温湯一停二武庫(むこうの)行宮(かりみやにとまりたまう)一」と記述されている。前年の大化二年に大化改新が実施されて、公地公民の制の確立、地方行政区画の設定、戸籍・計帳による班田収授法の実施、新税法の制定などが行なわれた。天皇の入湯は、こうした政治の大改革を終えられた翌年のことであり、単なる入湯を目的としたのではなく、国政の視察も兼ねての湯治ではなかったかとも考えられる。

 しかし、孝徳帝の入湯時につくられたとされる行宮の所在地については、いまもって定かではない。『日本書紀』においては、これについての記述はなく不明である。有馬地域では、古くから同町の「杉ヶ谷」近くであったという口伝や古老の話はあり、お宮跡・てんのう屋敷などと呼ばれている地がそれである。だが確実な遺構や遺物が残っているわけではない。

 孝徳天皇は左右大臣をはじめ、閣僚全員がお供としてきているのである。しかも、三ヶ月近く滞在している。その期間、公卿、女官、従者、炊事、賄い人、物資運搬人として勤めていた商工人、それから諸々の人たちを収容する仮舎の設営などもしなければならない。

 『日本書紀』には「有間温湯に幸(いでま)す」とあるのみで、その行在所の明記はない。天皇以下多数の随行者の仮舎を考慮すれば、相当広い敷地が必要である。有馬川流域で平地の広がり始めた山口地域に、そうした大規模な行在所を建設し、そこから天皇は有間の温湯に向かわれたのではなかろうか。その間、左右大臣以下閣僚は、政務に携わっていたのではないか。おそらくこの時期、当地方は大変な賑わいをみせたことであろう。天皇の滞在中はまさしく小国都にも等しい地域になっていたと想像される。

 有馬温泉への入口にあたる山口地域には孝徳天皇にまつわる伝承が多く残っている。山口の地域は北部へと広がった平野部と、東西にも延びた街道をもつ交通の要ともいえる位置にある。ここには、延喜式内社(朝廷から崇拝されている)公智神社が鎮座している。この公智神社はかつては県社として厚い信仰によって守られてきている。奉祀されている祭神は、木の神とされる久久(くく)能(の)智(ちの)神(かみ)である。

 山口地域には、昭和四十九年三月二十日、「西宮市指定無形民族文化財 芸能」に指定された「山口袖下踊り」が伝わっている。孝徳天皇の有間行幸の際に、歓迎の意味と天皇のお気持ちを少しでもお慰めするためにと、地域の人々が手足をふりふり踊ったものだといわれている。

                           『山口町史』


寒天づくり

 明治十八年(1885)船坂村字神子ケ畑で、地元の有志等三名が、共同出資による寒天製造工場をつくったのが始まりである。

 船坂地区は標高が高いため冬季の夜間温度は零下五度から十度で、しかも乾燥がちで、水も豊富なため、寒天づくりには最適の条件を備えていた。船坂から金仙寺にかけての船坂川流域一帯には次々と寒天工場ができ、工場の規模を表す「釜数」も先進地の、越木岩、鷲林寺、盤滝の各地区を上まわるまでに発展した。

 旧・大社村と比較して船坂の寒天づくりが発展した要因は、原藻(天草)の搬入が便利であったことがあげられる。旧・大社村の場合は天草を馬の背に乗せて運んでいたのに対し、船坂は大阪から福知山線で三田まで運び、そこから「馬力」と呼ぶ四輪車に積んで寒天工場まで運ぶ方法を取っていた。

 さらに大正四年(1915)になると、有馬軽便鉄道(後の国鉄有馬線)が開通したため、有馬口駅から工場まで大量の天草を直接搬入することができるようになった。

 船坂の寒天づくりは、大正末期から、昭和の初期にかけて最盛期であった。船坂川の両岸、約三キロメートルにわたって、大小十五の工場が立地していた。

 寒天をつくる期間は、冬期の十二月から、翌年二月までである。直接製造に従事する職人は、主に丹波地方から、農閑期を利用しての出稼ぎ労働者で、氷上郡青垣町(現・丹波市青垣町)の者が全体の八割方を占めていた。期間中の労働時間は、一日十二時間から十四時間にも及ぶ厳しいものであった。

 地元の住民も副業として、寒天製造に関連する下仕事を担当するなど、地域に与える経済効果は大きいものがあった。

 船坂でつくられる寒天は「細寒天」と呼ばれる高級品であった。戦前は中華民国など海外に輸出されていた。

                          『山口町史』

寒天作り唄

1. 船唄(その1)

 こころ丹波で身は船坂で

 落ちる涙は草の上

 冬は寒天夏ァところ天

 わたしゃあんたに有ちょう天

 今夜ここに寝て明日の朝は何処ぢゃ

 明日は田の中あぜ枕

 あなた嫌でもまた好く人が

 なけりゃわたしの身が立たぬ

2. 一般唄(その2)

 山が無ければ丹波が見えように

 丹波恋しや山憎や

 丹波出る時や涙で出たが

 合いのヒデ坂唄で越す

 お前百迄わしゃ九十九迄

 共に白髪の生える迄

3. しぼり唄

 しぼり袋のひざとりかねて

 これでしぼりさんと名乗らりょか

 おかいこしでも気に器量あれば

 末は棟梁さんとなるわいな

 (注)「おかいこし」とは寒天作り作業で下働きの人をいう。

                         『やまぐちの里』


寒天づくり

 明治十八年(1885)船坂村字神子ケ畑で、地元の有志等三名が、共同出資による寒天製造工場をつくったのが始まりである。

 船坂地区は標高が高いため冬季の夜間温度は零下五度から十度で、しかも乾燥がちで、水も豊富なため、寒天づくりには最適の条件を備えていた。船坂から金仙寺にかけての船坂川流域一帯には次々と寒天工場ができ、工場の規模を表す「釜数」も先進地の、越木岩、鷲林寺、盤滝の各地区を上まわるまでに発展した。

 旧・大社村と比較して船坂の寒天づくりが発展した要因は、原藻(天草)の搬入が便利であったことがあげられる。旧・大社村の場合は天草を馬の背に乗せて運んでいたのに対し、船坂は大阪から福知山線で三田まで運び、そこから「馬力」と呼ぶ四輪車に積んで寒天工場まで運ぶ方法を取っていた。

 さらに大正四年(1915)になると、有馬軽便鉄道(後の国鉄有馬線)が開通したため、有馬口駅から工場まで大量の天草を直接搬入することができるようになった。

 船坂の寒天づくりは、大正末期から、昭和の初期にかけて最盛期であった。船坂川の両岸、約三キロメートルにわたって、大小十五の工場が立地していた。

 寒天をつくる期間は、冬期の十二月から、翌年二月までである。直接製造に従事する職人は、主に丹波地方から、農閑期を利用しての出稼ぎ労働者で、氷上郡青垣町(現・丹波市青垣町)の者が全体の八割方を占めていた。期間中の労働時間は、一日十二時間から十四時間にも及ぶ厳しいものであった。

 地元の住民も副業として、寒天製造に関連する下仕事を担当するなど、地域に与える経済効果は大きいものがあった。

 船坂でつくられる寒天は「細寒天」と呼ばれる高級品であった。戦前は中華民国など海外に輸出されていた。

                          『山口町史』

寒天作り唄

1. 船唄(その1)

 こころ丹波で身は船坂で

 落ちる涙は草の上

 冬は寒天夏ァところ天

 わたしゃあんたに有ちょう天

 今夜ここに寝て明日の朝は何処ぢゃ

 明日は田の中あぜ枕

 あなた嫌でもまた好く人が

 なけりゃわたしの身が立たぬ

2. 一般唄(その2)

 山が無ければ丹波が見えように

 丹波恋しや山憎や

 丹波出る時や涙で出たが

 合いのヒデ坂唄で越す

 お前百迄わしゃ九十九迄

 共に白髪の生える迄

3. しぼり唄

 しぼり袋のひざとりかねて

 これでしぼりさんと名乗らりょか

 おかいこしでも気に器量あれば

 末は棟梁さんとなるわいな

 (注)「おかいこし」とは寒天作り作業で下働きの人をいう。

                         『やまぐちの里』


山口紙(和紙)

  昔からの戦後のつい近年まで飲み水に困った。山の湧水があって、そこまで水を汲みに行くのが、子どもの日課であったという。子守しながら、水汲みに行った子どもの面影が、この歌からもしのばれようというもの。

 「井戸もありましたんやが、塩気があってどうにもならん」

 そういう土地柄であるのに、山口紙(和紙)がさかんであったというのはなぜだろうか。「いや、その頃は有馬川の水もまたきれいなもんだしたんや」

 明治三十二年に、六甲山の裏山が鳴動を起こした。約三年間続いたという。その間に有馬の温泉は急に熱くなるやら、噴き出す湯は塩気が濃くなるやらで、とうとう川の石が塩気で白くなってしまった。京扇子の地紙で鳴らした山口紙も、有馬川の水に見放されて廃れたという。

 「山口で紙すかん者は、医者と坊主」といわれた紙漉が、この頃からぱったりと途絶えている。文化・文政時代から続いた紙漉きもいまはただの一軒もない。

 「扇子の骨竹がすうっとはいるというて、山口の紙はよろこばれたもんです」

                                                                                                   『やまぐちの里』


有馬籠

 「有馬籠」は、昔より有馬温泉への入湯客の土産品として、また茶道の生け花の籠として伝えられてきました。

 明治・大正と時代が下ると共に、農村の副業として、地域産業としての基盤が出来上がりました。明治時代になり、輸出産業が開かれるにつれて、最初は静岡のお茶を輸出する外箱として竹籠が作られ、輸出品の草分けとなりました。その後、クリスマス、イースターの用品として、ピクニック、ボトル・キャンディ、果物籠、屑籠、花籠等々、多くの品種と大量の籠が輸出用として生産され、大正、昭和初期に至るまで、山口町の産業として大いに発展しました。

 本会は、竹産業について、製作道具、製品、製作解説絵図などを現物展示すると共に、別に歴史として竹産業の発祥、推移、技法等について可能な限り検証しました。


有馬籠

 「有馬籠」は、昔より有馬温泉への入湯客の土産品として、また茶道の生け花の籠として伝えられてきました。

 明治・大正と時代が下ると共に、農村の副業として、地域産業としての基盤が出来上がりました。明治時代になり、輸出産業が開かれるにつれて、最初は静岡のお茶を輸出する外箱として竹籠が作られ、輸出品の草分けとなりました。その後、クリスマス、イースターの用品として、ピクニック、ボトル・キャンディ、果物籠、屑籠、花籠等々、多くの品種と大量の籠が輸出用として生産され、大正、昭和初期に至るまで、山口町の産業として大いに発展しました。

 本会は、竹産業について、製作道具、製品、製作解説絵図などを現物展示すると共に、別に歴史として竹産業の発祥、推移、技法等について可能な限り検証しました。


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