西宮・山口_地域情報
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 最初次のページへ >>

山口・地域探訪(1)

山口地域の秘密を紹介していきます。
このサイトをご覧になりながら、山口を探索されると、たっくさんの秘密を発見していただけると思います。

普段は誰もいない閉ざされた御旅所に、一年に一度だけ、タイムスリップ。


天平装束

平城京天平行列(5月3日)

ここで使われている装束をお借りして、2013年に「孝徳帝行幸再現行列」を実施したことがきっかけで、郷土資料館でこの装束を購入することとなりました。その後、西宮山口アルキナーレとの同時開催、郷土資料館春秋の企画展でこの装束を活用してきましたが、さらなる企画として、この天平装束をまとった天女の舞として「厳島五常楽」に注目、その舞人の育成に力を入れております。今年(2026年)は、本家の平城京朱雀門にて「厳島五常楽」を舞わせて頂きました。
※「天平装束着用体験」…要・予約
…郷土資料館では、「天平装束着用体験」もできます。


孝徳天皇

 孝徳天皇の大化三年(647)の条には「(大化)三年冬十月甲寅朔(きのえとらついたち)甲子(このえねのひ)、天皇幸二有間温湯一、左右(ひだりみぎ)大臣(おおおみ)・群卿大夫従焉(まえつきみたちおはみともなりしたがえり)。十二月(しはす)、晦(つごもりに) 天皇還(かえりまして)ㇾ自二温湯一停二武庫(むこうの)行宮(かりみやにとまりたまう)一」と記述されている。前年の大化二年に大化改新が実施されて、公地公民の制の確立、地方行政区画の設定、戸籍・計帳による班田収授法の実施、新税法の制定などが行なわれた。天皇の入湯は、こうした政治の大改革を終えられた翌年のことであり、単なる入湯を目的としたのではなく、国政の視察も兼ねての湯治ではなかったかとも考えられる。

 しかし、孝徳帝の入湯時につくられたとされる行宮の所在地については、いまもって定かではない。『日本書紀』においては、これについての記述はなく不明である。有馬地域では、古くから同町の「杉ヶ谷」近くであったという口伝や古老の話はあり、お宮跡・てんのう屋敷などと呼ばれている地がそれである。だが確実な遺構や遺物が残っているわけではない。

 孝徳天皇は左右大臣をはじめ、閣僚全員がお供としてきているのである。しかも、三ヶ月近く滞在している。その期間、公卿、女官、従者、炊事、賄い人、物資運搬人として勤めていた商工人、それから諸々の人たちを収容する仮舎の設営などもしなければならない。

 『日本書紀』には「有間温湯に幸(いでま)す」とあるのみで、その行在所の明記はない。天皇以下多数の随行者の仮舎を考慮すれば、相当広い敷地が必要である。有馬川流域で平地の広がり始めた山口地域に、そうした大規模な行在所を建設し、そこから天皇は有間の温湯に向かわれたのではなかろうか。その間、左右大臣以下閣僚は、政務に携わっていたのではないか。おそらくこの時期、当地方は大変な賑わいをみせたことであろう。天皇の滞在中はまさしく小国都にも等しい地域になっていたと想像される。

 有馬温泉への入口にあたる山口地域には孝徳天皇にまつわる伝承が多く残っている。山口の地域は北部へと広がった平野部と、東西にも延びた街道をもつ交通の要ともいえる位置にある。ここには、延喜式内社(朝廷から崇拝されている)公智神社が鎮座している。この公智神社はかつては県社として厚い信仰によって守られてきている。奉祀されている祭神は、木の神とされる久久(くく)能(の)智(ちの)神(かみ)である。

 山口地域には、昭和四十九年三月二十日、「西宮市指定無形民族文化財 芸能」に指定された「山口袖下踊り」が伝わっている。孝徳天皇の有間行幸の際に、歓迎の意味と天皇のお気持ちを少しでもお慰めするためにと、地域の人々が手足をふりふり踊ったものだといわれている。

                           『山口町史』


寒天づくり

 明治十八年(1885)船坂村字神子ケ畑で、地元の有志等三名が、共同出資による寒天製造工場をつくったのが始まりである。

 船坂地区は標高が高いため冬季の夜間温度は零下五度から十度で、しかも乾燥がちで、水も豊富なため、寒天づくりには最適の条件を備えていた。船坂から金仙寺にかけての船坂川流域一帯には次々と寒天工場ができ、工場の規模を表す「釜数」も先進地の、越木岩、鷲林寺、盤滝の各地区を上まわるまでに発展した。

 旧・大社村と比較して船坂の寒天づくりが発展した要因は、原藻(天草)の搬入が便利であったことがあげられる。旧・大社村の場合は天草を馬の背に乗せて運んでいたのに対し、船坂は大阪から福知山線で三田まで運び、そこから「馬力」と呼ぶ四輪車に積んで寒天工場まで運ぶ方法を取っていた。

 さらに大正四年(1915)になると、有馬軽便鉄道(後の国鉄有馬線)が開通したため、有馬口駅から工場まで大量の天草を直接搬入することができるようになった。

 船坂の寒天づくりは、大正末期から、昭和の初期にかけて最盛期であった。船坂川の両岸、約三キロメートルにわたって、大小十五の工場が立地していた。

 寒天をつくる期間は、冬期の十二月から、翌年二月までである。直接製造に従事する職人は、主に丹波地方から、農閑期を利用しての出稼ぎ労働者で、氷上郡青垣町(現・丹波市青垣町)の者が全体の八割方を占めていた。期間中の労働時間は、一日十二時間から十四時間にも及ぶ厳しいものであった。

 地元の住民も副業として、寒天製造に関連する下仕事を担当するなど、地域に与える経済効果は大きいものがあった。

 船坂でつくられる寒天は「細寒天」と呼ばれる高級品であった。戦前は中華民国など海外に輸出されていた。

                          『山口町史』

寒天作り唄

1. 船唄(その1)

 こころ丹波で身は船坂で

 落ちる涙は草の上

 冬は寒天夏ァところ天

 わたしゃあんたに有ちょう天

 今夜ここに寝て明日の朝は何処ぢゃ

 明日は田の中あぜ枕

 あなた嫌でもまた好く人が

 なけりゃわたしの身が立たぬ

2. 一般唄(その2)

 山が無ければ丹波が見えように

 丹波恋しや山憎や

 丹波出る時や涙で出たが

 合いのヒデ坂唄で越す

 お前百迄わしゃ九十九迄

 共に白髪の生える迄

3. しぼり唄

 しぼり袋のひざとりかねて

 これでしぼりさんと名乗らりょか

 おかいこしでも気に器量あれば

 末は棟梁さんとなるわいな

 (注)「おかいこし」とは寒天作り作業で下働きの人をいう。

                         『やまぐちの里』


寒天づくり

 明治十八年(1885)船坂村字神子ケ畑で、地元の有志等三名が、共同出資による寒天製造工場をつくったのが始まりである。

 船坂地区は標高が高いため冬季の夜間温度は零下五度から十度で、しかも乾燥がちで、水も豊富なため、寒天づくりには最適の条件を備えていた。船坂から金仙寺にかけての船坂川流域一帯には次々と寒天工場ができ、工場の規模を表す「釜数」も先進地の、越木岩、鷲林寺、盤滝の各地区を上まわるまでに発展した。

 旧・大社村と比較して船坂の寒天づくりが発展した要因は、原藻(天草)の搬入が便利であったことがあげられる。旧・大社村の場合は天草を馬の背に乗せて運んでいたのに対し、船坂は大阪から福知山線で三田まで運び、そこから「馬力」と呼ぶ四輪車に積んで寒天工場まで運ぶ方法を取っていた。

 さらに大正四年(1915)になると、有馬軽便鉄道(後の国鉄有馬線)が開通したため、有馬口駅から工場まで大量の天草を直接搬入することができるようになった。

 船坂の寒天づくりは、大正末期から、昭和の初期にかけて最盛期であった。船坂川の両岸、約三キロメートルにわたって、大小十五の工場が立地していた。

 寒天をつくる期間は、冬期の十二月から、翌年二月までである。直接製造に従事する職人は、主に丹波地方から、農閑期を利用しての出稼ぎ労働者で、氷上郡青垣町(現・丹波市青垣町)の者が全体の八割方を占めていた。期間中の労働時間は、一日十二時間から十四時間にも及ぶ厳しいものであった。

 地元の住民も副業として、寒天製造に関連する下仕事を担当するなど、地域に与える経済効果は大きいものがあった。

 船坂でつくられる寒天は「細寒天」と呼ばれる高級品であった。戦前は中華民国など海外に輸出されていた。

                          『山口町史』

寒天作り唄

1. 船唄(その1)

 こころ丹波で身は船坂で

 落ちる涙は草の上

 冬は寒天夏ァところ天

 わたしゃあんたに有ちょう天

 今夜ここに寝て明日の朝は何処ぢゃ

 明日は田の中あぜ枕

 あなた嫌でもまた好く人が

 なけりゃわたしの身が立たぬ

2. 一般唄(その2)

 山が無ければ丹波が見えように

 丹波恋しや山憎や

 丹波出る時や涙で出たが

 合いのヒデ坂唄で越す

 お前百迄わしゃ九十九迄

 共に白髪の生える迄

3. しぼり唄

 しぼり袋のひざとりかねて

 これでしぼりさんと名乗らりょか

 おかいこしでも気に器量あれば

 末は棟梁さんとなるわいな

 (注)「おかいこし」とは寒天作り作業で下働きの人をいう。

                         『やまぐちの里』


山口紙(和紙)

  昔からの戦後のつい近年まで飲み水に困った。山の湧水があって、そこまで水を汲みに行くのが、子どもの日課であったという。子守しながら、水汲みに行った子どもの面影が、この歌からもしのばれようというもの。

 「井戸もありましたんやが、塩気があってどうにもならん」

 そういう土地柄であるのに、山口紙(和紙)がさかんであったというのはなぜだろうか。「いや、その頃は有馬川の水もまたきれいなもんだしたんや」

 明治三十二年に、六甲山の裏山が鳴動を起こした。約三年間続いたという。その間に有馬の温泉は急に熱くなるやら、噴き出す湯は塩気が濃くなるやらで、とうとう川の石が塩気で白くなってしまった。京扇子の地紙で鳴らした山口紙も、有馬川の水に見放されて廃れたという。

 「山口で紙すかん者は、医者と坊主」といわれた紙漉が、この頃からぱったりと途絶えている。文化・文政時代から続いた紙漉きもいまはただの一軒もない。

 「扇子の骨竹がすうっとはいるというて、山口の紙はよろこばれたもんです」

                                                                                                   『やまぐちの里』


有馬籠

 「有馬籠」は、昔より有馬温泉への入湯客の土産品として、また茶道の生け花の籠として伝えられてきました。

 明治・大正と時代が下ると共に、農村の副業として、地域産業としての基盤が出来上がりました。明治時代になり、輸出産業が開かれるにつれて、最初は静岡のお茶を輸出する外箱として竹籠が作られ、輸出品の草分けとなりました。その後、クリスマス、イースターの用品として、ピクニック、ボトル・キャンディ、果物籠、屑籠、花籠等々、多くの品種と大量の籠が輸出用として生産され、大正、昭和初期に至るまで、山口町の産業として大いに発展しました。

 本会は、竹産業について、製作道具、製品、製作解説絵図などを現物展示すると共に、別に歴史として竹産業の発祥、推移、技法等について可能な限り検証しました。


有馬籠

 「有馬籠」は、昔より有馬温泉への入湯客の土産品として、また茶道の生け花の籠として伝えられてきました。

 明治・大正と時代が下ると共に、農村の副業として、地域産業としての基盤が出来上がりました。明治時代になり、輸出産業が開かれるにつれて、最初は静岡のお茶を輸出する外箱として竹籠が作られ、輸出品の草分けとなりました。その後、クリスマス、イースターの用品として、ピクニック、ボトル・キャンディ、果物籠、屑籠、花籠等々、多くの品種と大量の籠が輸出用として生産され、大正、昭和初期に至るまで、山口町の産業として大いに発展しました。

 本会は、竹産業について、製作道具、製品、製作解説絵図などを現物展示すると共に、別に歴史として竹産業の発祥、推移、技法等について可能な限り検証しました。


Untitled

有馬軽便鉄道(有馬鉄道株式会社)(国鉄有馬線)

  大正4年、福知山線三田駅~有馬(12.2キロ)の間、この山口村に蒸気機関車(汽車)が走っていました。(1日開設当初は6往復、後に7往復)所要時間は約35~40分余り、3つある(塩田、新道場、有馬口)停車場(駅)のうち下山口村字吉田(光明寺の下)に有馬口駅がありました。駅前橋が現在も残っている。

 会社側より駅舎建設に対する応分の寄付金の要請があり千円を拠出し会社側に手渡した。駅名が山口に命名されることを期待したものであったが、有馬口と呼ぶ駅が設けられた。

(村長が有馬鉄道株式会社へ山口駅実現のための要望書を提出していた。)

   大正8年3月31日政府が買収し国鉄有馬線となった。

 機関車は、当初は3050型蒸気機関車、後にC12形 C12164が走っていた。(いずれも過熱式のタンク式蒸気機関車)蒸気機関車の一種で水、石炭を機関車本体に積載する形態の機関車を指す。

 全線単線で、有馬方面へは機関車が先頭で前向き、三田方面へは機関車だけが先頭で後ろ向きに走っていた。

(逆機(ぎゃくき)とは、蒸気機関車のような片運転台の機関車が、転車台のない線区において、逆向きで列車を牽引することである。バック運転とも言う。)

 有馬口、有馬間は当時国鉄の建設基準の最高値、千分の三十三の登り勾配が随所にあって、雨天の日などはよく機関車の車輪が空転して、機関士の腕の見せ所であった。

 太平洋戦争が深刻化し始めた昭和18年、軍部は軍需物資輸送の為、篠山地方に鉄道建設が必要で、有馬線の資材を使用することになり、昭和18年6月30日、国策により遂に有馬線の廃線が強行されました。(28年間運行)残念ながら、廃線をやめてほしいと言う反対運動ができる状態ではなかったようです。

 このことにより、山口村の損失は大きく、昭和26年西宮市との合併まで人口の伸びは全く見られませんでした。

 平成23年までは、山口町から有馬に行く途中(山口町中野十八丁川)に線路の橋脚や橋台が残っていましたが、有馬山口線バイパスを作る為に取り壊されました。

【写真】

公智神社前風景  昭和初期の公智神社前風景。国鉄有馬線線路と腕木式信号機が見える。

(山口町史 資料編)

中野 十八丁川の橋粱建設工事 (山口町史 P266)(やまぐちの里 P16)

有馬口駅の全景(昭和14年頃) 下山口光明寺下 (山口町史 P269)

中野十八丁川に残っている旧・有馬線の橋脚 (山口町史 P271)(やまぐちの里 P13)

夫婦松より丸山を望む風景 国鉄有馬線が開通していたころ撮影 (山口村誌 P4)

橋脚を走る機関車、後ろ向きに走る機関車など5枚 当会事務所保有

【ビデオ】

  失われた鉄道を求めて~国鉄有馬線~ 10分 当会事務所保有


丸山_コバノミツバツツジ

4月11日撮影

山口_ココロの原風景をお楽しみ下さい。


1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 最初次のページへ >>