社会には様々な考えが渦巻いていています。
そのため、その意見と意見がぶつかり合って対立を生み、
時にはその対立が紛争や戦争という事態を引き起こしてきました。
だから、わたしたちはその考えの相違を恐れ,
それゆえに自分の意見を少し控えたりしてしまいます。
その結果、わたしたちのコミュニケーションにはどんな満足を得ているだろう。
この想定を世界に視点を移してみるなら
わたしたち人類は、どのようにその意見の相違を乗り越えているだろう。
私達が立っているところ
私とというものが、「もの言う立場」というものがあるとしたら、それはどいうものだろう。
一つの意見というものには、それが何かによって裏付けられ、
それ事態、何かに依存した意見であることがわかる。
それが、すなわち、私達が無意識に発している意見であり、
その意見を裏付ける根拠となる立場があることに気づく。
このように、わたしたちの意見というものは、何かからの依存によってしか成り立たないのだ。
そして、このように、何かの意見である以外ない自分を生きることになる。
わたしたちの可能はどこへ行ってしまったのか?
このように、私達が、もう既に知っている以外の
誰であるかを決定している意見というものは何か?
さらにその理解をを深めたい。
その無意識に発せられている意見はどこからくるか?
もし、私達の意見が無意識の何かに依存してる考えそのものであるとしたら、
その意見である自分は、何を発しているのだろう。
人間とは何?とは、どう関係しているだろうか。
こうしたこの意識や意見を持って何を守ってきただろう。
私達、人間であるということに、つきまとう生存競争の世界に、
投げ込まれた私達の考えというものがある!としたら、それはどんな考えでしよう。
真っ当な意見の体裁を整えている会話や、納得できる、理解できる、肯定できる、
その会話である会話の意味は何かを問うことは滅多にない。
うーんわかる、わかる、それで?
だから何!何を言いたいの!
私達は、永遠にこの説明を求め続けている。その会話の意味は何かを。
そして私達の言説において、何を言っても、聴いても、どう説明されようとも、
不納得の域から抜け出すことができないのだ。
ここに、私達は誰なのかの問いが続く。
この私の意見である私は、本当の私であるのかの問いがそれだ。
そして、その意見がどこからきているかに、私達は無自覚であるしかない。
もしかしたらその意見や考えというものが自分の意思じゃない!ということがあるだろうか。
その意見が、またその考えが自分自身のものであるためにあなたに問う!
その考えの意味は何か、その意見や考えがある理由をを証明する根拠は何か。
わたしたちの人生においてどれ程の時をこの問いに答えることのない人生を費やしてきたでしょう。
次回真の私は誰?を探求します。
この項は、私である意見に固執してきたことでした。
次回へ