前回からの続きです。(編集の都合で一部順序が変わります 
 
昭和10 (1935) 年
6月26
「月見汁、目玉焼のお昼食の時 外出して頂かず、夕方に生卵をもらふ様なことをなさらない様に願います。外泊の方のお食事の分を取って召上ることも この分は数に入って居りませんから せぬ様。」
「10時より防空演習。10時半前に全部消燈。」
 
6月28日
「新潟方面への演奏旅行隊、30名行かれました」
 
7月1日
「終日蒸し暑いので これから暑い日だけお風呂(8時より9時半まで)がある事となる。試験中は消燈後でなくてもお部屋でさわがないやう静かにする事との掲示」
 
7月9日
「石場さんに お家より「お父様危篤」の電報 つづいて午後8時半頃 遂に御逝去の電報が来る 試験も済んでほっと、なすった時この大きな御不幸 心からご同情申し上げます。 石場さん忙ぎ御帰郷なさる 」
 
10月5日
四家文子独唱会に9名行かれる」
 
10月11日
「お手紙の検閲を致しました」
※投函の郵便は担当の先生がその都度検閲していたようです。 先生が留守の時は寮生が検閲をしています。
 
11月2日
三浦環(たまき)独唱会に15名いらっしゃいました。
11月4日から門限が6時※になる掲示が出ました。お互いに気をつけて遅れないやうに致しませう。」
※外出届のない寮生の門限は6時。 この頃の消燈は10時半。
 
12月24日
「大多数の方が帰省されましたので、大へん淋しくなりました。」
 
昭和11 (1936)  ※この年6月に邦楽科(能楽・長唄・筝曲)が誕生しました。
 
1月3日
「午後5時半より新宿第一劇場の新歌舞伎を見にいきました。
韓(仁河)さん、東宝劇場に宝塚少女歌劇を見にいらっしゃいました。(正月に帰省しなかった留学生の名前が時々出てきます。)
 
1月20日
三浦環さんの音楽会に31名いらっしゃいました。」
 
1月21日
諏訪 根自子んの音楽会に16名いらっしゃる。」
諏訪 根自子(1920~2012)ヴァイオリニスト。天才美少女といわれる。
 
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 1月30日
シヤリアピン※の音楽会に19名行かる。」
 
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2月1日
 
シヤリアピンの音楽会に38名行かる。」  ※フョードル・シャリアピン(1873~1938)
 
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20世紀前半に活躍したロシア出身のオペラ歌手(バス)が、亡くなる2年前に来日。
 
2月1日公演の25日後、会場だった日比谷公会堂近くの皇居で二・二六事件が起きます。
 
・寮生が日比谷公会堂で聴いた翌々日の3日、シヤリアピンはビクターのスタジオで「蚤のみの歌」と「ヴォルガの舟歌」 をレコード吹き込みします。声の調子がよかったとはいえ、彼の最後といわれる録音が、日誌を読むと、奇跡的な録音であったことが分かります。
 
録音当日3日の週番日誌によると、「風邪が大変流行して居るので注意なさいとの掲示あり。」、4日は「午後より大雪。」、5日の日誌には、「昨日の雪のため省線や市電が動かず授業が大分休講となりました。」 と記されています。
 
 
 
Feodor Chaliapin Febr 6,1936 Tokyo
 
シャリアピンが2月3日に吹き込んだ「の歌」「ヴォルガの舟歌」のSP盤ラベル横には、彼のサインが刻印・プレスされています。レコード制作工程で、原盤にサインしたものと思われます。(SP盤コレクションより)
 
・シヤリアピンは、テノールのエンリコ・カルーソーと並び称される偉大な歌手でしょう。 蚤の歌、ステンカ・ラージン、ヴォルガの舟歌 などは絶品です。
 
 
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シャリアピンの芸術」アリアと歌曲集
 蚤(のみ)の歌、ステンカ・ラージン、ヴォルガの舟歌 
東芝EMI GR2148
 
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シャリアピン(バス) 歌劇「ボリス・ゴドゥノフ」より 
ロシア歌劇アリア集
東芝EMI GR2015
                                                
 つづく